人になりたいと思ったサル

天気……今日は蒸し暑い一日だった。朝は空全体が厚い雲に覆われていたので、午後からひと雨降るかもしれないと思った。でも結局、雨は降らないまま、日が暮れていき、夜になると雲のすきまから月が顔をのぞかせていた。

昨夜は、老いらくさんが提供してくれた洞窟のなかで初めての夜を過ごした。洞窟のなかは夏とは思えないほど涼しくて快適だったが、それでもぼくはよく眠れなかった。ぼくが急にいなくなったことで、杜真子が心配したり、寂しく思っているのではないだろうかと思って、気がかりでたまらなかったからだ。杜真子は寝る前には必ず、ぼくの顔を、自分の顔とくっつくほどに近づけてから、今日一日の出来事を、つぶやくように話していた。初めのうちは、ぼくは杜真子が何を話しているのか、さっぱりわからなかったが、聞いているうちに少しずつわかるようになってきた。杜真子もそれがわかったのか、うれしそうな顔をしながら、ますます熱心に語りかけてくれた。杜真子は寝る前には女の子らしいかわいい花柄の模様が入ったネグリジェに着替えてから、ぼくを抱いてベッドのなかに入り、ぼくのおでこに軽くキスをして「おやすみなさい」と言ってから部屋の明かりを消していた。杜真子の寝息が聞こえてきたあと、ぼくは静かに眠りに就いていた。こういった習慣がぼくの体のなかに深くしみついていたので、杜真子がそばにいない夜を過ごすのは、思っていた以上に寂しくてたまらなかった。
(杜真子は大丈夫だっただろうか。よく眠れただろうか)
ぼくはそんなことを思いながら、寝ぼけまなこをこすりながら朝を迎えた。
ぼくは杜真子のことが気になって居ても立ってもいられなくなったので、すぐに翠湖公園を出て、杜真子のうちがあるほうへ向かっていた。すると途中で、向こうから親友の地包天がやってくるのが見えた。地包天は杜真子と同じアパートに住んでいて、杜真子やぼくとは顔なじみの犬だし、ぼくは犬の言葉も話せるので、急いで地包天のほうに駆けていった。すると地包天もぼくに気がついて駆け寄ってきた。
「笑い猫、昨日はどこへ行っていたの。とても心配していたわ」
地包天がそう言った。
「ごめん、ごめん」
ぼくはそう言って地包天に謝った。ぼくはそのあと地包天に
「杜真子のうちを出て、翠湖公園のなかで暮らすことにした」
と話した。すると地包天が、びっくりしたような顔をして
「本当ですか?」
と聞き返してきた。ぼくはうなずいた。すると地包天が
「どうして事前に話してくれなかったの?」
と聞いた。
「話そうかと思ったけど、おまえに強く引きとめられたら、決心が揺らぐと思って話すことができなかった」
ぼくは複雑な顔をしながら、そう答えた。
「急に姿が見えなくなったから、杜真子がとても心配していたわ」
地包天がそう言った。それを聞いて、ぼくの心はひどく痛んだ。
「杜真子に申し訳なく思っている。でもぼくは人の言葉が話せないから、ぼくの気持ちを杜真子に伝えることができないので、黙って出ていくしかなかった」
ぼくは地包天にそう答えた。
「杜真子は昨日、学校から帰ってきたときに、おろおろしながらわたしのうちにやってきて、わたしに何か聞いていたわ。でもわたしは人の言葉を聞いてもわからないから杜真子が何を言っているのかさっぱりわからなかった。杜真子はそのあと寂しそうな顔をしながらわたしのうちを出ていって、血眼になって何か探していた。それを見て、わたしは笑い猫がいなくなったのだと思った」
地包天がそう言った。
「そうか。杜真子にもおまえにも心配をかけて悪かった」
ぼくはすまなさそうに、そう言った。
「わたしも杜真子といっしょに日が暮れるまで笑い猫を探していたわ。でもどこにもいなかったから、寂寞(せきばく)としながら、うちへ帰っていった。杜真子は悲しそうにしくしくと泣いていて、涙がほおを伝わって流れていた」
地包天がそう言った。
「そうか。そんなに悲しい思いをさせていたのか。ぼくはこれからすぐに杜真子のうちへ行って元気な顔を見せて安心させてくるよ」
ぼくは地包天にそう言った。すると地包天が
「杜真子はさっき学校へ出かけていったから、うちにはいないわ」
と言った。
「そうか。だったら、ぼくはこれから学校へ行く」
ぼくは地包天にそう言った。すると地包天が
「学校がどこにあるのか知っているの?」
と聞いた。
「知っているよ。ぼくは以前、学校の校門の前までついていったことがあるし、下校時間になると校門の前で杜真子を待っていたこともあるから」
ぼくはそう答えた。
「そうですか。だったら学校まで行けるわよね」
地包天がそう言った。ぼくはうなずいた。
「おまえもいっしょに行かないか?」
ぼくは地包天を誘った。すると地包天が
「いいわよ。ついていくわ。杜真子が喜んでいる姿を、わたしも見たいから」
と言った。ぼくはうなずいた。
それからまもなく、ぼくは地包天といっしょに杜真子が通っている学校へ行った。学校に着くと、教室棟の前にある花壇のなかに入っていって草花のなかに体を隠しながら、教室のなかの様子をうかがっていた。どの教室もしんとしていて、子どもたちの声は聞こえてこなかった。早朝の自習の時間が始まっていて、みんな静かに勉強しているのではないかと、ぼくは思った。しばらくするとベルが鳴って、それを合図に子どもたちが一斉に教室のなかから飛び出してきて、校庭のなかで、バスケットボールやバドミントンをしたり、木の下で歌ったり、ハーモニカを吹いたりする子どもがいた。ぼくと地包天は目を凝らしながら杜真子の姿を捜していた。杜真子がいたら、ぼくはすぐに花壇のなかから飛び出していって杜真子の足元まで駆け寄っていくつもりでいた。でもどんなに捜しても杜真子の姿はなかった。杜真子はインドア派の女の子だから、休み時間も外にはあまりで出ないで、教室のなかでじっとしているのかなあと思ったりもしていた。
しばらくしてから地包天が顔をあげて教室棟の屋上を見ながら
「あっ、あそこにいるのは杜真子ではないかな」
と言った。ぼくは地包天が手で指さしたほうを見た。すると確かに屋上にいるのは杜真子に間違いなかった。
「あっ、本当だ、あんなところにいる」
ぼくはびっくりして、そう答えた。杜真子はうつろな目で遠くをぼうっと見ながら、物思いにふけっているような顔をしていた。周りには人はだれもいなくて一人だけで、ぽつんと立っていた。
(もしかしたら、ぼくが急にいなくなったから、心のなかに、ぽっかりと穴が開いたように思って、あんなに憂いに沈んだような顔をしているのではないだろうか)
ぼくはそう思った。ぼくはすぐにでも教室棟のなかに入っていって急いで階段をかけのぼって杜真子のそばまでいきたいと思った。でもぼくが教室棟のなかに入ったら、教師やほかの子どもたちに見つかってすぐに追い出されるに決まっているのでできなかった。ぼくは花壇のなかから大きな声で鳴いて、ぼくがここにいることを杜真子に知らせることにした。でもどんなに大きな声で鳴いても休み時間を楽しんでいる大勢の子どもたちの歓声にかき消されて、ぼくの声は教室棟の屋上にいる杜真子まで届かなかった。それからまもなく休み時間の終わりを告げるベルが鳴り、校庭に出ていた子どもたちは教室のなかに戻っていった。教室棟の屋上にいた杜真子の姿も消えていた。ぼくと地包天はそれからもずっと学校のなかにいて、杜真子が校庭に出てくるのを待っていた。でも杜真子は休み時間になっても一度も校庭に出てこなかった。お昼近くになったとき、地包天は、うちで飼い主さんが待っているからと言って帰っていった。ぼくはそれからもずっと学校のなかに残り続けた。三時を過ぎたころ学校の授業が終わり、子どもたちがランドセルを背負って教室棟のなかから出てきた。ぼくは目を凝らしながら杜真子の姿を捜した。たくさんの子どもたちのなかから杜真子を捜すのは大変だったが、教室棟の屋上に立っていたとき、淡いピンク色のセーターを着ていたので、その色のセーターを着ている女の子にしぼって捜し続けた。すると杜真子の姿を見つけることができたので、ぼくは急いで杜真子の足元まで駆け寄っていった。
「あっ、笑い猫」
杜真子がびっくりして、目を白黒させていた。
「どこに行っていたの。ずっと捜していたわ」
杜真子がそう言った。杜真子はそのあと、いとおしそうにぼくを抱きかかえてくれた。
「もうこれからは、どこにも行ったらだめよ。笑い猫がいなかったから、昨夜は心配でよく眠れなかったし、今日、学校に来てからも笑い猫のことばかり考えていたから、授業の内容が頭のなかに全然入ってこなかった」
杜真子がそう言った。それを聞いて、ぼくは杜真子にとても申し訳なく思った。
「さあ、これから、わたしといっしょにうちへ帰ろう。笑い猫が好きなものをたくさん食べさせてやるから」
杜真子がそう言った。杜真子の気持ちはありがたかった。でもぼくはもう杜真子のうちへは帰らないと心に決めていたので、にっこりと笑みを浮かべるわけにはいかなかった。ぼくは杜真子の腕のなかでもがいたので、杜真子はびっくりして、ぼくを地面におろした。その瞬間、ぼくはぱっと駆けだした。
「待って。どこへ行くの?」
杜真子がそう言いながら、ぼくのあとから追いかけてきた。ぼくは脇目も振らずに一目散に翠湖公園のなかまで走っていった。杜真子は息を切らしながら、ぼくを追ってきた。翠湖公園に着くと、ぼくは昨日から住み始めたばかりの洞窟のところまでかけていった。杜真子もついてきた。洞窟の前までくると、ぼくは入口をふさいでいるかずらを払いのけて、洞窟のなかに入っていった。ぼくの姿が急に消えたので、杜真子はびっくりしていたが、ぼくが洞窟のなかから一声鳴くと、杜真子は手でかずらを払いのけて、洞窟のなかをのぞきこんでいた。
「笑い猫、もしかしたら、これからは、このなかで暮らすことにしたの?」
杜真子が聞いた。ぼくは、にっこりとうなずいた。杜真子はそのあと、この洞窟がどんなところなのか自分の目で確かめようと思って洞窟のなかに入ってきた。直径二メートルぐらいの洞窟の入口からなかに入ると奥行が五メートルぐらいあって、太陽の光が奥まで届いていて暗くはなかったし、洞窟のなかの温度は外よりも低くて涼しかったので、気に入ったようだった。
「いいところを見つけたわね。笑い猫がわたしのそばにいなくなるのは寂しいけど、笑い猫が自分で選んだ生き方だから、笑い猫の生き方を尊重するわ。食べ物に困らないように、週末ごとにここに来て、キャットフードや、笑い猫が大好きなミニトマトや干し魚を一週間分持ってくるわ」
杜真子がそう言ってくれたので、ぼくはとてもうれしかった。
「いとこの馬小跳にも、笑い猫がここで暮らすようになったことを知らせてもいいでしょう。知らせたらきっと、馬小跳も食べ物を持ってきてくれるでしょうから」
杜真子がそう言った。ぼくはそれを聞いて、にっこりとうなずいた。それからまもなく杜真子は
「では今度の週末にまたくるわね」
と言ってから、帰っていった。