人になりたいと思ったサル

天気……朝晩は涼しいが、昼間は暑い。初夏のこの時季は新緑がまぶしくて、日の光を浴びて若葉がきらきらと輝いている。新鮮な緑色の風に吹かれながら気持ちよさそうに散策している人たちの姿が、公園のあちこちで見られる。

五月のある日、ぼくは杜真子のうちから出ていくことにした。杜真子のお母さんからひどく怒られたからだ。ぼくが悪いのではない。老いらくさんのせいだ。老いらくさんには
「うちには絶対にこないでください」
で、あれほどお願いをしていたのに、ぼくの言葉を無視して、うちへやってきて、台所のなかをあちこち走り回って、杜真子のお母さんの逆鱗(げきりん)に触れたからだ。お母さんは、ほうきを持って老いらくさんを追いかけていって、老いらくさんをうちのなかから外へ追い出そうとしていた。でも老いらくさんは、捕まらないようにすばしこく動いていたので、お母さんはなかなか老いらくさんを、うちの外へ追い出すことができないでいた。疲れたお母さんは猫のぼくに八つ当たりをして
「この猫はネズミを見ても追いかけていって捕まえるどころか、ただ、ぼうっとして見ているだけ。こんな役立たずの猫なんか、うちで飼っても意味がない」
と言って、お母さんは老いらくさんを追い出すことができない腹立たしさをぼくに向けて、ぶつぶつと言っていた。ぼくには人が言った言葉の意味がわかるので、お母さんの辛辣(しんらつ)な言葉を聞いて、心のなかがひどく傷ついた。
(杜真子のお母さんに、そこまでひどく言われた以上、もうこれ以上、このうちのなかに住み続けるわけにはいかない)
ぼくはそう思って、うちを出ることにした。ぼくが出ていったら、杜真子がひどく悲しむことはわかっている。ぼくだって、杜真子と別れるのは辛い。でも今はそんなことを言っている場合ではない。杜真子のお母さんに嫌われた以上、出ていかないわけにはいかないからだ。この家に愛着を感じないこともないが、ぼくがこのうちから出ていったほうが、かえって、このうちに平穏な日々がもたらされるかもしれない。ぼくはそう思った。というのも、杜真子とお母さんは、ぼくのことが原因で、口げんかをすることがよくあったからだ。ぼくがいなくなったら、けんかの原因が減って、仲のよい親子の関係に戻っていくかもしれない。ぼくはそう思った。物事をよい方向に考えると、鉛(なまり)のように沈んだ重い気持ちも少しは楽になってきた。
杜真子が学校に行っている間に、ぼくはうちを出ることにした。杜真子のお母さんは居間でテレビを見ながら編み物をしていたので、ぼくが玄関のドアのすきまから外に出るのに気がつかなかった。これから、どこで、どうやって生活していけばよいのか、ぼくには皆目(かいもく)見当もつかなかったが、野良猫となって気ままに生きていくのも悪くはないかなと思っていた。
杜真子のうちを出てから、しばらく歩いていると、向こうから老いらくさんがやってくるのが見えた。ぼくは駆け寄っていって、杜真子のうちを出てきたことを話した。すると老いらくさんは、自分のせいで、ぼくまでとばっちりを食って、うちを出なければならなくなったことを、少しも申し訳なく思っている風(ふう)ではなかった。
「『動物は人にとって一番の友だち』というではないか。それなのに、杜真子のお母さんは、どうして、わしをあんなに追いかけまわして、うちの外へ追い出そうとしたのかなあ」
老いらくさんは合点がいかないような顔をしていた。
「一口に動物と言っても、いろいろいるではありませんか。ペットとして飼っている犬や猫は追い出そうとはしません」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「そうか、わしはペットではないからな」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんがそのあと
「だれか、わしをペットとして飼ってくれる人がいないかなあ。そうしたら追い出されることはないだろうから」
老いらくさんが真顔でそう言った。それを聞いて、ぼくは思わずおかしくなって笑ってしまった。
「笑い猫、どうして笑っているのだ。何がそんなにおかしいのだ?」
老いらくさんが不愉快そうな顔をしながら、そう聞き返した。
「ネズミのなかにもハムスターのようにペットとして飼ってもらえるネズミもいます。でも老いらくさんのような普通の家ネズミはペットとして飼ってもらえません」
ぼくはそう答えた。
「同じネズミなのに、どうしてそのように違うのだ?」
老いらくさんがそう言って、不満そうな顔をしていた。ぼくはそれを聞いて
「家ネズミは害獣だからです」
ぼくは単刀直入にそう言った。それを聞いて老いらくさんが顔を曇らせていた。
「害獣か。確かに、わしら家ネズミは人の食べ物を盗み食いしたり、家具をかじったり、あちこちに糞(ふん)をして、悪いことのし放題だからな。わしも昔は、悪いことをたくさんしていた。でも今は更生して、悪いことはなるべくしないようにしている」
老いらくさんがそう言った。ぼくはそれを聞いて
「わかりますよ。そうでなかったら、ぼくは老いらくさんと親友になっていなかったです」
と答えた。
「だったら杜真子のお母さんは、どうしてわしをあんなに追いまわしていたのだ?」
老いらくさんが聞いた。
「家ネズミが、うちのなかにいると衛生上よくないからです」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。それを聞いて老いらくさんは首をかしげていた。
「わしの体には病原菌はついていないし、ダニやノミもついていないから人の健康に害を及ぼすことはないはずだがなあ」
老いらくさんがそう言った。
「病原菌や寄生虫がいるかどうかは見た目にはわからないし、家ネズミを見たら追い出そうとするのが人の性(さが)ですから」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「……」
老いらくさんは返答に詰まっていた。
「杜真子のお母さんは、もともと動物があまり好きな人ではないから、ぼくに対しても冷たかったです。部屋のなかが抜け毛で汚くなるとか、爪で家具をひっかくとか言って、いつもぼやいていました。でも杜真子がぼくのことを大切に思ってくれているのがわかったから、ぼくはこれまでじっと我慢していました」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「そうか。そういうわけだったのか」
老いらくさんがうなずいていた。
「杜真子のお母さんの機嫌をなるべく損ねないように、ぼくはこれまでは、とても気をつかっていました。でも、これからは自由にのびのびと生きようと思っています」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「そうか。これからは野良猫として自由を謳歌(おうか)しながら生きることにしたのか」
老いらくさんがそう言った。ぼくはうなずいた。
「野良猫になったら、自分で食べ物の調達をしたり、寝るところを探さなければならなくなるので大変かと思いますが、自分で決めた生き方ですから頑張ろうと思っています」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。すると老いらくさんが
「そうか。わしもできるだけ、おまえに協力することにする」
と言ってくれた。
「ありがとうございます」
ぼくはそう答えた。老いらくさんがそのあと
「翠湖公園のなかに、わしがこれまで夏のねぐらとして使ってきた洞窟がある。洞窟の入口には、かずらがびっしり生えていて、外からは入口が見えないので、人には知られていない。そこをおまえに提供するから、これからはその洞窟のなかを住みかとして生活したらどうか」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくは興味を覚えた。これまで翠湖公園に行ったことはなかったし、公園のなかにそのような洞窟があるとは思ってもいなかった。
「いいですね。どんなところなのか行ってみたくなりました」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「食べ物のことも心配しているのではないのか?」
老いらくさんが聞いた。ぼくはうなずいた。すると老いらくさんが
「わしや、わしの子孫たちは翠湖公園のなかに生えている草を食べたり、ごみ箱に捨ててある食べ残しのものを食べている。おまえもそうしたらどうか」
老いらくさんがそう提案した。
「ネズミと猫では食べるものが違います。ぼくはこれまでずっとキャットフードを中心においしいものばかりを食べてきましたから、そのようなものには食指が動きません」
ぼくは正直にそう言った。
「そうか。それは困ったな。でもくれぐれも言っておくが、ネズミは絶対に食べないでほしい」
老いらくさんがそう言った。ぼくはそれを聞いて思わず、くすりと笑った。
「猫はネズミを食べることが好きなことは、ぼくも知っています。でもぼくは普通の猫とは違いますからネズミは絶対に食べません」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「そうか、それなら安心した」
老いらくさんが、ほっとしたような顔をしていた。
「食べ物のことは、あとで考えることにしますから、ぼくをひとまず翠湖公園に連れていって、公園のなかを案内してくれませんか」
ぼくは老いらくさんにそう言った。すると老いらくさんが
「わかった。ではこれからさっそく、おまえを翠湖公園に連れていくことにしよう」
と言った。
それからまもなくぼくは老いらくさんのあとについて翠湖公園へいった。思っていた以上に大きな公園だったので、ぼくはびっくりしていた。公園のなかのあちこちに花壇があって、いろいろな花が咲いていて、とてもきれいだった。湖のなかにはハスの葉が大きく広がっていて、ハスの間を錦鯉(にしきごい)がゆっくりと泳いでいるのが見えたり隠れたりしていた。湖畔には柳の木が整然と植えられていて、湖面すれすれにまで垂れている枝が、初夏の風に吹かれながら、そよそよと揺れていた。湖畔に沿って長く続いている遊歩道の上をしばらく歩いていると、老いらくさんが突然、遊歩道からはずれて、かずらがびっしりとはびこっているなかに入っていった。ぼくもあとから、かずらをかき分けながら入っていった。
「笑い猫、ここだよ」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんはそのあと、かずらを払いのけた。すると、かずらの向こうに直径二メートルほどの丸い穴が開いているのが見えた。
「笑い猫、ここが洞窟の入口だ」
老いらくさんがそう言った。ぼくはそれを聞いて、興味深そうに穴のなかをのぞきこんだ。
「奥行は五メートルぐらいある。このなかに入って、ご飯を食べたり、寝たりすることができる。なかは夏でも涼しいから、わしのお気に入りの場所の一つだ。ここをおまえに提供する」
老いらくさんがそう言った。
「いいのですか、ぼくがもらっても……」
ぼくは遠慮がちに老いらくさんに聞いた。
「いいよ。おまえは、わしの大切な友だちだから、喜んで提供する」
老いらくさんがそう言った。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。ぼくはそのあと老いらくさんのあとについて洞窟のなかに入っていった。暗いかと思っていたら意外と明るかった。お日様の光が洞窟の一番奥まで入っていて、洞窟のなか全体がはっきりと見えた。洞窟の入口を隠すように覆っているかずらは、すだれのように垂れ下がっていて、なかからは外の様子がうかがえたが、外からはなかの様子は見えないことがわかった。
「どうだ、気に入ったか?」
老いらくさんが聞いた。
「もちろんです。とても気に入りました」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「そうか、それはよかった」
老いらくさんがそう言って、うれしそうな顔をしていた。老いらくさんは、それからまもなく、洞窟のなかから出ていった。ぼくはそのあとずっと、洞窟のなかにいて、外から時々聞こえてくる小鳥の声に耳を傾けたり、入口の前に立って沈みゆく夕日を眺めたりしていた。