人になりたいと思ったサル

天気……今朝、目が覚めてから、うちの外に出ると、風のなかに、よいかおりがしたので、においをかぐと、とてもさわやかな気持ちになった。朝日が昇るにつれて、かおりは、だんだん薄れていって、やがて消えていった。昼間は風のなかにかおりはしなかったが、日が沈むと夜来香(月下美人)の香ばしいかおりが風に乗って漂ってきた。

昨夜はサルといっしょに過ごした。ぼくがサルの言葉で話しかけてもサルは、うんともすんとも答えないで、ぼくのほうをじっと見ているだけだった。ぼくがサルの言葉を話すのを見て、警戒心を抱いているのではないかと、ぼくは思った。夜が更けるにつれて、ぼくはだんだん眠くなってきたので、とろとろと、まどろんでいた。寝ているときに夢を見た。サルがここから抜け出して外に出て、あのサル使いの男に再び捕まっている夢だった。はっとして、ぼくは、がばっと跳ね起きた。するとサルが目を開けたまま、じっと座っているのが見えた。それを見て、ぼくは、ほっとした。サルが逃げなかったことに、ぼくはとても感謝した。サルは昨夜は一睡もしていないように見えた。
「不安で眠れなかったのか?」
ぼくはサルに聞いた。サルは目をしばたたくだけで、何も答えなかった。夜が明けたばかりで外はまだ暗かったから、今のうちにサルを散歩に連れていこうと、ぼくは思った。もう少し時間がたって外が明るくなってきたら、太極拳やジョギングをするために公園にやってくる人が出てくるし、そのあとはたくさんの人が公園に散策にやってくるので、サルの姿を人目につかないようにするためには今しかないと思ったからだ。
「外の空気を吸いにいかないか」
ぼくはそう言って、サルに誘いかけた。サルは依然として何も答えなかったが、ぼくが外に出ると、サルもついてきた。早朝の風はとてもさわやかで、夏とは思えないほどひんやりしていて心地よかった。湖畔にそってしばらく歩いていると、向こうから聞き覚えのある足音が聞こえてきた。老いらくさんの足音だった。
「やあ、笑い猫、久しぶりだな。わしがおまえに提供したあの洞窟の住み心地はどうだい。気に入ってくれているか」
老いらくさんが、ぼくに近づいてきて、そう聞いた。
「ありがとうございます。とても住み心地がよいので気に入っています」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。それを聞いて老いらくさんは、うれしそうな顔をしながら
「そうか。それはよかった」
と答えていた。老いらくさんの歩き方が少しふらふらしているように見えたので
「もしかしたら酔っているのですか」
と、ぼくは老いらくさんに聞いた。すると老いらくさんがうなずいた。
「酔っているよ。くらくらするくらいだ」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんがワインが好きなことは、ぼくもよく知っている。でもこんな朝早くからワインを飲むのだろうかと思って
「どうしたのですか?」
と聞き返した。すると老いらくさんが
「わしが今酔っているのはワインのせいではない。花のかおりに酔っているのだ」
と言った。
「笑い猫、においをよくかいでみろ。風のなかにバラのかおりが含まれているのを感じないか」
老いらくさんがそう言った。ぼくはそれを聞いて、鼻をくんくんいわせながら、風のにおいをかいでみた。すると確かに風のなかにバラのかおりが含まれていた。
「本当だ。いいかおりですね」
ぼくはそう答えて、老いらくさんの臭覚の鋭さに感心していた。
老いらくさんは、それからしばらくしてから、ぼくをバラ園のほうに連れていってくれた。サルも、ぼくのあとからついてきた。バラ園のなかに入っていくと、もうすぐ咲こうとしているバラのつぼみが大きく膨らんでいて、強いかおりが、そのつぼみのなかから、ぷんぷんと漂っていた。
「つぼみが、わしにはワイングラスに見えるし、つぼみの奥にワインがあって、そこからかおりが出ているように思える」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんの想像力の豊かさにぼくは心から敬服していた。老いらくさんはそのあと、バラのとげに刺されないように気をつけながら、枝をのぼっていって、つぼみに顔を近づけて、つぼみについていた露のしずくを、ちゅるちゅると吸っていた。そのときの老いらくさんは至福の顔をしていた。
「こんなにおいしいワインを、わしはこれまで飲んだことがない。これは最高のワインだ」
老いらくさんが酔いしれたような声でそう言った。
「笑い猫、おまえも吸ってみろ。おいしいぞ」
老いらくさんが勧めたので、ぼくも老いらくさんの真似をして、ちょっとだけ吸ってみた。すると確かにおいしかった。バラの甘いかおりがして、ぼくも思わず酔いしれそうになった。
「こんなにおいしいものを吸うと健康によくて長生きできそうですね」
ぼくは老いらくさんにそう言った。すると老いらくさんがうなずいた。
「早起きして、新鮮な空気をいっぱい吸いながら散歩して、バラのかおりがするワインを飲む。これにまさる健康法はないよ」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね。ぼくもそう思います」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。ぼくのすぐ後ろにサルがいるのに気がついた老いらくさんが
「あれっ、あまり見かけない動物だが、それは……」
と言った。
「サルです。昨日から、洞窟のなかでいっしょに暮らし始めました」
ぼくは老いらくさんにそう言った。それを聞いて老いらくさんが、びっくりしたような顔をしていた。
「サルがどうして、こんなところにいるのだ。サルは山のなかか、動物園にしかいないはずだが」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくは老いらくさんに
「公園のなかでサル回しの芸をさせられていたサルです。サル使いの男から、むちでたたかれて虐待されていたから、馬小跳たちが助け出して、洞窟のなかに連れてきました」
と答えた。それを聞いて老いらくさんが
「そうか、そうだったのか」
と言って、うなずいていた。ぼくはそのあと老いらくさんに、馬小跳たちがどのようにしてサルを助けてくれたかを話した。すると老いらくさんが
「馬小跳たちはみんな動物が大好きだし、それに正義感にあふれているから、虐待を見て見ぬふりをすることができなくて助けてくれたのだなあ」
と言って、馬小跳たちの勇気に感心していた。でも老いらくさんは、そのあと顔の表情を曇らせながら
「でもこれからどうするのだ。いつまでも、洞窟のなかにかくまっているわけにはいかないぞ。爆弾を抱え込んだことと同じだ」
と言った。ぼくには意味がよくわからなかったので
「それはどういう意味ですか?」
と聞き返した。すると老いらくさんが
「これから何かよくないことが起きる可能性が大きいということだ」
と答えた。それを聞いて、ぼくは
「確かにそうかもしれません。でもぼくが大好きな杜真子から頼まれた以上、引き受けないわけにはいかなかったのです」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「そうか、それなら仕方がないな。おまえは頭がよいから、何か事が起きても冷静に考えて適切に処理することができるので、わしは、おまえのことを信頼している。おまえはサルの言葉も話せるから、サルとなかよく共生していくことだな」
老いらくさんがそう言った。
「わかりました。そうします」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。それからまもなく老いらくさんは、ぼくと別れてどこかへ行ってしまった。空がだいぶ明るくなり始めていたので、ぼくは急いでサルを洞窟のなかに連れていって、外には絶対に出ないように言った。
「うん」
サルが初めて声を出して、そう答えたので、ぼくはとてもうれしくなった。