子どもに愛されるピエロ

天気……今朝、目が覚めてから、うちの外に出て、空模様を眺めると、どんよりと曇っていて、遠くの空で雷鳴がとどろいている音が、かすかに聞こえてきた。ひと雨降るかもしれないと思って、うつうつとした気持ちで朝のひとときを過ごしていた。やはり思っていた通りに昼前に雨が降り出して、午後から夜にかけて本降りとなった。

朝ご飯を食べたあと、湖畔にそってしばらく歩いていると、向こうから老いらくさんが、せかせかとした足取りでやってきた。老いらくさんは、普段はゆっくりした歩き方をするが今朝はいつもとは違って、そわそわした足取りで歩いていたので、(どうしたのだろう)と思って、ぼくは老いらくさんのすぐ近くまで駆け寄っていった。
「老いらくさん、どうしたのですか」
ぼくは老いらくさんに声をかけた。すると老いらくさんが
「けさ、翠湖公園の入口付近にバスが止まっていたので、(何だろう)と思って見ていると、九時ごろ、バスのドアが開いて、なかから女性の車掌が出てきて公園のなかに入っていって梅園のほうに向かっていた。梅園の近くにはサーカス小屋があるので、もしかしたら、その車掌はサーカス団の団長や団員を呼びに行ったのではないかと思った」
と言った。
「そうですか。もしそうだとすれば、団員たちはどこへ行くのでしょうね」
ぼくは小首をかしげながら老いらくさんに、そう聞いた。
「わしにもよく分からんが、気になったので、おまえに知らせようと思ってきたのだ」
老いらくさんがそう言った。
「そうでしたか。そのバスが止まっているところまで、案内してくれませんか。ぼくも気になります」
ぼくは老いらくさんに、そう言った。老いらくさんがうなずいた。ぼくはそれからまもなく老いらくさんのあとについて、翠湖公園の入口付近まで行った。すると青いバスが一台停まっていて、バスのドアは開いているのが分かった。バスのなかで運転手が新聞を読んでいるのが見えた。ぼくはドアの前に立ってから後ろを振り返って、公園のほうを見た。するとサーカス団の団長と団員が車掌のあとについて、バスのほうに近づいてくるのが見えた。それを見て
(やはり、このバスに乗ってどこかへ行こうとしている)
と、ぼくは思った。運転手が新聞を読んでいるすきに、ぼくと老いらくさんは、バスのなかにさっと入り込んで、一番後ろにある座席の下に隠れた。
それからまもなくサーカス団の団長と団員がバスに乗り込んできた。団長が一番前の席に座り、その後ろに副団長が座り、それから順に団員が思い思いの席に座っていた。
「ではこれから出発いたします」
車掌がそう言ってからまもなく、バスは動き出した。バスはスピードを上げて町のなかを走っていった。バスのなかで団長は窓の外の景色をじっと眺めていたが、団員たちは景色には目もくれないで、ぺちゃぺちゃとしゃべっていた。副団長が後ろを振り返って、団員たちに
「今度の訴訟で、おれたちは必ず勝つとおれは確信している。おまえたちはどう思う?」
と聞いていた。
「わたしもそう思います」
女性の団員がそう答えていた。
「スイカ―は誰か弁護士を立てたのでしょうか」
若い男の団員が副団長に聞いていた。するとそれまで黙って聞いていた団長が後ろを振り返って
「スイカ―に弁護士を依頼するだけのお金があるはずがないではないか」
と言った。それを聞いて、若い男の団員はうなずいていた。
「スイカ―に代わって、おれが弁護士を立ててやった。この前、サーカス小屋にやってきた、あの弁護士が、その人だ」
団長がそう言った。
「そうでしたか。団長はさすが偉いですね。被告のために、わざわざ弁護士を立ててあげるとは」
若い男の団員は感心したような顔をしながら団長のほうを見ていた。団長はそれを聞いて、含み笑いをしていた。
『敵に塩を送る』という言葉があるが、被告であるスイカ―のために、お金を渡して弁護士を立ててくれた団長の心意気に、ぼくも感心していた。
「あの弁護士はどんな弁護士なのでしょうか」
女性の団員が団長に聞いていた。
「知名度の高い弁護士だ」
団長がそう答えていた。
「正義を重んじる弁護士だったら、スイカ―に罪がないことを主張して、われわれ原告にとって不利な判決が出されたりしないだろうか」
団員の一人が心配そうな顔をしながらそう言った。それを聞いて団長が
「心配無用。そうならないための工作をした」
と言って、不気味な含み笑いを浮かべていた。それを見て、ぼくは、この前、団長が、あの人にお金を渡していた場面を思い出した。団長がそのあと
「訴訟の勝ち負けは弁護士ではなくて裁判官が決めるので、それも抜かりなく手を打っている」
と言っていた。
「どんな手でしょうか」
団員が聞き返していた。
「それは今は言えないが、いずれにせよ、おれたちにとって有利な判決が出るような手を打っている」
団長がそう答えていた。団員は団長に一目置いていたので、大船に乗ったような気持ちになっていて、それ以上は深く追及しないことにしたようだった。団員たちは話をやめて、バスの窓から外の景色を静かに眺めていた。
バスはそれからまもなく、大理石でできた立派な建物の下に止まった。まるで古代のギリシャ建築を思わせるような立派な建物だったので、ぼくは壮大さに圧倒されて言葉を失っていた。建物の下には白くて長い階段が百段ほどあった。建物を支えている柱は狭い間隔で林立していて、どの柱もなかが膨らんだエンタシスになっているのが分かった。建物全体が調和と均整がとれた直線的な造りになっていて、どっしりとして重厚感があって威厳さにあふれていた。ここは裁判所なのだと、ぼくは思った。ぼくはこれまで裁判所に来たことは一度もなかったが、以前、杜真子のうちで飼われていたころ、杜真子のお母さんが見ていたドラマのなかで裁判所を見たことがあったので、あのときの画面をふと思い出していた。
バスを降りた団長や団員たちは、それまでの打ち解けた雰囲気から一転して、急にかしこまったような顔をしながら、百段ほどある大理石の白い階段を一歩一歩、のぼり始めた。ぼくと老いらくさんも、開いていたバスの窓から外に出たあと、団員のあとから階段をのぼり始めた。階段をのぼりきって一番上まで着くと、入口が幾つもあって、どの入口の前にも警備員がいて、なかに入っていく人を一人ひとり厳しくボディーチェックしていた。団長や団員たちが持ち物や服装を厳密に検査されているすきに、ぼくと老いらくさんは、建物のなかに首尾よく入っていくことができた。建物のなかにも部屋が幾つもあって、どの部屋も密室で重々しい感じがして、なかに入っていくのもためらわれるような雰囲気が漂っていて息がつまりそうだった。
ボディーチェックを終えた団長と団員たちは、ある部屋のなかに入っていったので、ぼくと老いらくさんも、その部屋のなかにこっそりと忍び込んだ。法廷と呼ばれている部屋だとぼくは分かった。法廷のなかには一段、二段、三段と、少しずつ高くなっている法壇があって、一番高いところに裁判官が座っていた。二段目には書記官が座っていて、一番下の段には検察官と弁護士が左右に分かれて向かい合わせるような形で座っていた。弁護士の顔には見覚えがあった。団長がこの前、サーカス小屋のなかでお金を渡していた、あの人だった。法壇のほうを向いてスイカ―が座っているのも見えた。サーカス団の団長と団員は傍聴席のかたい椅子に座って裁判が始まるのを静かに待っていた。ぼくと老いらくさんは傍聴席の一番後ろの席に座って、いすの下に隠れながら見ていた。
それからまもなく裁判が始まり、検察官が起訴状を朗読し始めた。検察官はスイカ―がこれまでサーカス団にどれほどの損失を与えてきたかを延々と朗読し始めた。よくそれだけ多くの罪状をあげることができるなと思って感心しながら、ぼくは聞いていた。難しい法律用語がたくさん使われていたので、罪状の詳しい内容は、ぼくにはよく分からなかったが、非は一方的にスイカ―の側にありと言わんばかりの朗読を聞いていて、ぼくは不愉快でたまらなくなった。検察官の起訴状の朗読が終わったあと、弁護士が答弁に立っていたが、スイカ―を弁護することはほとんどしないで、逆にサーカス団の主張の正当性を肯定しているようにさえ思えた。弁護士の答弁を聞いて、(こんな弁護士がいるだろうか)と思って、ぼくはますます不愉快な気持ちになった。団長は、にんまりしたような顔をしながら、弁護士の答弁を聞いていた。団員たちは自分たちに有利なように話してくれている弁護士に指を立ててVサインを送っていた。
賄賂を渡して、弁護士を抱き込んで、自分たちの味方に引き込むことに成功した団長は勝訴を確信したのか、上機嫌でたばこを吸い始めた。弁護士の答弁が終わったあと、裁判官がスイカ―に「何か言いたいことがありますか」と聞いていたが、スイカ―は何も答えないで、うつむいているだけだった。無力感にさいなまれて、弁明するだけの気力がすっかり消え失せているように思えた。
裁判はそれからまもなく閉廷し、明日、判決が言い渡されることになった。裁判が終わったあと、団長は団員に
「バスのなかでしばらく待っていろ」
と言ってから、人目を忍ぶようにしながら裁判官の控室に入っていった。ぼくは不審に思ったので、老いらくさんといっしょに、こっそりと団長の後からついていった。すると団長は、今日の裁判で裁判長を務めた人に近づいていって
「よろしく頼みます」
と言って、茶封筒を渡していた。中味がお金であることは明らかだった。裁判長は戸惑ったような顔をしながら、受け取ることを拒んでいたが、押し問答を繰り返しているうちに
渋々、受け取らざるを得ないような状況に追い込まれていた。裁判長にお金を渡すことに成功した団長は、にんまりしながら裁判官の控室を出てから、裁判所を出て、階段を下りてバスのほうへ向かっていた。ぼくは老いらくさんといっしょに、団長のあとからついていった。団長がバスの前までくると、団員がバスのなかで待っているのが見えた。
「団長、どこへ行っていたのですか」
副団長が聞いていた。
「トイレに行きたくなったので、トイレをあちこち探し回って、やっと見つけて用を足すことができた」
団長が、とぼけたような顔をしながらそう言って、しらばくれていた。
「そうでしたか。遅かったので心配していました」
副団長が真に受けてそう答えていた。それからまもなく団長と団員たちが乗ったバスは翠湖公園に帰っていった。ぼくと老いらくさんは今度はバスには乗らないで歩いて帰ることにした。翠湖公園までは少し遠かったが、今はとても、やるせない気持ちだったから、勝訴を確信して晴れ晴れとしている団員たちと同じバスに乗って帰ることに気が進まなかったからだ。老いらくさんが近道を知っていたので、ぼくと老いらくさんは最短コースを通って、翠湖公園まで一時間半ぐらいかけて歩いて帰っていった。