【短】君の手が動く限り、俺は隣りにいたいから


「……なんで?」
「分からないよ。本人の心の中なんて、誰にも分からない」

 紫はそう言うと、美術室の奥に鎮座する棚の扉を開けた。
 埃をかぶった古い画材、穂先の傷んだ筆、何冊も積み重なったスケッチブック。その最奥から、一通の白い封筒を慎重に取り出す。

「これ」
「……何だ、これ」
「碧南が残していったもの」

 渡された封筒の表には、彼女の不器用で真っ直ぐな筆跡で、ただ一言書かれていた。

『凌へ』

 思わずその封筒を裏返し、それから紫の顔を見つめた。

「……碧南が?」
「うん。卒業する少し前、『私が死んだら渡してほしい』って託されてたの」

 指先が冷たく震える。
 封を切り、中身を取り出す。入っていたのは、折りたたまれた一枚の便箋と、一枚の小さな L 判写真だった。
 写真に切り取られていたのは、何処までも深い青空。
 見たことのない構図なのに、胸の奥が締めつけられるような既視感があった。

「澄朱華先輩の最後の絵だよ。あの人が最後に描いた、青空」

 描かれた雲と青。それだけなのに、息を呑むほど美しかった。
 凌は震える手で便箋を広げた。

『凌へ。
 これを読んでるってことは、私はもういない。ごめんね』

 最初の一行で、視界がじんわりと熱く滲む。

『最後まで言えなかったことがある。私は、死にたかったわけじゃない』

 心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。

『怖かった。病気になるのが、絵を描けなくなるのが、自分が削れていくのが怖かった。……でも、何より一番怖かったのは、凌の隣にいられなくなることだった』

「……っ、あ……」

 息が上手く吸えない。
 脳裏に、あの日の碧南の姿が残酷なほどの鮮明さで蘇る。弱々しく震えていた、あの声。
 
『澄朱華先輩は私に絵をくれた。「描けるところまで描けばいい」って背中を押してくれた。だから私は描いたの。怖くて堪らなくても、今日という日を描いた。死ぬのも、忘れられるのも、描けなくなるのも……全部全部怖かった。それでも私は、生きたかった』

「……生きたかったんだ……っ」

 絞り出した声はかすれ、途切れ途切れだった。

「うん。碧南は、命の終わりまで生きたがってた」
「じゃあ……っ、じゃあどうしてあいつは……!」
「それは分からないよ。最期の瞬間にあの子が何を思っていたかは、あの子にしか分からない」

 紫は凌の前に立ち、真っ直ぐな瞳で静かに語りかけた。

「でもね、凌君。最期の選択だけで、その人が重ねてきた人生の全てを決めつけちゃダメだよ」

 胸の奥に詰まっていた重い塊が、ひび割れて崩れていく。

「碧南は最期まで抗って生きようとしてた。病気に怯えながらも筆を握り続けた。何より、凌君と過ごす時間を愛してた。だから私は……最期の結末だけで、碧南が描いた人生の価値を否定したくないの」

 堪えきれず、熱いものが頬を伝ってポロポロと溢れ出した。
 凌はずっと「何故死んだのか」という答えばかりを追い求めていた。
 理由を知れば救われると思っていた。だが違ったのだ。
 碧南の人生は、悲劇的な結末だけで作られていたわけじゃない。絵に出会った喜び、憧れを追った情熱、恐怖に耐えて筆を走らせた日々……そして、凌と一緒に笑い合った時間が、確かにそこにあった。

「……碧南……っ」

 名前を呼んでも、帰ってくるのは静寂だけだ。
 けれど、あの日の彼女の声が、確かに胸の奥で響いていた。

『……怖かった』

 彼女は強い英雄なんかじゃなかった。泣きたいほど怯えながら、それでも泥臭く生きていたのだ。
 凌は写真を胸に強く抱きしめ、窓の外を見上げた。
 そこには、何処までも果てしのない青空が広がっていた。
 澄朱華が描き残し、碧南が受け継ぎ、今、俺の頭上に広がる空。

「……綺麗だな」
「うん」

 紫が穏やかに頷く。
 凌は袖で涙を拭い、もう一度その青を見つめ直した。

 ――碧南。お前が「怖い」と弱音を吐いてくれて、本当によかった。

 あの言葉は諦めなんかじゃない。彼女が最後まで諦めたくなかった、「生」への執着そのものだったのだ。