【短】君の手が動く限り、俺は隣りにいたいから


「先輩……俺は、碧南が死んだ理由を知りたい」

 言葉にした瞬間、脳裏にあの日が鮮やかに弾けた。
 碧南が最後に見せた、あの笑顔。
 いつも通りに軽口を叩き、くだらないことで笑い合って。
 それなのに、別れ際に彼女が絞り出した、震える声。

『……怖かった』

 縋り付くようなあの目が、今も焼きついて離れない。

「……怖い」

 口から漏れた呟きに、紫がはっと顔を上げた。

「何が?」
「碧南が最後に言ったんだ。『怖い』って」

 喉が焼きつくように痛む。これは自分のせいだ、自分の過ちに気づくことに恐れているせい。

「あの時の俺には、何のことか分からなかった。何に対して怯えているのか尋ねることもできなかった。……本当は、俺が怯えていただけなんだ。理由を知ってしまったら、あいつが本当に遠くへ行ってしまうような気がして」

 凌は視線を彷徨わせ、部室に残されたキャンバスを見つめた。

「澄朱華先輩も同じ病気で、少しずつ描けなくなって……死んだんだろ?」
「……そうだよ」
「碧南はそれを見ていた。自分と同じ病を患い、自分が筆を握るきっかけになった人が、奪われ、壊れていく過程を……全部」

 自らの口で語るほどに、残酷な真実が胸を刺す。

「そんなの……怖くないわけがない」

 紫の瞳が揺れた。けれど、もうその目から涙が零れ落ちることはない。
 彼女の涙はとうに枯れてしまったのだ。

「あいつは、ずっと前から恐れていたんだ。描けなくなることも、自分という存在が摩耗していくことも。澄朱華先輩の後を追うように死へ向かっていくことも……全部」
「……そうかもしれない」
「だからあいつは、あんな狂ったように描いていたのか。恐怖から逃れるために。抗うために」
「……うん。恐怖に震えながら、それでも筆を動かしてた」

 胸の奥が、千切れるほど痛む。

「……俺は、一番近くにいたのに」
「凌に言えるわけないよ」

 紫は悲しそうに、けれど温かく笑った。

「一番隣にいてほしい相手だからこそ、無様な姿なんて見せられるはずがないじゃない」

 言葉を失った。
 そうか。碧南は拒絶したんじゃない。最後にたった一度だけ、最も見せたくなかった「弱さ」という本音を託してくれたのだ。

「……なあ。碧南にとって澄朱華先輩は、ただの憧れじゃなかったんだろ」
「うん。自分が『どう生きるか』を決定づけた人」
「でも、その人は死んだ。……なら、碧南は最後に何を選んだんだ?」

 紫は答えず、静かに美術室の奥へと歩みを進めた。

「それを知るために、あと一つだけ聞いて」
「何を……?」

 紫がゆっくりと振り返る。その表情は先程とは違って、ほんの少し晴れていた。

「碧南が、最後に先輩の絵を見た時の話。……あの碧南がね、初めて涙を流したの」

 ドクン、と胸が跳ねた。
 自分の触れられなかった碧南の影が、また一つ浮かび上がる。
 その涙の理由の先にこそ――彼女が最期に抱きしめていた、本当の想いがあるはずだった。