【短】君の手が動く限り、俺は隣りにいたいから

 出会った時から碧南の手には筆や鉛筆があって、授業中だろうが放課後だろうが屋上で絵を描き続ける。そんな彼女を、昔から絵を描くために生きてきた人間だと疑いもしなかったのだ。

「……違ったのか?」
「うん。昔の碧南は、絵なんて全然興味なかったよ」
「……嘘だろ」
「本当だよ。澄朱華先輩と出会うまではね」

 聞き覚えのある名前が、胸の奥を小さな棘のように刺す。

「……先輩が、きっかけだったのか」
「そう。私達が一年生の時の、二つ上の先輩。すごく絵が上手でね」
 
 紫は窓外の遠くを見つめながら、懐かしむように呟いた。

「特に、青空を描くのが綺麗な人だった」
「……」
「最初は碧南も、ただ見ていただけ。でもある日突然、『私もこんなの描けるかな』って言い出したの」
「……碧南が?」
「うん。最初は皆、ただの気まぐれだと思って笑ってた。でも、あの子は本当に筆を買ってきて、描き始めたんだ」

 紫はその思い出とも呼べる記憶を思い返しながら、愛おしそうに目を細める。

「最初はひどい出来でさ、本人も『何これ』って腹抱えて笑ってた。……だけど、絶対にやめなかった。一歩ずつ、泥臭く、一枚描くたびに上手くなっていった」

 凌は壁に掛けられたキャンバスを見つめた。
 何度も目にしてきた馴染みの絵。だが、そのキャンバスの裏側に隠された「ゼロの日」を、凌は何も知らなかった。

「……俺の知らない碧南が、いたんだな」
「うん。凌君の知らない碧南は、もっとたくさんいるよ」

 寂しげな紫の微笑みが、刃のように胸へ突き刺さる。
 一番近くにいたつもりだった。誰よりも理解している気になっていた。
 けれど凌が見ていたのは、碧南という人間のほんの表層に過ぎなかったのだ。

「澄朱華先輩は……碧南にとってどんな存在だった?」
「憧れ。……ううん、それだけじゃない」

 紫は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

「……逃れられない『目標』だったのかもしれない。先輩も、碧南と同じだったから」
「……若年性パーキンソン病」
「そう。病気が進むにつれて、先輩の手は震え、線は歪み、思い通りの空が描けなくなっていった。……それでも筆を捨てなかった。最後まで」
 
 紫の声が消え入るように細くなる。
 窓の向こうには、冷たいほどに澄み渡った青空が広がっていた。

「先輩が亡くなった後も、碧南は狂ったように絵を描き続けた。……先輩が最後に残したのも、一幅の『青空』の絵だった」
「……」
「先輩の手が動かなくなっても、空は変わらずそこにあったから。……先輩が死んだ日、碧南は言ったの」
 
 紫の瞳から、すっと熱が引いていく。

「『私は、描けるところまで描く』ってね」
「……描ける、ところまで」
「『先輩が描けなくなった分まで、私が描くんだ』」

 その言葉が引き金となり、凌の脳裏に碧南の姿が次々とフラッシュバックした。
 血が滲むほどキャンバスに向かい合い、何度も何度も塗っては潰し、狂気じみた情熱で描き続けていたあの姿。
 凌はそれを、ただの「絵への執着」だと思っていた。
 だが、違った。
 碧南にとって絵を描くこと――それは、自身の存在を証明する生き様そのものだったのだ。