【短】君の手が動く限り、俺は隣りにいたいから


「そうだねぇ⋯⋯何が辛いって、一人の凌君だもんね」

 ほんの数ヶ月前までを懐かしむように部室の中を歩き回りながら、紫は何度も独り言を零した。

 あの頃は楽しかったな。
 やら。

 私も賞取りたかったな。
 やら。

 この部室を絵にしても良いかもね。
 やら。

 聞いているだけで、彼女も現実から目を逸らそうとしているのだと分かった。
 当たり前だ。
 だって、紫は、これまでに二人も大切な部員を、仲間を、友達を失っているんだから。

「知らなきゃいけないって何のことなの?」

 さあ、本題に入ろう。
 ここまで紫を連れてきた本当の理由。紫に聞かなければならない理由。

「澄朱華先輩って、一体誰なんですか」

 ずっと謎だったこと。
 当たり前のように紫達の口から発されたその名の持ち主は、すでにこの世にいない。
 それなのに、碧南を絵に固執させ続けるだけの力を持つ人。
 その人が一体誰で、何故亡くなったのかを知らなければ、碧南について何もしれないままだと思ったのだ。

「……私と碧南の二つ上の先輩」
「それは知ってる」

 凌は一歩、紫に近づいて続ける。
 黒板を背にして立つ凌は、その向かいに立つ紫の行く手を阻もうとしていた。

「病気だったことも、亡くなったことも、碧南から聞いてる」
「……うん」
「でも、碧南がなんであの人のことをあんなに大切にしてたのかは知らない」

 紫は口を噤み、ふいっと視線を逸らす。それを肯定と捉えて、凌は逃さないとばかりに捲し立てた。

「碧南が絵を描き始めた理由も、澄朱華先輩が関係してるんだろ?」
「……そうだよ」
「なら、教えてくれよ」

 凌は美術室を見回し、まだ自分が新入部員で何も知らなかったあの頃を思い出す。
 壁に残された絵。
 机に染みついた絵の具の痕。
 かつてここにいた碧南の気配。

「碧南にとって、澄朱華先輩って……何だったんだよ」

 紫はしばらく沈黙していたが、やがて、小さく息を吐いた。

「……碧南が、絵を描く理由になった人」
「……え?」
「澄朱華先輩がいなかったら、碧南はきっと絵なんて描いてなかった」

 紫の落とした言葉が、放課後の静かな美術室に重く沈んだ。

「……どういうことだよ」
「言葉通りの意味」
 
 紫は、壁に飾られた一枚の絵に視線を投げた。

「凌君が碧南と出会った頃には、もう絵を描いてたでしょ?」
「ああ。ずっと、描くことが好きなんだと思ってた」

 それが凌にとっての、凌の知る「碧南」の全てだった。