放課後になると同時に、龍馬はサッカー部の男子に拉致されるようにして、元気よく教室を飛び出していった。
静かになった教室で、私は一人、ゆっくりと帰りの支度をする。
なんだかんだ言いつつも、彼が新しい環境で友達と楽しそうにしている姿は、見ていてどこかホッとするものがあった。
「莉子、ほら早く行くよ!」
「引っ張らないでー!」
友達の結衣にぐいぐいと腕を引かれながら、私は苦笑いしつつ階段を駆け下りた。
いつもならそのまま真っ直ぐお店の手伝いへと向かうところだけれど、友達に引きずられるようにして龍馬のサッカーを観戦することになった。
「キャー、龍馬くん頑張って〜!」
放課後。黄色い歓声が響き渡るグラウンド。
今、目の前ではサッカー部の練習試合が行われているんだけど、龍馬はどのチームよりも目立って輝いていた。
さっきから一人だけ次元の違うスピードで見事なパス回しを披露し、面白いようにシュートを決めていた。それを見た女子達は文字通り大興奮。
ドン、と乾いた音が響き、龍馬が蹴り出したボールがゴールネットを揺らす。
「うおおお!龍馬、マジかお前!これで五点目だぞ!?」
先輩らしき男子が、龍馬の頭をごしごしと撫で回して歓声を上げた。龍馬はふわふわの茶髪をくしゃくしゃにされながら、嬉しそうに笑っている。
「あらまぁ、すごい人気だと。莉子のボディガードくん」
グラウンドの隅で一緒に観戦していた結衣が腕を組み、感心したような、ちょっとからかうような視線を私に向けてくる。
「ボディガードだなんて、そんなんじゃないってば」
「へえー?でも龍馬くん、莉子のこと好きだと思うよ」
「それは家族愛の好きだよ……恋愛とは違うよ」
だって、元は猫だし――なんて言えるはずもなく、私は口ごもる。
「ふぅ〜ん……莉子は好きな人とかいるの?」
結衣からの不意打ちの質問に、私は一瞬、言葉を詰まらせてしまった。
「え、私……? い、いるわけないでしょ。毎日お店の手伝いと学校の往復だよ?」
慌てて首を横に振る私を、結衣は「怪しいなぁ」と言いたげな、ニヤニヤとした目でじっと見つめてくる。
結衣の鋭い視線に耐えかねて、私はいたたまれなくなってグラウンドへと視線を戻した。
ちょうどその時、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。
「ま、とにかく!お母さんがお店で待ってるから、私はもう行くね!」
「あ、ちょっと莉子!逃げたなー!」
背後から聞こえる結衣のからかう声を置き去りにして、私は逃げるように校門へと向かって歩き出した。
そんな私を引き止めたのは、少し控えめで、けれどよく通る知的な声だった。
「莉子さん」
ハッとして振り返ると、そこには図書委員の先輩が、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。西日に照らされた制服のシルエットが、心なしかいつもより大人びて見える。
「あ、先輩も帰りですか?」
「うん。委員会で残ってて。ほら、図書室宣伝ポスターを描かなくちゃいけないから」
先輩は困ったように眉を下げつつも、どこか楽しそうに言った。
「そっか。先輩、絵が得意ですもんね。今年のポスターも楽しみにしてます!」
「ハードルが上がるなぁ……」
いつも図書室の窓際で静かに本を読んでいる先輩は、我が家のカフェにもたまに顔を出してくれる、物静かで優しい常連さんの一人でもある。しかも、ただの読書家ではなく、美術の絵画コンクールで入賞するほど絵が上手なのだ。
「あ、そうだ。貸して頂いた本、今返しますね」
「えぇ!?もう読んだの!?貸したの、一週間くらい前だよね」
「すっごく面白くて、気づいたら読みふけってました!」
思い出した私が鞄から綺麗にブックカバーをかけた文庫本を取り出して手渡すと、先輩は驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうにそれを受け取った。
「莉子さん、読むの早いね。やっぱりどんでん返しだったでしょ」
「はい!まさか、犯人が語り手の探偵とは思いませんでした」
「だよね!まさか、あの何気ない日常の描写が全部伏線になってるなんて、最初は誰も気づかないよね……!」
興奮気味に語る私に、先輩は我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
「本当に。あのひまわりの絵の件が、まさか時間的なトリックの証明になってるなんて……」
私が興奮冷めやらぬままに身振り手振りを交えて話すと、先輩は「そう、そこなんだよ!」と、普段の物静かな雰囲気からは想像もつかないほど目を輝かせた。
「あの絵の描写があるからこそ、読者は勝手に昼間だと思い込んでしまう。叙述トリックの王道だけど、現代の舞台設定に綺麗に落とし込んであって見事だよね。……あ、ごめんね。嬉しくてつい熱くなっちゃった」
我に返った先輩が、少し気恥ずかしそうに長めの前髪をかき上げる。
「いえいえ、全然!私も誰かとこの面白さを共有したかったので、すごく嬉しいです」
「はは、最高の褒め言葉だね。今度、同じ作者の別のシリーズも持ってきてあげるよ。莉子さんならきっと気に入ると思うんだ」
「本当ですか!? ぜひ読みたいです!」
弾むような会話。夕暮れ時の静かな通学路に、私達の笑い声が心地よく響いた。
家に帰り、夕方のカフェの手伝いと、猫時代からの名残で大騒ぎだったお風呂タイムをなんとか終えた夜のこと。
パジャマに着替え、私の部屋のベッドの上で、湯上がりの身体をゴロゴロと大胆に転がしていた龍馬が、不意に何かを思い出したようにガタッと勢いよく起き上がった。そして、部屋の隅にある本棚へと迷いなく歩き、一冊の本を引っ張り出してきた。
「莉子ちゃん、本読んでほしいぜよ!」
「急だね!?」
差し出されたものの表紙を見て、私は思わず目を丸くした。
それは、随分前に買ったミステリー小説だった。読もう読もうと思いながら、勉強や手伝いに追われてまだ一ページもめくれていない。
「莉子ちゃん、本をよく読むろう?ほんじゃあきに、ずっと気になっちょった」
龍馬はベッドの上に体育座りをして真っ直ぐな瞳で私を見上げた。
「……これ、まだ読んでないやつだよ?それに、絵本じゃないんだから、文字ばっかりで龍馬には退屈だと思うな」
私が苦笑いしながら言うと、龍馬は「退屈なんかじゃないぜよ!」と、弾かれたように顔を上げた。
「漢字の勉強ぜよ!」
「勉強?」
「そうじゃ! 人間の言葉と文字をたくさん覚えたら、莉子ちゃんともっと、いーっぱいいろんなお話ができるき!」
「偉い……」と思わず感心しつつも、私は少し首を傾げた。
「けど、なんでわざわざミステリーなの?他にもいろんなジャンルがあるよ。もっと短くて読みやすいエッセイとか、小説とかさ」
私が本棚の別の棚を指差しながら尋ねると、龍馬は「それがえいがじゃ!」と言って、ふんすと鼻を鳴らして胸を張った。
「莉子ちゃん、その……みすてりー?っちゅうがが好きやろう?莉子ちゃんが好きなものを、わしも好きになりたいがじゃ。じゃき、わしも一緒に読む!」
ということで、『第一回・ミステリー小説朗読会』が始まった。
舞台は十八世紀のヨーロッパ。とあるパーティー会場。華やかなシャンデリアの下、着飾った紳士淑女がお喋りをしているところから物語が始まる。
まだ読んだことのない真っ新な物語。これからどんな事件が起きるのか、私も一緒に推理しながら犯人を当てることができると思うと、自然とワクワクして胸が高鳴る。
まぁ、犯人を当てれたことなんて一回もないんだけどね。
「――その夜、ロンドンの街は深い霧に包まれていた。豪奢な邸宅の重い扉が開くと、そこには眩いばかりのシャンデリアの光と、着飾った紳士淑女の笑い声が溢れていた」
私が一文字ずつ丁寧に読み上げると、隣にぴったりと寄り添った龍馬は、一言も聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けていた。
「莉子ちゃん、この『ごうしゃ』っちゅうのは何じゃ?」
「贅沢でとっても華やか、っていう意味だよ」
「なるほど、お城みたいなことか。莉子ちゃん、物知りぜよ!」
やがて物語は進み、華やかなパーティーの裏で、不穏な影が動き始める。
深夜、書斎から響いた鋭い悲鳴。駆けつけた人々が見たのは、鍵の閉まった部屋の中で倒れている屋敷の主の姿だった。
静かになった教室で、私は一人、ゆっくりと帰りの支度をする。
なんだかんだ言いつつも、彼が新しい環境で友達と楽しそうにしている姿は、見ていてどこかホッとするものがあった。
「莉子、ほら早く行くよ!」
「引っ張らないでー!」
友達の結衣にぐいぐいと腕を引かれながら、私は苦笑いしつつ階段を駆け下りた。
いつもならそのまま真っ直ぐお店の手伝いへと向かうところだけれど、友達に引きずられるようにして龍馬のサッカーを観戦することになった。
「キャー、龍馬くん頑張って〜!」
放課後。黄色い歓声が響き渡るグラウンド。
今、目の前ではサッカー部の練習試合が行われているんだけど、龍馬はどのチームよりも目立って輝いていた。
さっきから一人だけ次元の違うスピードで見事なパス回しを披露し、面白いようにシュートを決めていた。それを見た女子達は文字通り大興奮。
ドン、と乾いた音が響き、龍馬が蹴り出したボールがゴールネットを揺らす。
「うおおお!龍馬、マジかお前!これで五点目だぞ!?」
先輩らしき男子が、龍馬の頭をごしごしと撫で回して歓声を上げた。龍馬はふわふわの茶髪をくしゃくしゃにされながら、嬉しそうに笑っている。
「あらまぁ、すごい人気だと。莉子のボディガードくん」
グラウンドの隅で一緒に観戦していた結衣が腕を組み、感心したような、ちょっとからかうような視線を私に向けてくる。
「ボディガードだなんて、そんなんじゃないってば」
「へえー?でも龍馬くん、莉子のこと好きだと思うよ」
「それは家族愛の好きだよ……恋愛とは違うよ」
だって、元は猫だし――なんて言えるはずもなく、私は口ごもる。
「ふぅ〜ん……莉子は好きな人とかいるの?」
結衣からの不意打ちの質問に、私は一瞬、言葉を詰まらせてしまった。
「え、私……? い、いるわけないでしょ。毎日お店の手伝いと学校の往復だよ?」
慌てて首を横に振る私を、結衣は「怪しいなぁ」と言いたげな、ニヤニヤとした目でじっと見つめてくる。
結衣の鋭い視線に耐えかねて、私はいたたまれなくなってグラウンドへと視線を戻した。
ちょうどその時、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。
「ま、とにかく!お母さんがお店で待ってるから、私はもう行くね!」
「あ、ちょっと莉子!逃げたなー!」
背後から聞こえる結衣のからかう声を置き去りにして、私は逃げるように校門へと向かって歩き出した。
そんな私を引き止めたのは、少し控えめで、けれどよく通る知的な声だった。
「莉子さん」
ハッとして振り返ると、そこには図書委員の先輩が、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。西日に照らされた制服のシルエットが、心なしかいつもより大人びて見える。
「あ、先輩も帰りですか?」
「うん。委員会で残ってて。ほら、図書室宣伝ポスターを描かなくちゃいけないから」
先輩は困ったように眉を下げつつも、どこか楽しそうに言った。
「そっか。先輩、絵が得意ですもんね。今年のポスターも楽しみにしてます!」
「ハードルが上がるなぁ……」
いつも図書室の窓際で静かに本を読んでいる先輩は、我が家のカフェにもたまに顔を出してくれる、物静かで優しい常連さんの一人でもある。しかも、ただの読書家ではなく、美術の絵画コンクールで入賞するほど絵が上手なのだ。
「あ、そうだ。貸して頂いた本、今返しますね」
「えぇ!?もう読んだの!?貸したの、一週間くらい前だよね」
「すっごく面白くて、気づいたら読みふけってました!」
思い出した私が鞄から綺麗にブックカバーをかけた文庫本を取り出して手渡すと、先輩は驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうにそれを受け取った。
「莉子さん、読むの早いね。やっぱりどんでん返しだったでしょ」
「はい!まさか、犯人が語り手の探偵とは思いませんでした」
「だよね!まさか、あの何気ない日常の描写が全部伏線になってるなんて、最初は誰も気づかないよね……!」
興奮気味に語る私に、先輩は我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
「本当に。あのひまわりの絵の件が、まさか時間的なトリックの証明になってるなんて……」
私が興奮冷めやらぬままに身振り手振りを交えて話すと、先輩は「そう、そこなんだよ!」と、普段の物静かな雰囲気からは想像もつかないほど目を輝かせた。
「あの絵の描写があるからこそ、読者は勝手に昼間だと思い込んでしまう。叙述トリックの王道だけど、現代の舞台設定に綺麗に落とし込んであって見事だよね。……あ、ごめんね。嬉しくてつい熱くなっちゃった」
我に返った先輩が、少し気恥ずかしそうに長めの前髪をかき上げる。
「いえいえ、全然!私も誰かとこの面白さを共有したかったので、すごく嬉しいです」
「はは、最高の褒め言葉だね。今度、同じ作者の別のシリーズも持ってきてあげるよ。莉子さんならきっと気に入ると思うんだ」
「本当ですか!? ぜひ読みたいです!」
弾むような会話。夕暮れ時の静かな通学路に、私達の笑い声が心地よく響いた。
家に帰り、夕方のカフェの手伝いと、猫時代からの名残で大騒ぎだったお風呂タイムをなんとか終えた夜のこと。
パジャマに着替え、私の部屋のベッドの上で、湯上がりの身体をゴロゴロと大胆に転がしていた龍馬が、不意に何かを思い出したようにガタッと勢いよく起き上がった。そして、部屋の隅にある本棚へと迷いなく歩き、一冊の本を引っ張り出してきた。
「莉子ちゃん、本読んでほしいぜよ!」
「急だね!?」
差し出されたものの表紙を見て、私は思わず目を丸くした。
それは、随分前に買ったミステリー小説だった。読もう読もうと思いながら、勉強や手伝いに追われてまだ一ページもめくれていない。
「莉子ちゃん、本をよく読むろう?ほんじゃあきに、ずっと気になっちょった」
龍馬はベッドの上に体育座りをして真っ直ぐな瞳で私を見上げた。
「……これ、まだ読んでないやつだよ?それに、絵本じゃないんだから、文字ばっかりで龍馬には退屈だと思うな」
私が苦笑いしながら言うと、龍馬は「退屈なんかじゃないぜよ!」と、弾かれたように顔を上げた。
「漢字の勉強ぜよ!」
「勉強?」
「そうじゃ! 人間の言葉と文字をたくさん覚えたら、莉子ちゃんともっと、いーっぱいいろんなお話ができるき!」
「偉い……」と思わず感心しつつも、私は少し首を傾げた。
「けど、なんでわざわざミステリーなの?他にもいろんなジャンルがあるよ。もっと短くて読みやすいエッセイとか、小説とかさ」
私が本棚の別の棚を指差しながら尋ねると、龍馬は「それがえいがじゃ!」と言って、ふんすと鼻を鳴らして胸を張った。
「莉子ちゃん、その……みすてりー?っちゅうがが好きやろう?莉子ちゃんが好きなものを、わしも好きになりたいがじゃ。じゃき、わしも一緒に読む!」
ということで、『第一回・ミステリー小説朗読会』が始まった。
舞台は十八世紀のヨーロッパ。とあるパーティー会場。華やかなシャンデリアの下、着飾った紳士淑女がお喋りをしているところから物語が始まる。
まだ読んだことのない真っ新な物語。これからどんな事件が起きるのか、私も一緒に推理しながら犯人を当てることができると思うと、自然とワクワクして胸が高鳴る。
まぁ、犯人を当てれたことなんて一回もないんだけどね。
「――その夜、ロンドンの街は深い霧に包まれていた。豪奢な邸宅の重い扉が開くと、そこには眩いばかりのシャンデリアの光と、着飾った紳士淑女の笑い声が溢れていた」
私が一文字ずつ丁寧に読み上げると、隣にぴったりと寄り添った龍馬は、一言も聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けていた。
「莉子ちゃん、この『ごうしゃ』っちゅうのは何じゃ?」
「贅沢でとっても華やか、っていう意味だよ」
「なるほど、お城みたいなことか。莉子ちゃん、物知りぜよ!」
やがて物語は進み、華やかなパーティーの裏で、不穏な影が動き始める。
深夜、書斎から響いた鋭い悲鳴。駆けつけた人々が見たのは、鍵の閉まった部屋の中で倒れている屋敷の主の姿だった。



