土佐弁男子は気まぐれ猫さん

翌朝、私はひどい寝不足のまま、重い足取りで一階の店舗兼自宅のリビングへと降りていった。
まぶたが重い。
昨夜、ベッドに入ってからも『お嫁さん』というパワーワードと、それを大喜びで全肯定した龍馬くんの満面の笑みが脳裏をぐるぐると離れず、結局ろくに眠れなかったのだ。
​「ふぁ……あ」
小さなあくびを噛み殺しながらリビングのドアを開けると、そこには開店準備をしている両親の姿と、朝の柔らかな光が差し込む窓辺の席――例の特等席で、熱心にノートを広げている龍馬の姿があった。
「……龍馬、何してるの? 朝早いね」
「おお、莉子ちゃん!おはようぜよ!おばちゃんから『学校の成績が悪かったら日向ぼっこ禁止』と言われたき、さっそく予習をしよったがじゃ!」
お母さんの冗談半分の脅しをあんなに真に受けていたなんて。偉い、と一瞬だけ感心しかけた私の目は、しかし、彼の広げているノートに釘付けになった。
そこには、まるで象形文字のような、おそろしく独創的な記号がのたうち回っている。……いや、よく見るとそれは、必死に書かれたであろう『英語のアルファベット』だった。
「……龍馬、これ『Apple』って書こうとしたの?」
「おう! 莉子ちゃんの教科書をちょっと見せてもろうて真似したがやけど……どうじゃ、完璧じゃろ!」
「う、う〜ん……『A』の棒が一本足りないし、なぜか最後に肉球のマークが書いてあるのはどうして……」
​早くも前途多難、いや、義務教育の壁が高すぎる気配を察知して、私は朝一番の盛大なため息をついた。
昨夜、彼を『家族』として改めて迎え入れることを決めたけれど、これは私の家庭教師としての手腕も試されている気がする。
​「ほら、そこはこう書くの。……ペンはそんなに力入れなくて良いよ」
私がノートを指差して教えると、龍馬は「おう!」と元気よく返事をしながらも、なぜか嬉しそうに私の顔をじっと覗き込んでくる。
​「莉子ちゃんに教えてもらえるがなら、勉強もまっこと悪うないねぇ」
「……聞いてる?」
​「聞きゆうよ!莉子ちゃんの声は心地えいきねぇ」
​そのガラス細工のように屈託のない瑠璃色の瞳で見つめられると、胸の奥がくすぐったくなる。
まるで昔、彼が「ニャー」と短く甘えた声で鳴いて、私の足元に何度も頭をすり寄せてきたときと同じだ。ダメだと分かっていても、ついつい許して甘やかしたくなってしまう。
人間の姿になっても、その無敵の甘え上手っぷりは少しも衰えていなかった。むしろ言葉が通じる分、破壊力が何倍にも跳ね上がっている。
​「莉子ー、龍馬くん、朝ご飯できたわよー」
厨房の向こうから、お母さんの弾んだ明るい声が響く。
「はーい!」
私と龍馬くんの声がきれいに重なった。
ノートをパタンと閉じ、嬉しそうに席を立つ彼の背中を追いかけながら、私は、これからの学校生活、本当に大丈夫かな……と、少しの不安を抱え、ため息をついた。
ダイニングテーブルに並んだのは、こんがりと狐色に焼けた厚切りトーストと、目玉焼き、そして瑞々しいサラダ。
「おいしそうぜよ……!」
龍馬くんは席につくなり、目をきらきらと輝かせて両手を合わせた。その姿は、かつてお気に入りのカリカリを前にしたときの彼そのままだ。
お母さんがお皿を置くと、龍馬くんは「いただきます!」と元気よくトーストにかぶりつく。
「んんー! まっこと美味いぜよ、おばちゃん! 人間の食べ物はどれもこれも美味しくて、毎日本当に幸せじゃ!」
「ふふ、そんなに喜んでもらえると作り甲斐があるわ。莉子は寝ぼけたまま食べないの」
お母さんに話を振られ、私はまだ半分眠っている頭で、もそもそとトーストを口に運んだ。
​チラリと隣を見ると、龍馬は目玉焼きの黄身を器用にトーストに乗せようとして、盛大に滑らせて白身の上に戻していた。不器用な手つきがなんとも微笑ましい。

​教室に入った途端、龍馬の周りをまたたく間にクラスメイト達が囲んでいく。昨日の一件もあって、彼はすっかり学年の中心人物、いや、ちょっとしたアイドル状態だった。
相変わらずの圧倒的な人気者ぶりに、私は自分の席からそっとその様子を窺う。
「なぁ、龍馬。やっぱり部活入ってくれねぇ?」
「龍馬くんって彼女とかいる?」
​男子からは熱烈な部活の勧誘、そして女子からは核心に迫る恋愛事情の探り。
机に囲まれながらも、龍馬は「ん?かのじょ?」と不思議そうに首を傾げている。
(龍馬も馴染めてるみたいだし、気にすることじゃないか)
​これ以上気にしていたら、ただでさえ足りていない睡眠時間がさらに削られそうだ。私はそっと視線を外し、鞄から一冊の文庫本を取り出した。
最近、友達経由で仲良くなった先輩に「これ、どんでん返しが凄くて面白いから読んでみなよ」とオススメされたミステリー小説だ。
​ページをめくると、ざわざわとした教室の喧騒がふっと遠のき、頭の中に洋館が浮かぶ。
今回の舞台だ。
​しんと静まり返った古い洋館、長い廊下に響く足音、不穏な影。かすかに香るインクと紙の匂いが、私を物語の深層へと誘っていく。
クラスメイト達の騒がしい声は、もう完全に背景の環境音になっていた。
​――けれど、その静寂は長くは続かない。
​「莉子ちゃーん、何読みゆうが?」
​不意に、上から降ってきた声と共に、私の視界がふわふわとした茶髪で遮られた。
驚いて顔を上げると、クラスメイトの包囲網をいつの間にかするりとすり抜けてきた龍馬が、私の机に両手を突いて、じっと本を覗き込んでいた。
​「……ちょっと、龍馬。近い。あと、それ何?」
彼の手には、さっきの男子から渡されたらしいサッカー部の勧誘チラシが握られている。
「部活に勧誘されたぜよ!」
「お、おう……楽しそうで何より」
​私が苦笑いしながら答えると、龍馬はチラシを持ったまま、私の顔をじっと見つめて嬉しそうに目を細めた。
「サッカーっちゅうがは、あの白い玉をみんなで追いかける遊びじゃろ? 面白そうやけど、わし、莉子ちゃんと放課後お店を手伝う約束があるき、断ろうと思うちょる!」
​その悪気のない、けれどあまりにも真っ直ぐな言葉が教室に響き渡る。さっきまで彼を囲んでいたクラスメイト達が「えっ……」と一斉にこちらを振り返るのが分かった。
「龍馬、そんな無理に手伝わなくても良いんだよ?放課後は自分の好きなことをするんだよ」
​周囲への弁解も込めて、私はできるだけ事務的なトーンを意識して声を潜めた。
「私だって、毎日手伝っているわけじゃないし……」
​そうなのだ。お母さんだって「気が向いた時だけで良いよ」と言ってくれているし、なんなら私は週に数回、友達と遊んでから帰宅する日だってある。
せっかくこれだけ色んな部活から声をかけてもらっているのだから、彼には人間の中学校生活を全力で謳歌してほしかった。
​しかし、私の必死の提案に対して、龍馬は不思議そうにパチパチと瞬きをした。
それから、何を当たり前のことを言っているんだ、というように、この上なく嬉しそうに笑った。
​「何言いゆうが。わしの『一番好きなこと』は、莉子ちゃんの隣におることぜよ!」
私は額に手を当てて、天を仰いだ。
「莉子ちゃん、どうしたんじゃ?頭でも痛いが?」
​私の絶望的なポーズを見て、龍馬は心配そうに顔をさらに近づけてくる。その瑠璃色の瞳には、純粋に私のことを心配しているだけなのがタチが悪い。
​「痛いのは頭じゃなくて、私の胃……。お願いだから龍馬、少し静かにして……」
その時。
「おーい、龍馬! ちょっといいか?」
​少し引きつった苦笑いを浮かべたサッカー部の男子が、救い出すように龍馬の名前を呼んだ。チラシを渡した張本人だ。
彼のおかげで、私に向けられていた教室中の視線がフッと逸れる。私は本の後ろで、心から「ナイス……!」と彼に感謝の祈りを捧げた。
​「ん?なにじゃ?」
​龍馬は私の机に顎を乗せたまま、億劫(おっくう)そうに首だけをそちらへ向けた。
手強い龍馬をなんとかこちら側に引き戻そうと、サッカー部男子はニカッと不敵な笑みを浮かべ、自信満々に親指を立てた。
「サッカーはなー、モテる部活なんだぜー!」
​男子中学生にとってこれ以上ないであろう、最大の殺し文句。
『モテる』――その一言に、周囲の男子達も「そうだぞ!」「女子からの黄色い声援が飛び交うぞ!」と一斉にガタガタと身を乗り出して頷き、加勢し始める。
どんだけ龍馬をサッカー部に引き入れたいのだろうか?彼らの必死すぎる勧誘っぷりに、私は本の後ろで呆れを通り越して少し感心してしまった。
確かに昨日、体育の授業で見せた龍馬の身体能力は人間離れしていた。喉から手が出るほど欲しい人材なのは分かるけれど、アプローチの仕方が面白い。
​「もてる……?」
​案の定、龍馬は顎を私の机に乗せた形のまま、両目を丸くして言葉の意味を頭の中でこねくり回している。
​「おうよ!試合でゴール決めたりしたらさ、女子からめちゃくちゃチヤホヤされて、人気者になれるんだぞ!」
​熱弁を振るうサッカー部男子。
すると龍馬は、しばらくじーっと天井を見上げて考え込んだ後、ぽん、と手を叩いて納得したように満面の笑みを浮かべた。
​「なるほど!チヤホヤされて、みんなから美味しいおやつをいっぱいもらえるっちゅうことじゃな!」
「いや、おやつじゃなくて!!」
​教室中に響き渡る男子たちの盛大なツッコミ。
どうやら『モテる=ちやほやされて美味しいおやつにありつける』と脳内変換したらしい。
そんな的外れな龍馬の反応に困り果てたのか、今度は別の男子が苦し紛れに私を見て、声を張り上げた。
「んー、そうだなぁ……坂本に好かれるぞ!」
​「ん?」
急に私の名前が挙がったことに驚き、その男子を見る。
​(ちょっと、何巻き込んでくれてんの!?)
​心の中で盛大に突っ込んだけれど、時すでに遅し。
その言葉を聞いた瞬間、龍馬の目の色がガラリと変わった。さっきまでのポカンとしたマヌケな顔はどこへやら、瑠璃色の瞳をらんらんと輝かせ、身を乗り出してその男子の襟首を掴みかねない勢いで食いついた。
​「まっことかっ!?あの白い玉を追いかけたら、莉子ちゃんに好かれるがかっ!?」
​「うおっ、急にやる気になった!?お、おう……! 試合でバシバシゴール決めれば、坂本だって絶対お前に惚れ直すって!」
​男子の適当なノリに、龍馬は「おおお……!」と激しく感動している。
​「莉子ちゃん! わし、サッカーをやるぜよ!わしのこと、もっともっと好きになっておくれ!」
私の両手をがっしりと握りしめてくる龍馬。その破壊力抜群のストレートすぎるおねだりに、教室中の視線が再び私に集中する。
​「お、お前ら、やっぱりそういう……」
「莉子、ドンマイ!」
​周りの誤解に満ちた生暖かい視線に耐えかねて、私は今度こそ頭から机に突っ伏した。ゴン、と鈍い音が響く。
「莉子ちゃん、本当に頭が痛うなったがか?今、ゴンって聞こえたぜよ!?」
覗き込んでくる龍馬の声は、どこまでも純粋で、どこまでも無自覚だ。両手を握られたままの私は、もう顔を上げる気力すら残っていなかった。
​「大丈夫。……龍馬、とりあえず手を離して。あと、サッカーやるならあっちの男子達と話してきて」
机に顔を伏せたまま消え入りそうな声で言うと、龍馬は「おう、分かったぜよ!」と素直に手を離した。
​「おい龍馬、マジでやるんだな!?」
「おう!莉子ちゃんにたくさん好きになってもらうき、そのサッカーを教えておくれ!」
「よし、じゃあ放課後、体操服着てグラウンドな!」
​途端に歓声を上げるサッカー部男子達に連れられて、龍馬がようやく私の机から離れていく。嵐のような賑やかさが教室の隅へと移動し、私の周りにはようやく自分のスペースが戻ってきた。
​ゆっくりと顔を上げると、隣の席の女子が、にやにやとした笑みを浮かべながらこちらを見ている。
「莉子、お疲れ様。なんか……大変だね、色々と」
「……本当に。なんでこうなるのかな……」
「まぁでも、あんなイケメンに直球で『好きになって』って言われるの、ちょっと羨ましいかもよ?」
「マジ勘弁……」