土佐弁男子は気まぐれ猫さん

夕方になり、少し客足が落ち着いた頃。
西日が優しく差し込む、あの南向きの窓辺の席――かつて猫の龍馬が一番お気に入りだった、我が家の『特等席』に、彼はいた。
​椅子に深く腰掛け、窓ガラスに頭を預けるようにして気持ちよさそうに目を閉じている。オレンジ色の夕日を浴びて、彼の茶髪が黄金色にきらきらと輝いていた。
​私はまかないとして新しく淹れたハーブティーと、お母さん特製のシフォンケーキをトレイに乗せて、足音を忍ばせてそっと近づいた。
「龍馬、お疲れ様。これ、どうぞ」
​声をかけると、彼はゆっくりと目を開けた。夕日の光を反射して、彼の綺麗な瞳が猫のように一瞬、細くなった気がした。
​「……ありがとう、莉子ちゃん」
トレイを受け取ると、ふぅふぅと息を吹きかけながら美味しそうにハーブティーを口にする。
そして、空いた方の手で、私の制服の袖の端をきゅっと、まるでおねだりをするように優しく引っ張った。
​「なぁ、莉子ちゃん。ちっくとだけ、ここに座って」
​少しだけはにかみながら手招きされて、私は戸惑いながらも、彼の向かいの席に腰を下ろした。
​「学校、本当に疲れなかった?急にたくさんの人に囲まれて……」
私が心配になって尋ねると、彼はふにゃりと眉を下げて、嬉しそうに笑った。
「莉子ちゃんがおったき、ちっとも疲れちょらん!」
そう言って、龍馬はハーブティーのカップを机に置き、窓ガラスにこつんと頭を預けた。
「結構タフだね」
「タフじゃないが。莉子ちゃんが傍におってくれんかったら、わしは今頃寂しくて消えてしもうちゅうかもしれん」
​龍馬は窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。いつものからっとした調子とは違う、どこか切なさを(はら)んだ声。
夕暮れ時の静かな店内に、その言葉がしっとりと溶けていく。
​「……消えるって、大げさだな〜……もー!」
​私はわざと呆れたような声を出し、トレイで顔を隠すようにしてそっぽを向いた。
「嘘やない!わしにとって莉子ちゃんは世界そのものなんや」
​そう言って身を乗り出した龍馬の顔が、驚くほど近くにあって、私は思わず息を呑んだ。夕日の光をいっぱいに浴びた彼の瞳が、真剣な温度を帯びて私をまっすぐに射抜いている。
​「……っ、またそうやって、恥ずかしげもなく大げさなこと言う」
いつもの調子でからかっているようには、どうしても思えなかった。彼の言葉には、まるで何年も、何十年もずっと胸の奥に温めてきたものを一気に差し出されたような、圧倒的な重みがあったからだ。
​「大げさなんかじゃないぜよ。莉子ちゃんが、あのときわしを見つけて、泥だらけのわしを抱きしめてくれたから……今のわしがおるがじゃ」
​龍馬は机に置いた私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「え、ちょ……龍馬?」
「莉子ちゃん……わし、猫の龍馬ぜよ。……急にいなくなって、寂しい思いをさせて、すまんかったね」
彼の綺麗な瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「……ごめん、ちょっと一人にさせて……」
私は龍馬の手をそっと離し、店から飛び出した。
「莉子!?」
​後ろからお母さんの驚いた声が聞こえた気がしたけれど、今の私は振り返ることなんてできなかった。
ただひたすらに、赤く染まったアスファルトを蹴って、無我夢中で走った。
走りながら、視界が涙で滲んでいく。
​「何が、すまんかったね、だよ……!」
​気づけば、私は学校の裏手にある、小さな公園にたどり着いていた。
昼間は子供たちで賑わうその場所も、今は誰もいない。ただ、満開の桜の木々が、夕日に照らされて静かに佇んでいるだけだった。
​私はすべり台の脇にあるベンチに駆け込み、膝を抱えて座り込んだ。
ハァハァと荒い息を吐き出しながら、溢れてくる涙を制服の袖で何度も拭う。
​信じたくなかったわけじゃない。むしろ、最初から分かっていたのだ。
あのひだまりのような匂いも、距離感のおかしい懐き方も、全部私の大好きだった『龍馬』そのものだったから。
​だけど、もしこれが全部私の都合のいい幻だったら?
私の心が作り出したおとぎ話だったら、その反動に耐えられる自信がなかった。
​「……莉子ちゃん」
​どれくらい、そうしていただろう。
不意に、上から優しく、だけど少し息を切らした声が降ってきた。
​顔を上げると、そこには息を荒くした龍馬が立っていた。
エプロンをつけたまま、ブレザーも着ずに私を追いかけてきたのだろう。
​「……なんで、追っかけてくるの」
​涙声で八つ当たり気味に言う私を、彼は叱ることもせず、ただ困ったように眉を下げて見つめていた。
​「莉子ちゃんが、泣きそうな顔をして走り去るき……。わし、また莉子ちゃんを一人にしてしもうたかと思って、生きた心地がせんかった」
​​彼はゆっくりと歩み寄り、私の前の地面に、すとんと膝をついた。目線を私よりも低くして、下から覗き込むようにして私の顔を覗き込む。
「わしな、嘘はついちょらんよ」
​​龍馬は、そっと私の濡れた頬に大きな手を伸ばした。その手は、人間の男の子の、少し骨張った、だけど驚くほど温かい手だった。
​「あの河原で、泥だらけやったわしを拾ってくれたがも。毎日、おひさまのあたる窓辺で莉子ちゃんの手を舐めよったがも。全部、わしじゃ。おまんの探しようった、龍馬ぜよ」
​「……だったら、なんで」
​涙がボロボロと溢れて、声が震える。
​「なんで、急にいなくなったの……! 私、毎日毎日待ってたんだよ!? すぐ帰ってくるって、お母さん達の言葉を信じて……夕方までずっと、玄関で待ってたのに……!」
​ずっと胸の奥に閉じ込めていた、幼い日の痛みが、堰を切ったように溢れ出した。
私の叫びのような弱音を、龍馬は視線を逸らさずに真正面から受け止めた。彼の瞳からも、一筋の涙が伝い落ちる。
​「すまん。まっこと、すまんかった……。猫の身体っちゅうがは、莉子ちゃんが思うよりずっと、早く時間が進んでしまうがじゃ。わしもおまんとずっと一緒におりたかった。莉子ちゃんが大人になるがを、隣で見届けたかった」
​龍馬は私の小さな手を、両手で包み込むようにギュッと握りしめた。
​「じゃき、神様にお願いしたんじゃ。もし次があるがなら、今度は莉子ちゃんと同じ時間を生きられる身体にしてくれ、って。おまんと手を繋いで、同じ言葉で話せるようにしてくれ、って」
夕日が完全に沈みかけ、あたりに紫色の夜の帳が下り始めようとしている。
「まっこと嬉しかった。莉子ちゃんとおんなじ人間になれて、ほんまに嬉しかった……!今度は、もう一人にせんよ」
​私は小さく頷き、彼の胸に顔を埋めた。
もう、夢の幻なんかじゃない。ここにいるのは、確かに私の大好きだった龍馬だ。
「莉子ちゃん?……寝ちゅー?」
「寝てない……」
「アハハ!そうかそうか」
​​彼が嬉しそうに、大きな手で私の背中をポンポンと叩いた。そのリズムが、優しく私の涙を止めてくれた。



「はぁ……龍馬くんが、あの龍馬、ねぇ……」
お母さんとリビングで向かい合って座るのは、背筋をピンと伸ばした龍馬。お母さんの隣に座るお父さんは、目の前の現実を受け止めきれないのか、さっきから何度も眼鏡を外しては目を擦っている。
​「あなた……これ、本当に『あの龍馬』なんじゃない?」
​お母さんが、袖を引っ張られたお父さんは腕を組み、うーんと唸りながら龍馬を見つめている。
「猫の姿……にはなれるのか?」
「なれないぜよ!……多分」
「「「多分!?」」」
「いや、だって人間の身体になってから、まだ一回も試したことがないきねぇ」
​龍馬は大きな手を頭の後ろに回して、照れくさそうに笑う。
そのあまりにも能天気な返答に、リビングの緊張感は一瞬でズッコケるような空気に変わった。
​「なれないって、お前……。じゃあ、もし今ここで『ニャー』って鳴いてみろって言ったらどうするんだ?」
お父さんが呆れたように尋ねると、龍馬くんは「そんなが、お安い御用ぜよ!」と胸を張る。
「にゃ、にゃお〜ん……?」
​イケメンな男子中学生の口から飛び出した、おそろしくぎこちない猫の鳴き真似。
その場に一瞬の静寂が訪れた後、お母さんが耐えきれずに吹き出した。
「ぷっ……あははは! 龍馬くん、それ全然猫じゃないわよ! どちらかと言えば、ちょっと大きい怪獣みたい!」
「お母さん、笑いすぎだってば!」
私もつられて笑ってしまい、お父さんも観念したようにワシワシと自分の頭を掻きむしった。
​「まあ、いい。細かいことはもう気にするな。……何より、莉子がこんなに笑顔になったのは、お前がいなくなって以来だからな」
​お父さんの言葉に、胸の奥がツンと熱くなる。
龍馬は、お父さんとお母さんに向かって、今度は椅子から降りて畳にしっかりと両手をつき、深く頭を下げた。
「おじさん、おばさん。勝手におらんようになって、心配をかけてまっことすまんかった。……そして、莉子ちゃんを今日まで大切に育ててくれて、ありがとう。これからは、人間として、莉子ちゃんの隣を歩かせてほしいがです」
​その真剣な横顔と、一切の迷いのない声に、もう誰も彼を疑う者はいなかった。
お母さんは目元を少し潤ませながらも、優しい目で彼を見つめ、茶目っ気たっぷりに釘を刺す。
「ふふ、よろしくね、龍馬。あ、でも学校の成績があんまり悪いと、莉子と一緒に日向ぼっこさせないからね?」
「げえっ!勉強はまっこと苦手ながやけど……!」
頭を抱える龍馬に、今度は家族全員で大爆笑となった。
「龍馬」
ひとしきり笑った後、お父さんが急に真面目な顔をして口を開いた。
「莉子は良い嫁になるぞ」
「……えっ!?」
​お父さんのあまりにも気が早すぎる一言に、私の頭は真っ白になった。
「ちょっとお父さん、何言ってるの!?」
「そうよ、あなた。まだ中学生なのに、お嫁さんだなんて早すぎるわよ」
「そうだそうだ〜!龍馬、お父さんのことは気にしなくて良いからね」
慌てて龍馬の方に目を向ける。否定して、早く否定して!
けれど、当の龍馬は、耳まで真っ赤にしながらも、目をこれ以上ないほどキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべていた。
​「―――っ、まっこと、えい響きぜよ……!」
「え?」
「莉子ちゃんが、わしのお嫁さん……!わし、莉子ちゃんを幸せにするきね!約束するぜよ!」
ヤバい、龍馬が人間社会に馴染めてない……。
これじゃあ『この壺を買ったら幸せになれますよ。みんな買ってますよ、当たり前ですよ』なんて言われた日には、家族全員分買ってきそうだ。
それくらい、人間社会には馴染めていない。お父さんの『良い嫁になる』という言葉に食い気味に全肯定したのも、きっと『恋愛的な意味の愛』なんてまだ何も分かっていないからに違いない。
猫だった彼にとって、私への『好き』はきっと、あの泥だらけの河原から救われた時から続く、絶対的な『家族愛』の延長線上なのだ。お嫁さんになればずっと一緒にいられる、それくらいの感覚で、家族愛と恋愛を完全に履き違えているパターンだ、これ!
ヤバい、どうしよう……。