子どもたちのパラダイス

天気……朝晩、小雨が降った。この時季の小雨は木の芽起こしの雨とでも言ったらいいのだろうか、木の枝についているかたいつぼみが雨に刺激を受けて膨らんでいて、みずみずしく輝いていた。

ぼくはいつものように朝、目が覚めると、小雨が降りしきるなか湖畔沿いに散歩に出た。風はもうそれほど冷たくなかったので、雨にぬれても体が冷えることはなかった。清新な早春の風を体いっぱいに受けながら歩いていると、向こうから老いらくさんがやってきた。
「おはようございます」
ぼくはいつものように老いらくさんにあいさつをした。
「おはよう、笑い猫」
老いらくさんも明るい声で、ぼくにあいさつを返してくれた。老いらくさんはそのあと、ぼくに
「サーカス団は、これからもこの公園のなかでまだ興行をやっていくつもりだろうか」
と聞いてきた。
「土曜日ごとに、これからも梅林の近くでしばらく続けるようです」
ぼくはそう答えた。
「でも子どもたちには人気がないのだろう?」
老いらくさんがそう言った。
「ピエロのスイカ―が、子どもたちを楽しませるために別のところに行って興行を始めました」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「そうか。スイカ―は反旗を翻したわけか」
老いらくさんがそう言った。ぼくはうなずいた。
「スイカ―はオウムを連れて楠林の近くにやってきて、歌ったり踊ったりして、子どもたちを楽しい気分にさせていました」
ぼくは老いらくさんにそう言った。すると老いらくさんが
「わしらも子どもたちを楽しませるために何かやらないか」
と聞いてきた。
「ぼくたちに何ができるでしょうか?」
ぼくは老いらくさんに聞き返した。すると老いらくさんが
「おまえには笑うことができるという特技があるから、それを披露すればよいではないか。それだけでたくさんの子どもたちを楽しませることができる」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくは
「確かに、ぼくの笑顔で多くの子どもたちの心を楽しませることができます。老いらくさんは、どんなことをして子どもたちの心を楽しませることができますか」
ぼくは老いらくさんにそう聞いた。すると老いらくさんは、しばらく考えてから
「わしには、これといって特技はないが、ボールのなかに入って、ころころと転がっていくことができる。わしが若いころに見たサーカスのなかに、子猿がボールの上に乗ってから、ボールの上で宙返りをしてそのあと再びボールの上に着地する玉乗りがあった。見ていてとても面白かったし、観客にとても受けていた。わしがボールのなかに入るから、あの芸をおまえの子どもといっしょにやってみたい」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくは思わず、くすくすと笑いながら
「いいですね。玉乗りを見たら、見ている人たちを楽しませることができるかもしれません」
と答えた。老いらくさんが、そのあと
「おまえにはパントー、アーヤー、サンパオと、子どもが三匹いるが、玉乗りに一番適しているのはサンパオではないかと、わしは思っている」
と言った。ぼくはけげんに思って
「どうしてですか?」
と聞き返した。すると老いらくさんが
「パントーは太っているので、バランスの移動がうまくできなくて玉の上に立つことが難しいかもしれない。アーヤーは女の子だから玉の上で宙返りをすることが難しいかもしれない」
と言った。それを聞いて、ぼくは老いらくさんの指摘にうなずけるところがあった。
「分かりました。ではサンパオに玉乗りをする意思があるかどうか聞いてみます」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「分かった。では、このあたりで待っている」
老いらくさんがそう言った。それからまもなく、ぼくは老いらくさんと別れて、うちへ帰って、サンパオに玉乗りのことを話した。するとサンパオが興味を示して、「やってみたい」と言った。それを聞いて、ぼくは再びうちを出て、老いらくさんが待っているところまで戻ってきて、サンパオの気持ちを伝えた。すると老いらくさんが、にんまりした顔をしながら
「では、わしはこれから、うちへ帰って、ボールのなかに体を入れてから、ころころと転がりながら、おまえのうちまでやってくる」
と言った。
「分かりました。ではぼくもこれから、うちへ帰って、うちの前で老いらくさんを待っています」
ぼくは老いらくさんにそう答えた。
「分かった。ではまたあとで会おう」
老いらくさんがそう言った。ぼくと老いらくさんは、それからまもなく再び別れた。
ぼくがうちへ帰ってから、しばらく待っていると、老いらくさんがなかに入ったボールが、うちのまえに転がってきた。ボールのなかから、におい消しのツバキ油のにおいがした。老いらくさんは、ぼくの子どもたちと接するときには、いつもツバキ油を塗っている。ネズミのにおいを消すためだ。ボールは、ぼくの子どもたちにとって大切な遊び道具だから、これまで何度も、子どもたちは老いらくさんと接してきた。しかしボールのなかにネズミが入っているとは子どもたちは全然気がつかないでいる。子どもたちだけではなくて妻猫も気がつかないでいる。
老いらくさんがうちの前に転がってきたのを見て、ぼくは子どもたちに声をかけた。すると、子どもたちがみんな、うちの前まで出てきた。妻猫も出てきた。
「サンパオ、このボールの上に、ちょっと乗ってみなさい」
ぼくはサンパオにそう言った。それを聞いて、サンパオはボールの上に跳び乗ったが、乗った瞬間に、体が前につんのめってすぐに下に落ちてしまった。二度、三度、繰り返していたが、やはり同じだった。要領がつかめていないようだった。パントーとアーヤーがサンパオを見るに見かねて、自分たちも試みていたが、やはり、うまく乗ることができないでいた。それを見て、ぼくは子どもたちに
「大丈夫だよ。何度も練習を重ねたら、そのうちに要領がつかめて乗れるようになるよ」
と言って励ましてあげた。妻猫がそれを聞いて
「最初はやはり誰かに師事したほうがいいのではないでしょうか」
と言った。ぼくはそれを聞いて、スイカ―のことをふっと思った。スイカ―はオウムを訓練して、あんなに立派な歌真似ができる鳥にしたのだから、うちの子どもたちをスイカ―に師事させたら、もしかしたら要領がつかめて乗ることができるようになるかもしれないと思った。『思い立つ日が吉日』というから、ぼくはそのあとすぐに、子どもたちを連れて、サーカス小屋に連れていくことにした。老いらくさんも、ころころと転がりながら、子どもたちのあとからついてきた。子どもたちはボールを見ながら
「不思議なボール。まるで生きているみたい」
と言って、お互いに顔を見合わせながら、くつくつと笑っていた。
ぼくたちがサーカス小屋の入口の近くまでくると、小屋のなかから大きな声がしたので、ぼくはびっくりして、こわごわと小屋のなかをのぞいた。すると団員のなかの一人が厳しい顔をしながら、スイカ―を𠮟っているのが見えた。ぼくは耳をそばだてながら話の内容を聞いていた。するとスイカ―が昨日、公園内の別のところで勝手に興行をおこなったことが団員たちの逆鱗に触れて、それが原因で叱られていることが分かった。
「おまえのようなやつは、即刻出ていけ。団の方針に背くようなことをするやつを絶対に許すわけにはいかない」
中年の禿げた男が不愉快そうに、スイカ―につばをはきかけながら、そう言っていた。それを聞いてスイカ―は
「わしは長年、このサーカス団のなかでピエロとして働いてきたが、その経験を通して、子どもたちが喜ぶことをするのがサーカスだと思っているから、子どもたちを喜ばせただけだ」
と答えていた。すると、中年の禿げた男が
「我々が子どもの好みに合わせるのではなくて、子どもが、我々の崇高な精神を理解して、我々が何を演じてもありがたく受け入れるべきだ」
と言って反論していた。するとスイカーが
「わしはそうは思わない。机上の空論を打ち立てて、それに基づいて子どもに理想を押しつけようとしても、かえって反発を食らうだけだ」
と言って、異を唱えていた。
議論は平行線をたどるばかりで、なかなか折り合いがつきそうになかった。スイカ―はこれ以上、この男と対峙しても、らちが明かないと思ったのか、体の向きを変えて団長のほうを見ながら、団長の意見をうかがっていた。
「団長がおっしゃることに、わしは素直に従います。出ていけと言われるなら出ていきます」
と、スイカ―が、襟を正して、そう言っていた。それを聞いて団長は複雑な顔をしながら
「おまえをここに引き留めておいたら、おまえは肩身が狭い思いをするだろうから、おまえはやはり、ここにはいないほうがいいだろう」
と言った。それを聞いてスイカ―が
「分かりました。では出ていくことにします」
と答えていた。するとそのとき、どこからかオウムが飛んできて、スイカ―がかぶっているシルクハットの上にとまった。それを見て、先ほどの中年の禿げた男が
「オウムは連れていくな。オウムはおまえのものではない。このサーカス団のものだ」
と言った。それを聞いてスイカ―が
「オウムは、わしの物真似しかしないから、ここにいても役に立たない」
と、言葉を返していた。すると中年の禿げた男が
「そんなことはないはずだ。誰の物真似でもするはずだ」
と言っていた。
「だったら、試してみてください」
スイカ―がそう言った。
「分かった。では試してみることにする」
中年の禿げた男はそう言ってから、オウムがよく歌っていた『噢哦歌』を歌い始めた。ところが最後まで歌っても、オウムはただじっと聞いているだけで、真似して歌わなかった。そのあとスイカ―が『噢哦歌』を歌い始めると、オウムはすぐに反応して、スイカ―のあとを継いで、ひとりで歌い始めた。
それを見て、団長が
「分かった。オウムを連れていきなさい」
と、スイカ―に言った。
「分かりました。ありがとうございます」
スイカ―が団長にお礼を言っていた。スイカ―はそれからまもなく、サーカス団の団員たちと、たもとを分かって、翠湖公園の出口に向かっていた。するとそのとき、スイカ―がかぶっているシルクハットの上にとまっていたオウムが、シルクハットを口でくわえてから飛び立っていった。それを見て、スイカ―がびっくりして
「おい、待て。どこへ行くのだ。わしの大切な帽子を返してくれ」
と、オウムに向かって叫んでいた。オウムには言葉の意味が分からなかったので、スイカ―の呼びかけには耳を貸さないで、帽子をくわえたまま出口とは逆の方向に向かって飛んでいった。それを見てスイカ―はオウムを追いかけていった。ぼくも追いかけていった。オウムは楠林のほうに向かって飛んでいた。しばらくしてから、楠林のなかからオウムの歌声が聞こえてきた。『噢哦歌』を歌っていた。スイカ―と、ぼくが楠林のなかに着くとオウムが木の枝にスイカ―のシルクハットをかけながら、テノールのきれいな声で歌っている姿が目に入った。歌い終わったあと、スイカ―がオウムに拍手をすると、オウムは
シルクハットを下に落とした。スイカ―はシルクハットをキャッチして、頭にかぶってから、ほっとしたような表情をしていた。スイカ―の気持ちに、そのとき変化が生じているのに、ぼくは気がついた。公園から今すぐ出ていくのはやめて、もうしばらくこの楠林のなかに留まって、子どもたちを楽しませようと思ったように感じられたからだ。スイカ―の気持ちの変化に気がついて、ぼくはうれしかった。パントーもアーヤーもサンパオも、異口同音に「よかった」と言って、ぼく以上に喜んでいた。