不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった


「陛下、これはどういうことです」

ウィルは兄であるエドワード国王へ鋭い視線を向けた。

長旅から戻ったばかりなのだろう。外套にはまだ薄く砂埃が残っている。

それでも、瞳だけは怒りを隠そうともしていなかった。

「婚約者である私が戻る前に、アリスを呼び出し、すべてを決めてしまわれるとは」

低く抑えられた声だった。

だが、その奥に押し殺した感情が滲んでいる。

エドワードはしばらく黙ってウィルを見つめ、それから息を吐いた。

「戻ってきたか」

短くそう言ってから、厳しい表情のまま続ける。

「アリス様には、早めに決断をしていただいた。この国と国民を、一時でも戦火から遠ざけられる可能性があるのなら、その道を選ばざるを得ない」

その声音には、国王としての重さが滲んでいた。

「……お前にも、分かっているはずだ」

ウィルの眉がわずかに寄る。

アリスは、早めに決断したのは自分なのだと伝えようと口を開く。

「あの、ウィル様……国王様は……」

エドワードがアリスへ首を横に振り、その言葉を遮る。

「これは、トルシア国王としての判断だ。お前に納得してほしいとは言えない。だが……ここは堪えてほしい」

苦しげな声音だった。

ウィルはしばらく何も言わず、やがて怒りを押し出すように深く息を吐く。

どうにもならないことくらい、誰より分かっている。

だからこそ、この苛立ちは自身に向けたものだった。

アリスはウィルの険しい横顔を見つめていた。

――ウィル様に苦しい思いをさせていると思うと、胸が痛い。

それでも。

――私のために怒ってくれた。

その想いがどうしようもなく嬉しかった。

だからこそ、これ以上望んではいけない。

「ゼリアからの迎えが来るのは2日後だ」

エドワードが告げる。

「あちらの使者へアリス王女を引き渡すことが、こちらの返答となる」

「……あまりに早すぎる」

ウィルが悔しさを滲ませるように呟いた。

「こちらの動きを見越しているのだろう」

エドワードは苦々しい表情を浮かべる。

二日後。

その言葉に、アリスは息を止めた。

その短い時間の先に、自分がゼリアへ向かう現実がある。

決めたのは自分なのに、こうして期限を突きつけられると、急に足元が崩れていくような不安に襲われる。

知らず知らずのうちに、指先が震えていた二

ウィルは隣に立つアリスを見つめる。

青ざめていく顔は、不安を押し隠そうとしているのに隠しきれていなかった。

その姿に、一瞬だけ苦しげに目を伏せた。

そして再びエドワードへ向き直る。

「……話が終わりでしたら、私たちは退席いたします」

「あぁ、構わない」

エドワードが頷く。

「それから、アリスには、ゼリアの迎えが来るまで、私の屋敷へ滞在させます」

エドワードは一瞬だけ目を細め、了承した。

「分かった」

アリスは驚いたようにウィルを見上げる。

するとウィルは、先ほどまでの険しさを和らげ、穏やかな表情を浮かべた。

「では、帰りましょうか」

そう言って、腕を差し出す。

「……はい」

アリスは頷き、エドワードへ深く礼をした。

「失礼いたします」

それから、そっとウィルの腕へ手を添えた。

その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた心が少しだけ緩みそうになり、アリスは唇を噛み締めた。



―――――――――――――――



馬車へ向かう間、お互いに会話はなかった。

それでも、ふと視線が合うたび、ウィル様が気遣ってくださっていることだけは伝わってきた。

それだけで、胸を締めつけていた不安がほんの少し和らいだ。

馬車へ乗り込んだ後も、私の左手を握ったまま、ウィル様は何も言わなかった。

その横顔が、とても苦しそうに見えた。

――きっと、ご自分を責めている。

私は膝の上で右手をギュッと握り締める。

これ以上、ウィル様を傷つけたくない。

「あの……」

「私は大丈夫です。だから、ウィル様も――」

最後まで言い切る前だった。

「あ……」

突然、握られていた左手を引かれて、気づけば、ウィル様の腕の中へ閉じ込められていた。

「頼むから、無理しないでくれ」

それだけだった。

その言葉だけで、必死に押さえ込んでいた感情が、一気に崩れていく。

視界が滲む。

次の瞬間には、涙が溢れて止まらなくなっていた。

「っ……う……」

嗚咽を堪えようとしても、うまく息ができない。

ウィル様は、幼い子どもをあやすように、ゆっくりと髪を撫で続けてくれる。

その手が優しすぎて、余計に涙が止まらなくて――。

ただ、泣き続けた。

少しずつ呼吸が落ち着いてきた頃、ウィル様の左手が私の頬を包み込むように触れ、俯いていた私の顔をそっと上へ向けた。

指先が頬を伝う涙を優しく拭う。

「……っ」

至近距離で視線が重なり、熱が一気に頬へ集まっていく。

「えっと、……」

うまく言葉がまとまらない。

「今、泣いて……ひどい顔で……その……」

泣き顔を見られたくなくて、顔を逸らそうとする。

けれど、頬を包む温かな手は離れない。

次の瞬間、伝う涙へ触れるような口づけが落ちてきた。

「……っ」

驚いて目を見開く。

視線を逸らすこともできないまま、そっと唇が重なった。

初めての口づけに、頭の中が真っ白になる。

唇が離れても、ウィル様はじっと私を見つめていた。

恥ずかしくて、思わず視線を泳がせる。

「あ、あの……」

そのまま、再び温かな腕の中へ抱き寄せられた。

「どこにいても、オレの姫だ」

呟くような低い声だった。

――嬉しい。でも、苦しい。

何を返せばいいのか分からない。

ウィル様は少し不満そうに眉を寄せる。

「返事は」

どこか催促するような声音だった。

そっと顔を上げると、翡翠の瞳と目が合う。

せめて、今だけでも――ウィル様の姫でいたい。

「……はい」

この瞬間があまりにも幸せで、ウィル様の胸元へと顔を寄せた。

泣きすぎたせいか、ここ二日ほど眠れていなかったせいか、温かな腕の中が心地よくて、少しずつ瞼が下がっていく。

そんな私の様子に気づいたのか、また優しく髪を撫でてくれる。

「あの……私……」

眠りたくなくて、なんとか口を開く。

ウィル様の表情がふっと和らいだ。

「目を閉じていろ。眠れていないのだろう」

「はい……あまり……」

そう答えたところまでは覚えている。

次の瞬間には、私の意識はゆっくりと遠のいていった。