部屋の中には、リリスが淹れた紅茶の香りが広がっていた。
アリスは椅子へ腰掛けたまま、ぼんやりと窓の外の暗闇を見つめていた。
エドワード国王から話を聞かされた時は、ただ、ウィルとの別れが寂しくて苦しかった。
けれど、時間が経つごとに、ゼリアへ行くという現実も胸へ沈み込んでくる。
国賓というのは、あくまで表向きの理由なのだと、アリスにも分かっていた。
噂を確かめるために呼ばれたのだとしたら、自分にはいずれ良くない運命が待っているのかもしれない。
ふと、矢に射られそうになった恐怖が、脳裏をよぎる。
――もしかしたら、いつか……。
胸の奥へ、ゆっくりと不安が広がっていく。
無意識に首元のネックレスへ手が伸び、指先に触れた鈴蘭の飾りを、ぎゅっと握りしめた。
早く、決心を話さないと、余計なことを口にしてしまいそうで……。
アリスは少しだけ目を閉じてから、立ち上がる。
「……ウィル様が戻られる前に、返事をしないと」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。その言葉に、リリスの手が止まる。
「……え?」
アリスは視線を落としたまま続けた。
「護衛騎士へお願いして、国王様へ面会を申し込んでくるわね。……ゼリアへ行く、と」
そう言って扉へ向かおうとした瞬間だった。
「お待ちください……!」
リリスが慌ててアリスの前へ回り込み、そのまま扉の前へ立ち塞がる。
「どうしてですか? どうして、ご自分の幸せを手放せるのですか?」
叫びに近いような声だった。
「私はアリス様に幸せでいてほしいんです。何より、ウィル殿下はアリス様のことをとても大切に思われています。」
「お願いですから、殿下にはアリス様の本当のお気持ちをお話しください」
その言葉に、アリスの胸が痛む。
「……選ばせるわけにはいかないの」
つぶやくような小さな声だった。
「え……?」
聞き返すリリスへ、アリスはわずかに目を伏せる。
「ウィル様は私にとてもお優しい、でも、ご自身にはとても厳しい方だから」
そして、両手を痛いほど握りしめてから、言葉を続けた。
「――ただ、苦しめてしまうだけだもの」
最後の方は絞り出すような声になった。
「あなたにも分かるでしょう?」
まるで、自身へ言い聞かせるように言葉を続けた。
「最初から、選択肢なんてないことが」
リリスはどうにもならない現実に唇を噛み締めた。
「ねえ、リリス。私、この数か月、本当に幸せだったの」
アリスは幸せそうに微笑んだ。けれど、その笑みは今にも泣きだしそうな儚さを帯びていく。
リリスの目が揺れる。
「だって、ウィル様が、ひとときでも私に心を割いてくださったんですもの」
アリスは一瞬目を伏せてから、リリスをしっかりと見つめた。
「だからこそ、この返事は、ウィル様が戻られる前にしなくてはいけないの」
それ以上、リリスは何も言えなかった。
ただ苦しそうに視線を落とし、それからゆっくりと身体を横へずらす。
「……わかりました」
「ありがとう、リリス」
アリスはリリスの腕へそっと手を添えた。
―――――――――――――――
翌日、夜。
「ゼリア国へ行くことを決めました」
アリスは、早めの面会を許してくれたことへの感謝を述べたあと、自分の決心をはっきりと言葉にした。
エドワード国王は、複雑な表情のままアリスを見つめていた。
せめて、ウィルと話をしてからにしてほしい、そう思っていたのだが——。
結論は変わらないのかもしれない。
だが、言葉を交わせば、未来に希望を持てる可能性だってある。
何より、たとえ奪われても、ウィルが諦めるはずがない。
それでも――彼女の目は、もうどこも見ていなかった。
諦めることが当たり前。
それが、アリス・ミルバーグという王女の人生だったのだと、改めて思い知らされる。
エドワードは深く息を吐き、国王としてではなく、ウィルの兄として口を開いた。
「……ウィルと話をしてから決めてほしいと、個人的には思っていたのだよ」
言い聞かせるような声だった。
「明日には戻ってくる」
その言葉にも、アリスは首を縦には振らなかった。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。でも、これは私自身の問題ですから」
アリスはまっすぐエドワードを見つめた。
「ウィル様とは関係ありません」
その言葉に、エドワードは内心深くため息をついた。
――とても、ウィルには聞かせられない言葉だな。
だが同時に、国家としては、彼女の判断は正しい。
「アリス様。このような結果になってしまったこと、本当に申し訳ないと思っています」
エドワードは、苦しげな表情でそう告げた。
アリスは首を振る。
「いえ、大丈夫です。私には……」
言葉を続けかけた、その瞬間だった。
謁見の間の扉が、勢いよく開かれる。
「ウィル様……」
アリスの声が、かすかに震えた。
「アリス!!」
息を切らしたウィルが、そのまま謁見の間へ踏み込んでくる。
ウィルはアリスだけを射貫くように見つめた。
エドワードは思わず目を閉じる。
――間に合ったか。
わずかに肩の力が抜けた自分に、苦笑したくなる。
どこかで、間に合ってほしいと願っていたのだから。



