不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった


トルシア王城の国王執務室には、重苦しい空気が流れていた。

長机の上に置かれた一通の文書へ視線を落としたまま、エドワード国王はしばらく口を開かなかった。

「……ゼリア国王、ヴェルムント・ゼリアからの正式文書に間違いありません」

側近の一人が告げた。

エドワードは息を吐く。

二か月ほど前から、ゼリア側の動きが妙だった。

これまで繰り返されていた国境付近への圧力が鳴りを潜めていた。

そのため各国はむしろ警戒を強めていた。

ヴェルムントは、何の理由もなく手を止める男ではない。

水面下で何かを進めているのではないか、と。

そうした空気が広がる中で届いたのが、この文書だった。

「よりにもよって、この条件か」

低く落ちた声に、執務室の空気がいっそう沈む。

文書にはこう記されていた。

『両国の友好の証として、アリス・ミルバーグ王女を、しばらくの間、ゼリア王国の国賓として迎え入れたい。

これを受諾いただけるならば、ゼリア王国はミルバーグ王国およびトルシア王国に対する一切の侵略行為を停止し、以後も両国への侵略を行わないことをここに約束する。』

文面こそ丁重だったが、それを善意とは受け取れるはずもない。

そして、その文書が持つ意味は決して軽視できない。

ゼリアほどの大国が正式に不可侵を明示する以上、少なくともすぐに侵略へ踏み切ることは難しくなる。

もちろん、ヴェルムント王を信用することはできない。

それでも、数年、あるいは数か月でも戦火を遠ざけられる可能性があるのなら、その価値は無視できなかった。

「……ウィル団長は、まだフィヨルドです」

控えていた騎士が告げる。

ウィルは現在、フィヨルド国へエドワードの名代として赴いていた。

表向きは交易路の安全確保に関する協議だが、実際には最近のゼリア国の不穏な動きについて、同盟国間で情報共有を行う意味合いが強い。

そしてもう一つ、フィヨルドへ嫁いでいるアリスの姉へ、正式に婚約の報告をするつもりでもあった。

エドワードはゆっくりと目を閉じた。

――残酷な決断をさせなくてすむ。あいつが、この場にいなくてよかった。

もしウィルがいれば、立場上拒むことは出来ない。

そして、あの姫はおそらく、自分を差し出すことを簡単に選んでしまう。

だからこそ、これから行われる会議の場へ弟を立たせたくなかった。

「……ミルバーグへ勅使を出せ。それと、ウィルにも伝令を。現状を報告し、至急帰還するよう伝えろ」

「はっ」

騎士たちが一礼して下がっていく。

それを見届けながら、エドワードは再び文書へ視線を落とした。

ヴェルムント・ゼリア――。

老獪で、猜疑心が強く、執着深い王。

近頃は感情の起伏も以前より激しくなっているという報告も入っている。

ヴェルムント国王は、あの馬鹿げた噂を本当に信じているのか。

それとも、ただ試しているだけなのか。

エドワードは深く息を吐いた。

だが、国民を守る立場にある以上、“私情”を優先することは許されなかった。

たとえ、その先にいるのが、弟が心から大切にしている相手だったとしても。

エドワードは立ち上がる。

「……会議を開く」


―――――――――――――――


ミルバーグ国王アルベルトのもとへ、レオンハルト王子が承認の必要な書類を持って執務室を訪れた時だった。

控えていた騎士が入室し、一通の文書を差し出す。

「ゼリア国より、正式文書が届いております」

アルベルトは眉をひそめながら封を切り、書面へ視線を落とした。

その瞬間、表情が険しくなる。

「……ふざけたことを」

低く吐き捨てるように呟き、そのまま文書をレオンハルトへ差し出した。

レオンハルトも内容を読んだ瞬間、目つきが鋭くなる。

「これは……体のいい人質ですね」

レオンハルトは冷えた声で言う。

「……それとも、妹の噂に業を煮やしたか」

文書を持つ手に自然と力が入り、紙が小さく音を立てる。

アルベルトは苦悶の表情を浮かべた。

「あの子を、どこまで苦しめればいい……。せっかく、幸せを手に入れようとしていたのに」

そう呟くと、アルベルトは強く手を握りしめ、視線を机へ落とした。

しばらく黙り込んでから、アルベルトはレオンハルトへ強い視線を向ける。

「……たとえ娘を切り捨てることになっても、この国を守らなくてはいけない」

苦い声だった。

レオンハルトも険しい表情のまま頷く。

「おそらく、トルシアも同じ判断をするでしょう。アリスは簡単に受け入れてしまうでしょうから」

「……そうだろうな」

アルベルトは深く息を吐いた。

あの子は諦めることに慣れすぎてしまった。

――私のせいだろうな、おそらく。

アルベルトは苦しげに目を伏せ、言葉を続ける。

「……トルシアからも使者が来るだろう。こちらからもトルシアへ勅使を向かわせる」

やがて、ゆっくりと顔を上げた。

「アリスが受諾するならば、ミルバーグとしてもゼリアへの国賓滞在を正式に許可する。その文書を送れ」

「……承知いたしました」

レオンハルトは唇を噛みしめ、頭を下げると、無言のまま執務室を後にした。

アルベルトは目を閉じる。

アリスを妻にと望んだトルシアの王弟も、今頃は怒りと無力感に苛まれているのだろうか。