塔へ戻ってから、5日が過ぎた。
警備体制が見直されたことで、塔の周囲の扱いは以前とほとんど変わらなかった。
林へ続く道も、花壇も、小さな菜園も、そのまま残されている。
護衛の人数は増えているはずなのに、気配は相変わらず自然で、圧迫感はなかった。
翌朝、外へ出ると見慣れた顔がそこにあった。
「おはようございます、姫」
ダリアがいつもの調子で声をかけてくる。
「おはようございます」
思わず、少しだけ表情が緩んだ。
その隣でジョンが頭を下げる。
「お変わりなく何よりです」
「ええ……そちらも」
短いやり取りだけだったが、それだけで胸の奥にあった緊張が少しほどける。
塔も、林も、何も変わっていない。
(……何も、変わってない)
そう思った瞬間、安心している自分に気づく。
けれど同時に、別のことがよぎった。
――ウィル様が、いない。
それだけのことなのに、寂しいと感じてしまう。
戻ってきてすぐは、どこか現実味がなくて――
ウィル様が口にした言葉と、あのときの柔らかな表情。
思い出すたびに、少しだけ胸がドキドキする。
あまりにも信じられなくて、時間が経つほどに、逆に曖昧になっていくような気がした。
まるで、幸せな夢でも見ていたように。
2日目も、3日目、4日目も、ウィル様と顔を合わせることはなかった。
分かっている。
お忙しい方なのだから、私のために時間を割いて下さること自体申し訳ないのに。
それでも、会いたいと我儘な願いが募っていく。
―――――――――
5日目の夜。
私はベンチに腰掛け、ぼんやりと空を見上げていた。
今夜は月が細い。
枝の隙間に浮かぶそれを見ていると、どうしても屋敷を出る日のことを思い出してしまう。
クララさんは優しく微笑んでくれていた。
「アリス様がまた戻られるのを、皆で心待ちにしております」
叶うかどうかわからなくても、その言葉が素直に嬉しかった。
テリーさんも静かに声をかけてくれて、屋敷の方々は皆、わざわざ見送りに出てくれた。
そして、塔の前まで送ってくださった帰り際に、ウィル様はあまりにも自然な顔で言ったのだ。
「また、来ます。アリス」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
呼び捨てにされたことに気づいたのは、少し遅れてからだった。
顔が熱くなって、まともに言葉が出てこない私を見て、ウィル様はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
それから、何事もなかったように一礼して。
「では、ゆっくりお休みください」
私は、動揺したまま、
「あの……おやすみなさい」
そう返すのが精一杯だった。
思い出すたびに、気恥ずかしくなる。
けれど、あれから5日。
会えないだけで、不安だけが募っていく。
あれはやっぱり夢だったのかもしれない。
私なんかが、正式な婚約者として迎え入れられたなんて――。
ため息をついたとき、人の気配に気づく。
「やはり、ここでしたか」
低く落ち着いた声がして、私ははっとして振り返る。
そこに立っていたのは、ウィル様だった。
「……ウィル様」
思わず立ち上がり、軽く礼をする。
ウィル様はそんな私を見てから、わずかに苦笑した。
「ここを、本当に気に入っていますね」
「その……ここにいると落ち着きますから」
小さく頷いてから、ウィル様はベンチへ視線を向けた。
「座っても?」
「は、はい」
私も少し間を空けて腰を下ろす。
しばらく沈黙が続いた。
以前と同じで、どこか落ち着く時間だと思う。
やがて、ウィル様がぽつりと口を開いた。
「もう少し早く来るつもりでしたが、遅くなりました」
その言葉に、少し驚きながら、私は素直な気持ちを口にしていた。
「いえ……来ていただけただけで……嬉しいです」
言った瞬間、頬が熱くなり、慌てて視線を落とす。
「お忙しかったのですよね。私は大丈夫ですから」
「えぇ、まぁ」
短い返答だけだった。
少し間をおいて、
「……大丈夫と言われるのは、あまり嬉しくはないな」
低く、ぼそりと呟きが落ちる。
「……え?」
その言葉の意味に、また顔が熱くなるのが分かる。
ウィル様はそれ以上何も言わない。
――来てくれた。
それだけで、胸の奥にあった不安が少しずつほどけていくのが分かる。
それで、十分だったのに――
「……あの、本当は、少しだけ不安でした」
つい、本音が零れ落ちる。
「たった5日で、だめですね」
小さく苦笑する。
ウィル様がまっすぐ私を見る。
「言葉に嘘はありません」
それだけで、胸がいっぱいになる。
「不安にさせたことは、謝ります」
「いえ……私が勝手に」
慌てて、少し首を振る。
「それでも——」
低い声が、言葉を遮った。
ウィル様が自然な動作で立ち上がり、私の前に立つ。
思わず顔を見上げると、ウィル様の顔がすぐ近くにあって、ドキドキが止まらなくなる。
「あの……?」
額に柔らかな感触がふれて、離れていく。
真っ赤になったまま、私はぴくりとも動けなかった。
ウィル様はそんな私を柔らかな笑みで見つめる。
「今後は、気をつけます」
迷いのない声だった。
「……はい」
視線を上げることができないまま、ただ頷くだけで精一杯だった。
顔が熱い――もう、どうしていいか分からない。
私の動揺が落ち着く頃、ウィル様は立ち上がって、手を差し出す。
「戻りましょうか」
その手を見つめる。
一瞬だけ迷ってから、そっと手を重ねた。
温かい手に、少しだけ安心する。
立ち上がると、自然と距離が近づき、鼓動が早くなる。
とても緊張しているはずなのに、それさえも嬉しい。
でも――こんな時間は長くは続かないかもしれないと、心のどこかで感じていた。



