夜も更け、王宮の一角にある私室には、やわらかな灯りがともっていた。
暖炉の火がゆらりと揺れ、その前ではエドワード国王とナタリア王妃、そして子どもたちが穏やかな時間を過ごしている。
「おじさま、きょうはおしごと、もうおわり?」
六歳のエレナが無邪気に問いかける。
「あぁ、今日はもうお終いだ」
ウィルはいつもよりわずかに柔らかい声で答えた。
八歳のルーカスも身を乗り出す。
「また剣の稽古を見てくれる?」
「時間が合えばな」
短く答えながらも、その声音にはわずかな優しさが混じっている。
ナタリアはそのやり取りを、何も言わず見守っていた。
やがてナタリアはそっと立ち上がり、
「もう寝る時間ね。エレナ、ルーカス」
と声をかける。
子どもたちは名残惜しそうにしながらも、素直に頷いた。
「おやすみなさい、お父さま、お母さま」
「おやすみなさい、おじさま」
メイドに手を引かれ、二人は寝室へと向かう。
扉が閉まる音がした瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
先ほどまでの穏やかさが残りつつも、どこか張りつめたものが混じる。
エドワードがウィルに視線を向ける。
「……それで?」
その一言に、ウィルはわずかに息を整えた。
そして、迷いなく言う。
「アリス王女と結婚を考えています」
その言葉が、部屋の空気に落ちた。
「まあ……」
ナタリアが小さく声を漏らす。
エドワードはすぐには答えなかった。
ただ、弟の目をじっと見つめる。
驚きはあった。
だが、どこかで予想していたような感覚もあった。
警護のためとはいえ、王女を私邸へ招き入れた時点で、違和感はあったのだ。
あのウィルが、他人を自分の領域へ入れる。
それ自体が、これまでには考えられなかった。
ナタリアもまた、同じことを感じていた。
あのときから――もしかしたら、と。
やがてエドワードは、深く息をついた。
「……本気なのだな」
「えぇ、覚悟を決めました」
エドワードはわずかに視線を落とし、それから苦笑する。
「……そうか」
胸の内には、複雑な感情があった。
これまで結婚に興味を示さなかった弟が、ついに伴侶を選んだという安堵。
同時に、どれほど困難な道を選んだかという現実。
「重臣たち全員が反対するとは思わないが……説得するのは骨だな」
率直な言葉だった。
「お前も覚悟しておいた方がいい」
「分かっています。ですから、兄上に先に相談させていただきました」
当たり前のように返された言葉に、エドワードは小さく苦笑した。
「私にも協力しろ、ということか」
「はい」
ウィルは短く答えた。
ナタリアは、そのやり取りに思わず小さく笑みをこぼす。
「ふふ……私は、アリス様が義妹となるのは嬉しいわ」
穏やかな声だった。
「とても優しい方でしたもの」
その一言に、ウィルはわずかに視線を落とす。
エドワードはそんな弟の様子を見て、再び息をついた。
「……それに」
わずかに声の調子が変わる。
「こちらで承認が得られたとしても、ミルバーグ側が同じ判断を下すとは限らない」
現実的な問題だった。
「正直、あちらの反応は読めん」
視線を上げる。
「それでも、進むのか」
短い問いだった。
「えぇ」
ウィルは即座に答えた。
「守ると決めましたので、譲るつもりはありません」
決意に近い言葉に、エドワードはわずかに目を細めた。
そして、ゆっくりとうなずく。
「……分かった」
暖炉の火が、ゆっくりと揺れていた。
―――――――――――――――
王宮の会議室には、重臣たちが顔を揃えていた。
議題はひとつ。
ミルバーグ王国第二王女――アリス・ミルバーグとの婚姻について。
エドワード国王が口を開く。
「本日の議題は承知している通りだ。意見を聞こう」
その一言で、場が動いた。
一人の重臣が口火を切る。
「陛下、やはりこの件は慎重に扱うべきかと存じます。王弟殿下の妃となれば、いずれ王家の一員として国民の前に立つことになります」
別の重臣も頷きながら続ける。
「王女が来て間もなく、ウィル殿下が毒矢に倒れました。犯人はゼリアと判明しておりますが、それでも“不吉を呼ぶ姫”という噂が国民の間に広がっているのも事実です」
他の重臣が反論した。
「そもそも“不吉を呼ぶ姫”などという噂自体、根拠のないものです。噂だけで王族の婚姻を左右する前例を作るべきではありません。それこそ王家の示しがつかなくなります」
さらに別の重臣が口を開く。
「その噂が事実ではないと証明することもできまい」
続いて、別の重臣が静かに言葉を継ぐ。
「仮とはいえ婚約後、ミルバーグとの関係はこれまで以上に強固になりました。ゼリアへの抑止力としても一定の効果を上げている以上、国益という観点から見れば、この婚姻には十分な意義があると考えます」
反対派から再び声が上がる。
「だが、王女自身も襲撃を受けた。王族の婚姻として、あまりに不確定要素が多い」
室内に一瞬重い沈黙が落ちた。
賛成と反対は、ほぼ半々。
決定打に欠けたまま、議論は巡り続けた。
そのときだった。
「……一言よろしいでしょうか」
ウィルの低い声が落ちる。
視線が一斉に向けられる。
「負傷した件については、以前報告した通りです」
わずかに言葉を切る。
「ゼリアの罠にかかった――私の落ち度です」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
「王女の噂とは何ら関係ありません」
はっきりと言い切る。
「むしろ、ミルバーグ王国の第二王女がこの国にいることで、ゼリアとの小競り合いは以前より減少しています」
「王女への襲撃があったこと自体、ゼリア側が王女の存在を警戒していた証拠かと」
視線を上げる。
「少なくとも、現時点で王女は不利益をもたらしてはいないと考えます」
反論は出なかった。
納得したわけではないが、否定できる材料もないまま、互いに視線を交わすだけの時間が過ぎていく。
その様子を見て、エドワードが口を開いた。
「……なるほど」
一度だけ室内を見渡す。
「意見は出揃ったようだな。では結論を出そう」
空気が引き締まる。
「婚姻の話は――進めてよい」
ざわめきが広がる。
「ただし、ミルバーグ王国側の正式な承認を得ることを前提とする」
さらに続ける。
「そのうえで、婚姻に至るまでに再び同様の事態が起きた場合、この話は白紙とする」
反対派にとっても、その条件は譲歩できる一線だった。
「……異論はあるか」
問いに対して、すぐには声が上がらない。
やがて一人が口を開き、「……異存はございません」と答え、それに続いて同様の声が重なっていった。
完全な賛同ではない。
それでも、その条件をもって異を唱える者はいなかった。
エドワードは小さくうなずく。
「この件の責任は、すべて私が負う」
はっきりと言い切ると、それで場の流れは定まった。
ウィルは何も言わなかった。
ただ一度だけ、わずかに視線を落としただけだった。



