執務室に元の静けさが戻ったあと、ふとリリスの言葉が頭に浮かぶ。
――アリス様に、少しでも接する時間を。
この屋敷に彼女が来てから、まともに言葉を交わしたことはほとんどなかったか。
机の上の書類に目を落としたまま、手が止まる。
「……そういえば」
思い出したかのように呟く。
時間が合えば夕食を共にするつもりでいた。
客人として迎えている以上、それくらいの配慮は当然必要だと考えていた。
だが、実際には一度もそうしていなかったことに、今さらながら気づく。
忙しさに紛れて、そのままになっていた。
「……一度も取っていなかったな」
わずかに眉を寄せてから、深く息を吐く。
客人に対して取るべき対応としては、さすがに適切とは言えないだろう。
そこまで考えてから、椅子の背にもたれかかる。
「……明日からは、時間を合わせるか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
それだけのことだと結論づけて、ウィルは再び書類へと視線を戻した。
◇◇◇
ウィルが食堂に姿を現したとき、アリスは一瞬、動きを止めた。
思考が追いつかない。
ここに来てからというもの、夕食を一人で取るのが当たり前になっていた。
だからこそ、目の前の光景がすぐには現実として受け入れられなかった。
(ど、どうしよう。まさか、ウィル様が一緒に夕食を……)
慌てて立ち上がり、ぎこちなく礼をする。
「お帰りなさいませ、ウィル様」
「ええ。お待たせしました」
短く返される。
それ以上、言葉は続かなかった。
席に着いてからも、しばらくは沈黙が続く。
何か話さなければと思うのに、言葉が出てこない。
口を開きかけてはやめることを何度か繰り返し、その間にも時間だけが過ぎていく。
緊張で食事は味が分からないまま、ただ口に運んでいるだけだった。
沈黙が長く続いたあと、ふとウィルが口を開いた。
「先日のお菓子、美味しくいただきました」
その言葉に、思わず顔を上げる。
「はい、あの……お口に合いましたのでしたら、よかったです」
視線を合わせたのはほんの一瞬で、すぐにまた落としてしまう。
「花壇の手入れもしていただいているようで」
続けられた言葉に、アリスはわずかに息を整える。
「あの、こちらこそ……私の勝手を許していただいて、ありがとうございます」
また沈黙が落ちかけたところで、クララが自然に口を開いた。
「アリス様に手伝っていただき、本当に助かっております。昨日も花の種まきをしていただいたんですよ」
「はい。私の好きな花の種も、わざわざご用意していただいて」
「……何の花ですか」
空気が少しだけ緩む。
「鈴蘭です。あまり目立たない花ですけど……私は、好きなんです。小さくて、可愛いので」
アリスは少し息を整えてから続けた。
「来年には咲くと思います。ご覧になっていただければ」
ほんの一瞬だけ、その表情が陰る。
その様子を、リリスは目を伏せ、クララはわずかに目を細めていた。
その後も、沈黙を挟みながらではあったが、ぎこちない会話は続いていった。
◇◇◇
その後、毎日ではないが、夕食を一緒にとるようになった。
最初のうちは沈黙が長く続くこともあったが、日を重ねるにつれて、その間は少しずつ短くなっていく。
「今日は、野菜を植えたんです」
アリスがそう話し出すと、ウィルは視線を向けたまま問い返した。
「何を?」
「トマトときゅうりです」
「そうですか」
「はい、美味しく育ってくれたら嬉しいです」
アリスはそう言って、わずかに笑みを浮かべる。
「えぇ」
ウィルも短く応じる。
言葉は多くないが、ウィルからの問いかけは途切れず、話は自然と続いていく。
それに答えていくうちに、アリスの言葉は少しずつ迷いをなくしていった。
気がつけば、言葉を選びすぎることもなくなり、その日の出来事を自然に口にしている。
話し終えたあと、沈黙が落ちても、気にならなくなっていた。
◇◇◇
アリスがウィルと夕食を共にすることが十回を超えた頃。
「明後日がクララさんのお誕生日だと、他の方にお聞きして」
「あぁ、そうでしたね」
ウィルが相槌を打つ。
「それで、クララさんにケーキを作れたらと思って、バラクさんに相談しているんです」
アリスは楽しそうに笑みを浮かべる。
その表情に、ウィルは一瞬だけ視線を止めたが、すぐに手元へ視線を戻した。
「それは、クララのために礼を言います」
「いえ、私がやりたくて……クララさんにはとてもよくしていただいていますし」
少し照れたように視線を落としながら、アリスは続ける。
ウィルは短く頷き、グラスに手を伸ばした。
「ケーキは、よく作られるのですか」
「いえ、実はあまり……でも、バラクさんが手伝ってくださるとおっしゃってくださって」
「あぁ」
短いやり取りのあと、ウィルはグラスを置き、ふと思い出したように顔を上げる。
「姫の誕生日はいつですか」
アリスは一瞬、言葉を止めた。
つい先ほどまでケーキの話をしていたばかりだ。
ここで伝えれば、気を遣わせてしまうかもしれない。
それでも、嘘をつくわけにもいかない。
「……一週間後です」
呟くように答える。
「そうでしたか」
ウィルは短く頷いただけだった。
それ以上深く尋ねられなかったことに、アリスはかえってほっとする。
――祝ってもらうような立場でもないのだし、変に気を遣わせてしまうのは申し訳ないもの。
だから、これでよかったのだと自分に言い聞かせるように、そっと息をついた。



