ウィルはいつもより遅い時間に屋敷を出ることになり、外套を羽織って外へ出る。
本来であれば今日は休みのはずだったが、朝のうちに王宮から使いが来たことで予定は崩れ、急ぎ出仕することになった。
その途中、庭の方から人の気配を感じて、ふと足を止めた。
視線を向けると、数人の使用人が作業をしており、その中に見慣れた黒髪が混ざっているのが目に入った。
アリスだった。
少し離れた場所で花がらを摘んでいた。
その手つきは迷いもなく、慣れた様子で無駄なく作業を進めている。
挨拶をするべきかと一瞬考えたが、足はそのまま動かなかった。
使用人の一人が何かを言うと、アリスは顔を上げ、頷いてからわずかに笑みを浮かべた。
その表情に、ウィルはわずかに目を細める。
自分の前にいるときは、いつもどこか硬さが残っている。
気を遣い、言葉を選び、距離を測るような――そんな表情。
だが、今は違う。
誰かと並び、手を動かし、自然に言葉を交わしている。
その合間に見せる笑みはどこか柔らかくて、一瞬だけ目を奪われた。
……ああいう表情もするのか。
息を吐き、それ以上見ているべきではないと判断して視線を外した。
そのまま踵を返し、厩舎へ向かう。
結局、声はかけなかった。
ただ、何故か視線はもう一度庭の方向へ向けていた。
――――――――――――
王宮からの用件を終え、屋敷へ戻ったのは夜に差しかかる頃だった。
外套を外し、私室へ向かう途中で、クララとテリーの姿が目に入る。
2人は話をしていたが、ウィルに気づくと揃って一礼した。
「おかえりなさいませ、ウィル様」
「ああ」
短く応じると、クララが一歩前に出る。
「本日はお休みでしたのに、大変でございましたね」
「問題ない」
そう返しながら、ウィルは視線をわずかに外す。
「……屋敷の様子はどうだ」
それは確認のための問いだった。
だが、クララはすぐに意図を察したように、わずかに口元を緩める。
「問題なく整っておりますよ」
「アリス様には、庭の手入れや料理の手伝いなど、ご希望に沿う形でお過ごしいただいております」
その言葉に、テリーも続けた。
「使用人たちとも自然に言葉を交わしておられます。最近は、笑みを浮かべられているところもお見受けいたします」
ただの報告だったが、そこには明確な評価が含まれていた。
クララがふっと息をつく。
「思っていた以上に、しっかりされた方でいらっしゃいますね」
その言い方は、どこか含みを持っていた。
「屋敷での暮らしにも、無理なく溶け込まれておりますし……」
一瞬だけ言葉を切り、わずかに口元を緩めてから続ける。
「このままこちらでお過ごしいただいても、特に問題はないかと」
クララの言葉の意図を察し、ウィルはわずかに眉を動かした。
「……そうか」
否定する言葉が、すぐには浮かばなかった。
その反応を見て、テリーが視線を上げる。
「念のため、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「アリス様は、いずれ塔へお戻りになるご予定で間違いありませんか」
どこか、曖昧さを許さない質問だった。
ウィルは一瞬だけ間を置いてから、答える。
「……ああ。塔の警備体制の見直しが終わり次第、戻る予定だ」
「塔は、あの姫のために建てられたものだ。今回のことは、あくまで緊急の措置に過ぎない」
言葉は淡々としており、その内容が変えられないことが明確に伝わる。
クララとテリーは、それ以上は何も言わなかった。
ただ、わずかに視線を交わし、それぞれが一歩下がる。
「承知いたしました」
「ご判断に従います」
2人はそう言って、頭を下げた。
ウィルはそれ以上何も言わず、私室へ向かおうとした。
そのとき、クララがふと視線を上げる。
「アリス様」
呼びかけに反応して、ウィルも振り返った。
――――――――――――
アリスは1階の食卓で一人、夕食を終えようとしていた。
屋敷へきた当初、ウィルと夕食を一緒にとる機会もあるかもしれないと言われていた。
けれど、ウィルが忙しいため顔を合わせることは一度もなく、こうして一人で過ごす時間が当たり前になっていた。
食事を終え、手元に置いた布包みへと視線を落とす。
昼間リリスとともに作った菓子で、屋敷の人々にはすでに配り終えていた。
そのとき、玄関の方から扉の開く音がかすかに届いた。
アリスは思わず顔を上げる。
――帰ってこられたのかしら。
そう思った瞬間、胸がわずかに強く打つ。
だが、動こうとした足は止まってしまった。
仕事から戻られたばかりでお疲れのはずなのに、突然声をかけてお菓子を差し出すなど、失礼ではないだろうか。そう考え始めると、手にしている包みの重みばかりが意識される。
その様子に気づいたのか、そばに控えていたリリスが静かに声をかけた。
「アリス様、いかがなさいましたか」
アリスは少し迷ってから口を開く。
「……お疲れなのに、お菓子のことでお引き止めしてしまったら、ご迷惑じゃないかしら」
そう言って包みを見せると、リリスはやわらかく微笑んだ。
「屋敷の皆さまにお配りになられたのですよね」
アリスは頷く。
「でしたら、ウィル殿下にもお渡ししないと、失礼かと存じます」
その言葉に、アリスは一瞬だけ目を伏せる。
「……そうよね。受け取っていただけなくてもお渡ししないと」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「ありがとう、リリス」
「とんでもございません」
アリスは包みを持ち直し、立ち上がった。
玄関へ向かう足取りは、緊張のせいで自然とゆっくりになる。
ちょうどそのとき、ウィルは私室へと向かおうとしていた。
最初に気づいたのはクララで、アリス様、と声をかけられたことでウィルも視線を向ける。
アリスはあわてて一歩下がり、軽く膝を折った。
「お帰りなさいませ」
ウィルは短く応じ、それから整った口調で続ける。
「姫も、変わりなく過ごされているようで何よりです」
その一言を聞いた瞬間、アリスの動きが止まる。
やはり、失礼ではないかという思いが胸に広がり、上手く言葉が出てこない。
その空気をほどくように、クララがやわらかく声をかけた。
「本日は、屋敷の皆にお菓子をお作りになられたのですよ。私たちもいただきました」
その言葉に、ウィルがわずかに視線を動かす。
「……そうか」
一瞬だけ間を置き、それからアリスへと向き直る。
「屋敷の主として礼を言います」
その言葉に、アリスははっとして顔を上げた。
「あの……ウィル様のお口に合うか分かりませんが」
手にしていた包みを、遠慮がちに差し出す。
「もし、よろしければ……」
ウィルは一歩近づき、迷いのない動きでそれを受け取る。
「ありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものがふっとほどけた。
アリスは安堵の息をつき、わずかに笑みを浮かべる。
すぐに姿勢を正し、軽く一礼する。
「お疲れのところ申し訳ありません。では、おやすみなさい」
ウィルはその背を見送ったまま、しばらく動かなかった。
包みの重みだけが、手の中に残る。
屋敷の主として受け取るのは当然のことだと、割り切っているはずなのに、先ほどのあの一瞬が離れない。
――ほっとしたような、わずかに浮かんだ笑み。どこか、出仕前に見かけた表情にも似ていた。
ウィルは一度だけ視線を落とし、そのまま歩き出した。



