気持ちが少し落ち着いてきたころ、控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします、アリス様」
入ってきたのは、メイド長のクララだった。
「少し、ゆっくりできましたでしょうか?」
クララは柔らかな声でそう尋ねながら、部屋の様子をさりげなく確認する。
アリスは頷いた。
「お気遣いありがとうございました」
そう答えると、クララはわずかに微笑む。
「それは何よりでございます」
「これから、アリス様のお荷物も届く予定となっておりますので、またお持ちいたします」
「はい」
「何かご要望などございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
少しだけ迷ってから、アリスは言葉を続けた。
「……あの、でしたら」
「できれば……庭園のお手入れや、料理のお手伝いなどをさせていただけたら」
「お世話になるので、侍女のリリスと一緒に、少しでもお役に立てたらと思いまして」
「私にできることは、それくらいしかありませんから」
そう言って、アリスは一度だけ視線を落とした。
クララの眉が、ほんのわずかに動く。
一国の王女としてありえない申し出ではあったが――なるほど、とクララは小さく納得した。
旦那様から聞いていた話が、ふとよぎる。
要望を口にしたあとで、アリスはわずかにためらう。
――無理をいってしまったかしら。
「もちろん、警備などの都合で難しいようでしたら……お部屋で大人しくしています」
言い添えると、クララは一度、静かに目を伏せた。
「お気持ちはありがたく存じます。ただ……少々、確認が必要でございますね」
その言い方はどこかやわらかくて、思わず肩の力が抜けた。
「少しでも難しいようでしたら、私は大丈夫ですから……」
そう続けると、クララはわずかに目を細めた。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
アリスがうなずくと、クララは声を落として続ける。
「旦那様のことを、どう思われているのですか?」
その問いに、アリスは驚いたようにクララの方を見た。
「どう、ですか?」
突然の質問の意図が分からず、わずかに考える。
けれど、隠す必要もないと思い、感じている印象をそのまま口にした。
「お優しい方だと思います」
その答えに、クララは一瞬だけ意外そうな表情を浮かべた。
それから、ふっと笑みをこぼす。
「やはり、面白い方ですね。アリス様は」
「えっと……?」
予想外の言葉に、アリスは戸惑いながら首をかしげた。
クララは、はっとしたように言葉を補う。
「失礼いたしました。ただ、旦那様は普段からあまり愛想の良い方ではありませんので」
――確かに、私に対してだけ口数が少ないわけではない。ご家族と話されているご様子も、どこか似たような感じだった気がする。
ただ――
「ウィル様は、親しくされている方々と接するとき、どことなく雰囲気が柔らかくなりますから」
自然と、言葉がこぼれた。
「だからこそ、本当に大切に思っていらっしゃるのだと、よく分かります」
クララは目を丸くする。
「旦那様のことを、よくご理解されているのですね。アリス様は」
その言葉に、アリスは少し首を振る。
「いえ、ただ、遠い人間だからこそ、簡単に分かることもありますから」
そう言ってから、少しだけ視線を落とす。
「それに……不吉を呼ぶ姫である私に、愛想を向けてくださる方は、あまり多くはないですし」
愛想のない態度を向けられることは、アリスにとっては昔から珍しいことではなかった。そう思って、そのまま言葉にした。
「アリス様」
クララはゆっくりと歩み寄り、アリスの手に優しく触れる。
「ご自分のことを、そのようにおっしゃるのは感心いたしません」
やわらかな声音だった。
「アリス様は、たしかに人とは違う黒い瞳をお持ちです。ですが、旦那様からお聞きしていた通り――」
そこで、ほんのわずかに言葉を区切る。
「お優しくて、どこか可愛らしい、普通の姫様でいらっしゃいます」
優しい笑みとともに向けられた言葉に、アリスは息をのんだ。
「かわ……」
お世辞だと分かっている。
それでも、家族とリリス以外に、そんなふうに言われたことは――ほとんどなかった。
思わず頬が熱を帯びる。
そのとき、不意に部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
扉の向こうから聞こえたその声に、アリスは思わず顔を上げた。
開いていた扉から、ウィルが部屋へと入ってきた。
クララはすぐに主人へ向けて丁寧に一礼する。
アリスもあわてて椅子から立ち上がり、軽く膝を折った。
「クララ、あまり話を誇張するな」
ウィルはそう言いながら、わずかに眉を寄せる。
その声音は低く、抑えられているものの、どこか居心地の悪さを含んでいた。
クララはまったく動じることなく、穏やかなまま応じる。
「まあ、旦那様。誇張とは心外でございます」
口調は丁寧だが、ほんのわずかに譲らない気配が混じっている。
「失礼ながら、私の記憶に間違いがなければ、同じようなことをおっしゃっていたかと」
きっぱりと言い切る。
その言葉に、アリスの頬が先ほどより、じわりと熱を帯びた。
どう反応すればいいのか分からず、視線が彷徨う。
ウィルは一瞬だけ言葉に詰まったように、わずかに視線を逸らした。
「……だから、オレは、普通だとは言った……」
言いかけて、止まる。
クララに鋭く見つめられて、深くため息をついてから。
「確かに、気が優しいとも……だが、それ以上は……」
さらに、言葉を選び直すように、ほんのわずかな沈黙が落ちる。
「いや、その……」
上手く言葉が続かない。
「あなたがどうというわけではなくて……」
完全に言葉を探している様子だった。
その姿に、アリスは一瞬だけ目を瞬かせる。
―――たぶん、「可愛い」はクララさんの言葉なのだろう。
はっきり言っていただいて構わないのに。
頬の熱さがスッと引いていく。
その代わり、初めて見たウィルの動揺ぶりに、思わず、少しだけ口元が緩む。
それに、自分なんかのために言葉を選び、困っているウィルの気遣いが十分すぎるくらい伝わった。
――やっぱり、優しい方だわ。
「あの、分かっていますから」
声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
ウィルは一瞬だけ視線を下げ、アリスを見る。
その視線はすぐに逸らされた。
「……そうですか」
短く、それだけ返す。
軽く咳払いをして、ウィルはすぐにいつもの無表情へと戻る。
クララはその一連のやり取りを、静かに見ていた。
旦那様があのように言葉を選びすぎて、詰まることは、滅多にない。
それだけでも珍しいことだが、それ以上に――
その言葉を受けたアリスの反応が印象的だった。
やわらかく受け止め、かすかに笑みを浮かべている。
その変化に、クララはわずかに目を細めた。
「姫の付きの者が来ています」
ウィルがそう言って、扉の方へと視線を向けた。
その声は、すでに落ち着きを取り戻している。
アリスはその言葉に、はっと顔を上げた。
扉の向こうに、気配がある。
遠慮がちに、入るタイミングをうかがっているような、そんな空気。
「……入ってくれ」
その声に応じて、扉がゆっくりと開いた。
「アリス様……」
リリスが、今にも泣きそうな表情で中へ入ってきた。
「……申し訳ありませんでした」
深く頭を下げたまま、続ける。
「気を失ってしまうなんて……お側にいるべき立場なのに」
アリスは小さく首を振ってから、リリスに触れて、頭を上げさせた。
「大変なことがあったのだから、仕方がないわ」
「リリスが無事で、本当に良かった」
そう言って、アリスは安堵の笑みを浮かべた。
その様子を、ウィルは何も言わずに見ていた。
クララはわずかに目を細める。
――思っていた以上に。



