その低い声で、私の嘘をほどかないで

翌朝、私は出勤してすぐ、確認手順の見直し案を作った。

名前、住所、生年月日。
入力前、入力後、交付前。
三回、指差し確認をすること。

昨日のミスは消えない。けれど、次を防ぐことはできる。そう思えたのは、佐伯課長の声が私を責めなかったからだ。

「藤野さん」

呼ばれても、今日は逃げなかった。

振り向くと、佐伯課長が私のデスクの横に立っていた。

「昨日の件、課内共有の資料です。確認をお願いします」

私は紙を差し出した。

佐伯課長は目を通し、静かにうなずく。

「わかりやすいですね」

その一言で、胸の奥に残っていた硬いものが少し溶けた。

「ありがとうございます」

「顔色、少し戻りましたね」

「昨日は、すみませんでした」

「その謝罪はもう受け取りました」

「でも」

「藤野さん」

低い声で名前を呼ばれ、私は口を閉じた。

「あなたは、ちゃんと次の仕事をしています。それで十分です」

十分。
その言葉が、こんなにやさしく聞こえるなんて知らなかった。

午前中、私は課内で確認手順を共有した。山下さんは何度もうなずき、小野さんは「これ、窓口の横に置いておきたい」と言ってくれた。

失敗した場所からでも、少しだけ変えられる。

そう思えた。

昼休み前、窓口が落ち着いた頃、佐伯課長が私に声をかけた。

「藤野さん、少し時間ありますか」

「はい」

「相談室へ」

昨日、泣いた場所だ。

小さな部屋に入ると、外のざわめきが遠くなった。机を挟んで向かい合う。昨日と同じなのに、今日は空気が違っていた。

「昨日のことについて、私からも話があります」

「はい」

私は背筋を伸ばした。

けれど、佐伯課長は少し沈黙したあと、思いがけないことを言った。

「昨日、あなたが泣いたとき、抱きしめたいと思いました」

息が止まった。

「……え?」

「上司としては不適切です。だから何もしませんでした。でも、何も思わなかったわけではありません」

低い声が、まっすぐ胸に届く。

「俺は、あなたが自分を責めすぎるところを見ると、放っておけなくなります」

「それは……上司として、ですか」

ずっと怖くて聞けなかったことを、ようやく口にした。

佐伯課長は静かに答えた。

「最初は、そのつもりでした」

「最初は?」

「今は違います」

鼓動がうるさくなる。

「藤野さん」

また名前を呼ばれる。

やっぱり私は、この声に弱い。

「あなたが俺の声に弱いなら、これからは、困らせるためじゃなく、安心させるために使いたい」

喉の奥が熱くなった。

「そんなことを言われたら、余計に困ります」

「困らせましたか」

「はい」

「すみません」

「謝らないでください」

私は小さく笑った。泣きそうなのに、笑っていた。

「課長の声は、ずるいです」

「昨日も聞きました」

「忘れてくれなかったんですね」

「忘れられません」

まっすぐ言われて、視線を落とす。

私はずっと、仕事の顔で気持ちを隠してきた。窓口では落ち着いて、職場では迷惑をかけず、一人で処理する。それが大人になることだと思っていた。

でも、この人の前ではうまく隠せない。

「私、課長の声が好きです」

言ってしまった。

今度は、ごまかさなかった。

「でも、たぶん、それだけじゃありません。その声で、ちゃんと必要なことを言ってくれるところが好きです。甘やかすだけじゃなく、間違ったときは止めてくれるところも」

佐伯課長は、黙って聞いていた。

「だから、声が好きなんじゃなくて……課長に呼ばれる私が、好きなのかもしれません」

言い終えた瞬間、逃げ出したくなるほど恥ずかしかった。

そのとき。

「香澄さん」

初めて、下の名前で呼ばれた。

胸の奥が甘く震える。

「今の呼び方は、反則です」

「そうですね」

「わかっていて呼びました?」

「はい」

少しだけ笑った声だった。

「課長、意外とずるい人ですね」

「あなたにだけです」

もう、何も言えなかった。

佐伯課長は机の上の手を、少しだけこちらへ近づけた。私はその手に、そっと指先を重ねる。

「私も、佐伯さんの近くにいたいです」

課長ではなく、名前で呼んだ。

彼の表情が、初めてはっきり和らいだ。

「仕事中は課長で」

「はい」

「二人のときは、怜司で」

「……努力します」

「今、呼んでください」

「無理です」

即答すると、怜司さんは小さく笑った。

低くて、やわらかい笑い声。

やっぱり、ずるい。

相談室を出る前、彼が私を呼んだ。

「藤野さん」

仕事用の名前。
仕事用の距離。

それでも、その声の奥には私だけが知っている温度があった。

「はい、佐伯課長」

私は笑って振り向いた。

その声で名前を呼ばれるたび、もう逃げられない。

でもこれからは、逃げなくていい。

その声は、私を困らせるだけじゃない。
私を、ちゃんと安心させてくれる声だから。