翌朝、私はいつもより十五分早く出勤した。
昨夜のことを思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
――藤野さんは、俺の声に弱いということですか。
あの低い声で、そんなことを言われた。
今日は、佐伯課長と余計な会話をしない。そう決めていた。
けれど、執務室の扉を開けた瞬間、その決意は崩れた。
「おはようございます、藤野さん」
課長席から声がした。
佐伯怜司は、もう出勤していた。いつも通り落ち着いた顔で、書類に目を通している。
「……おはようございます」
声が裏返らなかっただけ、まだよかった。
私は自分の席に座り、パソコンを起動する。とにかく仕事に集中しようとした。
「藤野さん」
また呼ばれる。
それだけで、心臓が跳ねた。
「昨日の確認書類、こちらで預かっています」
差し出された書類を受け取るとき、指先が少し触れた。
「すみません」
反射的に手を引くと、佐伯課長がわずかに目を細める。
「そんなに警戒しなくても」
「警戒はしていません」
「では、緊張ですか」
「……仕事中ですので」
答えになっていない。
佐伯課長はそれ以上追及せず、机の上のファイルに視線を落とした。
「今日も窓口は混みそうです。山下さんのフォローをお願いします。ただし、全部引き受けないように」
「わかっています」
「本当に?」
少し柔らかい声。
その一言で、また胸が揺れる。
昨日までは、ただの業務連絡だった。
今は違う。
彼は知っている。
私が、彼の声に弱いことを。
午前中の市民課は、予想通り混み合った。
住民票、転入届、印鑑登録。番号札の表示はなかなか減らない。私は窓口と新人の山下さんのフォローを行き来した。
「藤野さん、この委任状って、ここでいいんですか」
「日付と署名を確認して。本人確認書類もね」
山下さんは真面目だけれど、まだ窓口に慣れていない。少し強く言われると、すぐ手元が止まる。
そのたびに、私は横から入った。
「お客様、こちらで一度確認いたします」
笑顔で対応しながら、視線を感じる。
少し離れた場所で、佐伯課長がこちらを見ていた。
怒っているわけではない。
ただ、私がまた抱え込んでいないか、確かめているようだった。
昼休み、給湯室で小野さんに捕まった。
「香澄、今日なんか変」
「そう?」
「課長に呼ばれるたびに固まってる」
「固まってないよ」
「もしかして、意識してる?」
「してない」
即答すると、小野さんはにやりと笑った。
「その即答が怪しい」
逃げようとした、そのときだった。
「藤野さん」
低い声が、給湯室の入口から届いた。
私は固まった。
佐伯課長は資料を手に立っている。
「午後三時の相談対応、同席をお願いします」
「はい、わかりました」
「無理のない範囲で構いません」
その声が、妙に優しい。
「大丈夫です」
「本当に?」
「……大丈夫です」
佐伯課長が去ると、小野さんが私の肩をつついた。
「今の何?」
「何でもない」
「耳まで赤いけど」
「暑いだけ」
「今日、涼しいよ」
何も言い返せなかった。
午後三時の相談は、離婚届に関するものだった。
窓口に来た女性は、バッグを握りしめていた。
「相手が勝手に出したら、受理されてしまうんですか」
私は制度を説明する。
「不受理申出という手続きがあります。ご本人が申し出れば、本人確認なしの届出を防ぐことができます」
女性はうなずいたけれど、不安そうだった。
「でも、夫に知られたら……」
その先を、無理に聞くことはできない。
私が言葉を探していると、隣の佐伯課長が静かに口を開いた。
「急がなくて構いません。ご自身の安全を一番に考えてください」
低く、落ち着いた声。
その瞬間、女性のこわばった肩が少し下がった。
私は気づいた。
この声に安心するのは、私だけじゃない。
相談を終えた女性が帰ったあと、私は思わずつぶやいた。
「課長の声って、安心しますね」
言ってから、はっとする。
佐伯課長がこちらを見る。
「昨日は、ずるいと言っていました」
「忘れてください」
「難しいです」
淡々とした声なのに、少し笑っているように聞こえた。
私は書類を抱えて立ち上がる。
「戻ります」
「藤野さん」
また呼び止められる。
逃げたい。
なのに、足が止まる。
「俺は、あなたを困らせたいわけではありません」
その声は、いつもより少し低かった。
「ただ、昨日のことをなかったことにはしたくない」
胸が縮む。
「……どういう意味ですか」
「あなたが何に安心して、何に緊張するのか。知っておきたいと思いました」
それは上司としてですか。
そう聞きかけて、やめた。
聞いてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
私は視線を落とす。
「そういうところが、困るんです」
「声ですか」
「声も、です」
今度は、はっきり言ってしまった。
佐伯課長は何も言わなかった。
でも、その沈黙は嫌ではなかった。
名前を呼ばれるたび、逃げられない。
けれど本当は、逃げたいだけではないのかもしれない。
呼び止められるたび、少し安心している自分に、私はもう気づいてしまっていた。
昨夜のことを思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
――藤野さんは、俺の声に弱いということですか。
あの低い声で、そんなことを言われた。
今日は、佐伯課長と余計な会話をしない。そう決めていた。
けれど、執務室の扉を開けた瞬間、その決意は崩れた。
「おはようございます、藤野さん」
課長席から声がした。
佐伯怜司は、もう出勤していた。いつも通り落ち着いた顔で、書類に目を通している。
「……おはようございます」
声が裏返らなかっただけ、まだよかった。
私は自分の席に座り、パソコンを起動する。とにかく仕事に集中しようとした。
「藤野さん」
また呼ばれる。
それだけで、心臓が跳ねた。
「昨日の確認書類、こちらで預かっています」
差し出された書類を受け取るとき、指先が少し触れた。
「すみません」
反射的に手を引くと、佐伯課長がわずかに目を細める。
「そんなに警戒しなくても」
「警戒はしていません」
「では、緊張ですか」
「……仕事中ですので」
答えになっていない。
佐伯課長はそれ以上追及せず、机の上のファイルに視線を落とした。
「今日も窓口は混みそうです。山下さんのフォローをお願いします。ただし、全部引き受けないように」
「わかっています」
「本当に?」
少し柔らかい声。
その一言で、また胸が揺れる。
昨日までは、ただの業務連絡だった。
今は違う。
彼は知っている。
私が、彼の声に弱いことを。
午前中の市民課は、予想通り混み合った。
住民票、転入届、印鑑登録。番号札の表示はなかなか減らない。私は窓口と新人の山下さんのフォローを行き来した。
「藤野さん、この委任状って、ここでいいんですか」
「日付と署名を確認して。本人確認書類もね」
山下さんは真面目だけれど、まだ窓口に慣れていない。少し強く言われると、すぐ手元が止まる。
そのたびに、私は横から入った。
「お客様、こちらで一度確認いたします」
笑顔で対応しながら、視線を感じる。
少し離れた場所で、佐伯課長がこちらを見ていた。
怒っているわけではない。
ただ、私がまた抱え込んでいないか、確かめているようだった。
昼休み、給湯室で小野さんに捕まった。
「香澄、今日なんか変」
「そう?」
「課長に呼ばれるたびに固まってる」
「固まってないよ」
「もしかして、意識してる?」
「してない」
即答すると、小野さんはにやりと笑った。
「その即答が怪しい」
逃げようとした、そのときだった。
「藤野さん」
低い声が、給湯室の入口から届いた。
私は固まった。
佐伯課長は資料を手に立っている。
「午後三時の相談対応、同席をお願いします」
「はい、わかりました」
「無理のない範囲で構いません」
その声が、妙に優しい。
「大丈夫です」
「本当に?」
「……大丈夫です」
佐伯課長が去ると、小野さんが私の肩をつついた。
「今の何?」
「何でもない」
「耳まで赤いけど」
「暑いだけ」
「今日、涼しいよ」
何も言い返せなかった。
午後三時の相談は、離婚届に関するものだった。
窓口に来た女性は、バッグを握りしめていた。
「相手が勝手に出したら、受理されてしまうんですか」
私は制度を説明する。
「不受理申出という手続きがあります。ご本人が申し出れば、本人確認なしの届出を防ぐことができます」
女性はうなずいたけれど、不安そうだった。
「でも、夫に知られたら……」
その先を、無理に聞くことはできない。
私が言葉を探していると、隣の佐伯課長が静かに口を開いた。
「急がなくて構いません。ご自身の安全を一番に考えてください」
低く、落ち着いた声。
その瞬間、女性のこわばった肩が少し下がった。
私は気づいた。
この声に安心するのは、私だけじゃない。
相談を終えた女性が帰ったあと、私は思わずつぶやいた。
「課長の声って、安心しますね」
言ってから、はっとする。
佐伯課長がこちらを見る。
「昨日は、ずるいと言っていました」
「忘れてください」
「難しいです」
淡々とした声なのに、少し笑っているように聞こえた。
私は書類を抱えて立ち上がる。
「戻ります」
「藤野さん」
また呼び止められる。
逃げたい。
なのに、足が止まる。
「俺は、あなたを困らせたいわけではありません」
その声は、いつもより少し低かった。
「ただ、昨日のことをなかったことにはしたくない」
胸が縮む。
「……どういう意味ですか」
「あなたが何に安心して、何に緊張するのか。知っておきたいと思いました」
それは上司としてですか。
そう聞きかけて、やめた。
聞いてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
私は視線を落とす。
「そういうところが、困るんです」
「声ですか」
「声も、です」
今度は、はっきり言ってしまった。
佐伯課長は何も言わなかった。
でも、その沈黙は嫌ではなかった。
名前を呼ばれるたび、逃げられない。
けれど本当は、逃げたいだけではないのかもしれない。
呼び止められるたび、少し安心している自分に、私はもう気づいてしまっていた。



