その低い声で、私の嘘をほどかないで

「藤野さん」

その低い声で名前を呼ばれるたび、私は反射的に背筋を伸ばしてしまう。

怖いわけではない。
苦手なわけでもない。
むしろ、たぶん、その反対だ。

「はい、佐伯課長」

できるだけ平静に返事をして、手元の申請書へ視線を落とす。

六月の市民課は朝から慌ただしい。住民票、印鑑証明、転入届、婚姻届、離婚届。誰かの人生の節目が、薄い紙一枚になって窓口へ運ばれてくる。

私はそれを受け取り、不備を確認し、説明し、笑顔で返す。

余計な感情は挟まない。
それが仕事だ。

「藤野さん、三番窓口の件、確認できましたか」

背後からまた、佐伯課長の声が落ちてきた。

低くて、静かで、よく通る声。

大きな声ではないのに、ざわついた窓口でも不思議と耳に残る。コピー機の音も、番号札の呼び出し音もすり抜けて、まっすぐ私に届いてしまう。

近い。

実際には二歩ほど後ろにいるだけなのに、耳元で呼ばれたみたいに感じる。

「確認済みです。本人確認書類も問題ありません」

私は振り向かずに答えた。

振り向いたら、顔に出る気がした。

佐伯怜司課長が市民課へ異動してきたのは、二週間前のことだ。

三十代半ば。整った顔立ちで、無駄口は叩かない。判断は早く、書類の不備には厳しい。ただ、部下を人前で叱ることはない。

初日の挨拶も短かった。

「佐伯です。業務を止めないことを最優先にします。困ったことがあれば、早めに共有してください」

それだけ。

冷たい人だと思った職員もいるらしい。
でも私は、怖いとは思わなかった。

ただ、困った。

あの人の声が、あまりにも私の弱いところに触れてくるから。

「藤野さん」

今日、何度目だろう。

「はい」

「このあと、五番窓口をお願いします。少し揉めそうです」

「わかりました」

ファイルを抱えて立ち上がると、佐伯課長がすぐ横にいた。思ったより近い。白いシャツの襟元から、雨の匂いとは違う、清潔な香りがした。

私は思わず一歩下がる。

その動きに気づいたのか、佐伯課長の視線が私の顔に留まった。

「体調、悪いですか」

「いえ、大丈夫です」

「顔が赤いように見えます」

「空調が少し暑いので」

嘘ではない。
でも、本当でもない。

佐伯課長は一瞬だけ黙った。

「無理はしないでください」

低い声が、背中に触れる。

たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が小さく震えた。

やめてほしい。

そんな声で、そんな普通の言葉を言わないでほしい。

私は仕事中なのだ。市民課の職員で、窓口担当で、いつでも落ち着いていなければならない。

なのに。

「藤野さん」と呼ばれるだけで、仕事用の顔が少しずつ崩れそうになる。

五番窓口へ向かい、私は小さく息を吸った。

大丈夫。
これはただの反応だ。
声が好みなだけ。
それ以上の意味なんてない。

そう言い聞かせて、椅子に座る。

目の前には、不機嫌そうな男性が書類を握りしめていた。

「お待たせいたしました。内容を確認いたします」

声は、ちゃんと落ち着いていた。

よかった。まだ大丈夫。

そう思った瞬間、背後で佐伯課長が別の職員に指示する声が聞こえた。

「急がなくていい。正確に確認してください」

低く、静かで、やさしい声。

私はペン先を紙の上で止めてしまった。

「……職員さん?」

男性に呼ばれて、はっとする。

「失礼しました」

慌てて書類へ視線を戻す。

胸の奥が、まだ落ち着かない。

その声だけが、近すぎる。
私が隠しているものに、気づかないふりをして、毎日少しずつ近づいてくる。