『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』~四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~



 1.日本人町のバリケード


 現在のタイ南部、ナコンシータマラート県。

 バンコクから南へ約八百キロ。

 現在なら国内線の飛行機で一時間強も飛べば、タイ南部最大の都市ハジャイに次ぐ、緑豊かな土地に降り立つことができる。

 レックにとっても、そこは馴染(なじ)みのある土地だった。

 従兄妹(いとこ)がタイ人の夫と結婚して移り住み、現地で有名な「カノムジン(激辛グリーンカレーをかけて食べる米麺料理)」の店を開いていたからだ。

 真っ白な麺の上に、薄緑のカレーと山盛りの生野菜。

 SNSで「タイ南部で最も美味しいカノムジン」と拡散され、地元民や観光客で行列ができる繁盛店。

 レックもかつてその店のテラスで、南国の穏やかな風に吹かれながら、従兄妹の幸せを祝ったことがあった。

 だが、十七世紀の「リゴール」は、そんな平穏な観光地ではなかった。
 
 そこは王都アユタヤの支配が及ばない「火薬庫」だ。

 マレー半島南部のパタニ王国と国境を接し、イスラム教徒による大規模な反乱と越境の脅威にさらされている最前線。
 
 そしてレックは、歴史の文献に刻まれた冷酷な事実を知っている。
 
 山田長政はリゴールへ送られ、戦いで負傷し、その傷口に塗られた毒によって命を落とす――。

 カラホムにとって、長政をリゴール領主(りょうしゅ)に封じることは、栄転などではなく、体よく「死地」へ追放することに他ならなかった。

 いま、レックが知る「現代」と、彼が立たされている「過去」が、リゴールという地名を境界にして激しく火花を散らし始めた。

 時は、合戦の場へと飛ぶ。

 朝霧のリゴールの平原を埋め尽くす、パタニ国の軍勢は七万。

 その軍容は、大地そのものが(うごめ)いているかのようだった。

 先陣には百頭を超える戦象(せんぞう)が並び、背後の矢倉からは弓兵(きゅうへい)が鋭い弦の音を響かせている。

 象の皮膚は(よろい)のように厚く、その巨大な足一本で大人三人を容易に踏み潰す。
 
 小高い丘の古い要塞(ようさい)跡に陣を張り、馬上の長政は、日本の合戦とは全く異なる光景に戦慄を覚えた。
 
 そして、(はや)る心を押し殺し冷静に号令を放った。

「よーし、鉄砲隊、前へ!」

 いっせいに火縄に火が入る、乾いた音がした。
 
 一方、日本人義勇隊隊四千、シャム軍六千、現地軍五万が加わり、総勢六万の軍。

 日本人の多くは関ヶ原の敗将に従い、あるいは大坂城が落城する夜に逃げ堕ちた、謂わば“落武者(おちむしゃ)”たちだ。

 彼らに迷いはない—

 ただ敵を殺し、生き残ることだけを信条とする。

「撃ち方用意、放て!」

 最初の斉射(せいしゃ)が朝霧を真っ二つに割った。

 弾の破裂音と共に硝煙(しょうえん)が上がり、先頭の戦象が狂ったような咆哮を上げてたじろいだ。

 敵兵が怖気(おじけ)づく隙を、義勇隊は見逃さない。

「突っ込め!」

 角倉友助が、数人の部下と共に要塞の斜面を滑るように駆け下りた。

 角倉の手には、返り血を吸い込んで赤黒く光る大身槍(おおみやり)がある。

 彼は突進してくる象の巨体の脇を紙一重でかわすと、その強靭な足の関節を、槍の石突(いしづき)で力任せに打ち据えた。

「おりゃぁああ!」

 巨象の膝を突く―。

 その瞬間、角倉は象の背の矢倉へ飛び乗り、混乱するパタニ軍の弓兵を槍の穂先で()ぎ払った。
 
 地上では、日本人部隊が象の鼻を刀で切り裂き、鼻先から噴き出す鮮血で土面が赤く染まる。
 
 パタニー兵がその凄惨な白兵戦に戦々恐々とする中、長政自身も馬を飛ばし、数人の兵の首を馬上から斬り去った。
 
 そして、丘の中腹に陣取った鉄砲隊に檄を飛ばし、敵の将が乗る最高位の象を一斉射撃で止めを刺した。
 
 遂に、七日目の夜明け、最後の将をパクパナン川の支流に追い詰め、その首を討ち取った。
 
 勝機が見えたその瞬間、長政は右足に奇妙な熱を感じた。

 視線を落とすと、膝の下に一本の矢が深く突き刺さっている。

 いつ射られたのか、自覚すらなかった。

 アドレナリンが引いていくと共に、激痛が津波のように押し寄せる。
 
「敵は後退した! 勝鬨(かちどき)だ!」

 長政は叫んだが、その瞳は北方の空を見つめていた。
 
 数日前、アユタヤから届いた密使の(しら)せが、心を凍らせていたからだ。

『アーティタヤウォン新王、カラホムの手により処刑さる』

 恩義ある主君から託された幼い王子が、もうこの世にいない。

 カラホムの狙いは最初から、この厄介な武力をリゴールに釘付けにし、その間に王位を盗むことだった。

 長政が勝てばパタニの脅威が消え、負ければ長政が消える。

 どちらに転んでもカラホムにとっては「勝ち」の博打(ばくち)だったのだ。

「ぬうっ……!」

 長政は折れた矢を自ら掴み、歯を食いしばって一気に引き抜いた。

 噴き出した鮮血が南国の乾いた土を汚す。

 血に濡れた手で刀の柄を握り直したが、その傷口の痛みは、単なる外傷を超えた不吉な疼きを帯びていた。

「戻らねば……今すぐに……軍師殿のいるアユタヤへ」



 同じ頃、アユタヤ日本人町。

 町の中心部、重い静寂に包まれた町会所(まちがいしょ)の広間には、リゴールへ出征(しゅっせい)せず町に残った老武士や、多額の軍費を提供した商人たちが顔を揃えていた。

 その中心に、レックがいた。

 彼は広げられた地図の上に、小石と木箸を淡々と並べていく。

「町の入口にあるジャスミンの木、あれをすべて切り倒してバリケードにします、えーと、防塞(ぼうさい)のことです。運河沿いには逆茂木(さかもぎ)を。それと、敵の騎馬兵が踏み込む場所にはあらかじめ油を()き、いつでも火を放てる準備をしてください」

 レックが語るのは、かつて日本の戦国時代の武将の野戦築城の術だった。

 しかし、それは“今”の時間から言えば、僅か八十年ほど前の出来事ではあったが。

 集まった長老たちは、当初は若造の放言と侮っていたが、レックが語る「敵の侵攻ルート」と「死角の作り方」の理路整然とした説明に、次第に身を乗り出していった。

 その傍らで、お滝は娘のハナと並び、レックの横顔をじっと見つめていた。

 つい先日、雨の中で鯰を獲っていた青年とは打って変わり、居並ぶ歴戦の老いた男たちを言葉一つで黙らせ、戦場を俯瞰(ふかん)しているレックの眼差しは、まさしく長政が全幅の信頼を寄せた“軍師”そのものだった。

(大したもんだね……。この子の頭の中には一体、いくつの兵法(へいほう)が詰まっているんだい)

 お滝は、その頼もしさに目を見張っていた。

「レック殿、だが相手は大砲も持ち出してくる。その、“ばりけぇど”って、いや、その、木の柵だけで防げるのか?」

 一人の老武士が訊いた。

 レックは手のひらを斜めに動かし、躊躇(ちゅうちょ)なく答える。

「防ぐのではありません。大砲の射線(しゃせん)をこのように変えさせるんです。カラホムの軍勢が『ここを通れば楽に攻め落とせる』と思い込む道こそが、我らが用意した落とし穴になります」

 レックの言葉には、確信に基づいた自信があった。

 町会所の広場を通り抜ける夜風が、ジャスミンの香りをさらっていく。

 それは静かに研ぎ澄まされた刃のように、集まった者たちの頬をかすめて行った……。





2.濁流の防衛線

 次の日から、日本人町を囲うようにバリケードの構築が始まった。

 手に残る鎌の重み、杭を打ち込む槌の音、ハナの心は落ち着く暇がなかった。

 それらすべてが、すぐそこに迫っている敵の襲来を予感させ、肌を粟立(あわだ)たせる。

 ハナは時折手を止めては、遥か南の空を仰いだ。

 そこには、数年前にこの町へ現れて以来、彼女が敬愛してきた山田長政がいる。

 かつて、アユタヤへ着いたばかりの二十歳の長政を初めて見た日のことを、ハナは今でも鮮明に覚えている。

 シャムの装束を纏っても隠しきれない質実剛健な体躯と、六尺の長身、そして南国の強い陽光を跳ね返すような涼やかな目鼻立ち。(六尺は約180センチ)

 その凛々(りり)しい姿を目にした瞬間、まだ幼さの残っていたハナの胸には、熱い恋心(こいごころ)が宿った。

 あの日から、私たちの町を、そして自分を守ってくれるのは、あの(まぶ)しいほどに強い太陽のようなお方しかいないと、ハナはずっと信じていた。

(長政様……どうかご無事で。一刻も早く、アユタヤへ戻ってください)

 その一方で、泥にまみれ、図面を広げて町衆たちに指示を飛ばすレックの姿が、ハナの胸を複雑にざわつかせていた。

 霧の中から現れたあの日、彼がこの時代の人間ではないという確信めいた違和感は、今も消えていない。

 眩しい太陽のように町を照らす長政と、その光が届かない足元を、月のように蒼白くそっと照らし出すレック。

 ハナは、その対極にある二つの輝きの狭間で、答えの出ない問いを抱え続けていた。
 
 だが、現実は答えを待ってはくれない。

 ―その時だった。

 アユタヤ正規軍の軍装とは異なる、二十名ほどの異形の集団が、細長い平底船に乗り、チャオプラヤ河の上流から突如姿を現した。

 上半身をはだけ、胸から背中にかけて真っ黒な刺青を隙間なく彫り込んだ男たちだ。
 
 呪術的な文様が刻まれたその肌は、汗と脂でどろりと光っている。

 手にする武器は、錆びついたシャム刀、農具を改造した大鎌、そして中にはポルトガルから流れてきた旧式のマッチロック式銃(火縄銃)を誇示するように掲げている者もいる。
 
 名のある武士の多くが長政に従ってリゴールへ出征し、日本人町が手薄になった隙を突いて、「金と女」という生々しい欲望のために土足で踏み込んできたのだ。

 町に残った老若男女全員が“戦闘態勢”に入った。

「……来たぞ! 南側の平地からだ! 手筈(てはず)はよいな!」

 見張りの老武士、吉田弥五郎の声が響いた。

 だが、その声が途切れるのと同時だった。

 空を裂く鋭い音がして、弥五郎の胸に深々と矢が突き刺さった。

「弥五郎さん!」

 ハナの悲鳴が上がる。

 弥五郎は、崩れ落ちる間際まで町への通路を(ふさ)ぐ杭を離さなかった。

 かつて長政に拾われ、この町を「(つい)住処(すみか)」と決めていた老兵は、最期までその約束を果たすかのように、ただ静かにその命を町へ捧げた。

 日本人町自衛団、最初の《《殉職者》》だった。

 略奪者どもが、怒声を吐きながら次々と土手へ這い上がって来る。

「レック様、どうすればよいでしょう!?」

 ハナが焦りを隠せず、息を切らせて叫んだ。

 レックは地図から顔を上げ、町家(まちや)の軒先に掲げられた松明(たいまつ)を指差した。

「落ち着いて! 計画通り動くのです。ハナ、お滝さん。……あそこの火を!」

 敵の先鋒が、切り倒されたジャスミンの木で作られた不格好な柵を嘲笑(あざわら)いながら突っ込んでくる。

 だが、彼らが柵の隙間に足を一歩踏み入れた瞬間、そこは火炙(ひあぶ)り地獄へと変わった。

 柵の下には、巨大なプラー・ブック(メコンオオナマズ)の脂肪を煮詰めた「魚の油」が撒かれていた。

 ハナとお滝が震える手で投げた松明が落ちると、(ねば)つく油に火が走り、炎の壁が猛烈な勢いで立ち上がった。

 呉服屋の長次郎が「生かして帰すか! 悪党どもめ!」と叫びながら、さらに松明を投げ込む。

 燃え移った炎に包まれた男が、断末魔(だんまつま)の叫びを上げながら土手下へと転がり落ちていった。

「火だ! 下がれ、道が塞がれているぞ!」

 右往左往する敵の眼前に、土面の中から牙のような「逆茂木(さかもぎ)」が姿を現した。

 先端を鋭く削り、槍のように尖らせた木の枝。

 それを外側へ向けて何重にも組み上げ、土深く固定したその柵は、踏み込もうとする者の肉を裂く。

 逃げ場を失い、炎の熱風に(あぶ)り出された敵の群れ。

 その正面、逆茂木の合間に、弓を携えた老武士たちと、火縄銃を構えた男たちが双方から息を殺して待ち伏せている。

「皆さん、ここは(こら)えてください! 敵を脅すだけでよいのです!」

 レックの狙いは、無益な殺生ではない。

 日本人町の圧倒的な抵抗力を示し、戦意を(くじ)くことにあった。

 だが、刺青の一人の男が、懐からポルトガル銃を取り出し、最前線で松明を手にしたハナへ銃口を向けた。

「この、小娘がぁ!」

 火薬が()ぜる音が、ハナの耳元に響いた。

 弾丸が風を切る音が頬をかすめ、彼女は反射的に目を閉じて身を伏せた。

 直後、重なり合うようにしてもう一発、鋭い乾いた音が響く。

 恐る恐る顔を上げたハナの視界に入ったのは、立ち上る白い硝煙だった。

 ハナのすぐ後ろにはレックが、火縄銃を構えて立っていた。

 その銃口の先では、先ほどの悪党が心臓を正確に貫かれ、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。

 レックは自分の手が激しく震えていることにすら、気づいていないようだった。

「レック様……」

 ハナは喉の奥が熱く引き()り、それ以上、声を出すことができなかった。

 命を救われた安堵と恐怖が入り混じった、激しい動揺が彼女を支配していた。

 混乱は一刻近く続き、敵の指揮官は血に染まった数少ない部下を引き連れ、這々(ほうぼう)(てい)でカラホムのいるアユタヤ王宮の方角へと逃げ去っていった。

 もちろん、日本人町にとっても無傷の勝利ではなかった。

 弥五郎の身体は冷たくなり、数人の若者が血を流して手当てを受けていた。

「レック様、大丈夫ですか……? その怪我、早く見せてください」

 ようやく口が利けるようになったハナが駆け寄った。

 レックは火の粉で頬を焦がし、擦り剥いた手からは血が滲んでいる。

「私は全然平気です、他の皆さんの手当てを急いでください」

 彼はハナの問いに視線すら合わせず、逃げていく敵の土煙をじっと見つめていた。

 その瞳には、次に来るであろう軍勢をどう迎え撃つかという、炎のような執念だけが宿っていた。

 この人は、私たちの世界を救うために、自らの手を汚すことを決めたのだ。

 その孤独な覚悟が、ハナの胸を激しく締め付けた。

 だが、町の平穏はかろうじて保たれているに過ぎない。

 カラホムの影は、さらに巨大なうねりとなって日本人町を飲み込もうとしていた……。

(長政さん、どうかご無事で……)





3.南への伝令

 リゴールからの帰路、山田長政はかつてない窮地(きゅうち)に立たされていた。

 パタニ軍の残党は、領国を蹂躙(じゅうりん)された怒りに燃え、数千の兵が地の利を活かして長政の背後に執拗(しつよう)に食らいついていた。

 小高い丘で小休止をとりながら、馬上で長政が(うめ)いた。

 「ううっ……」

 右足の矢傷は、どす黒い腫れとともに、心臓の鼓動に合わせ、(きり)で突き刺すような激痛を全身に撒き散らしていた。

 長政は朦朧(もうろう)とする意識の中、視界が熱帯の陽光に焼かれ、白く(かす)む。

 退軍ルートの先には、大河パクパナン河が横たわっている。

 進軍時には乾季の名残で、馬の膝を濡らす程度の浅瀬が広がっていた場所だ。

 だが、南部の変わりやすい天候が牙を剥いた。

 行軍の最中、この辺りはスコールが七日間も降り続き、河は見る影もなく増水していた。

 渦を巻く濁流は、一歩踏み込めば人も馬も飲み込み、二度と浮き上がらせぬ(よど)みと化している。

 本来なら、一旦海上に出るか、内陸部を大きく迂回すべきだが、長政にはその猶予はない。 

 アユタヤでは、恩義あるソンタム王が遺した二人の王子が、簒奪者(さんだつしゃ)カラホムの手によって無惨に葬り去られた。

 その卑劣な暴挙を思い出すたび、腸が煮えくり返るような怒りが傷の痛さを上回る。

 一刻も早く戻らねば、日本人町の皆が、そしてお滝やハナが、あの男の毒牙にかかる。

「このままでは、ここで全滅か……。だが、死ぬわけにはいかぬ。皆が待っている……」

 前方には濁流、背後には迫りくる敵の軍勢。

 丘の上に立つ長政は、文字通り、崖っぷちへと追い詰められた。



 同じ頃、アユタヤ日本人町。

 先刻までの晴天が嘘のように、入道雲が鉛色に変色し、空を覆い尽くしていた。

 熱風が吹き抜け、不意に、針のような冷たい雨粒が頬を打つ。

 嵐の前触れだった。

 町会所の奥で、レックは嵐に急かされるように、まだ癒えぬ手で筆を動かしていた。

 ハナが「レック様、怪我を診させてください」と声をかけるが、彼は聞こえないかのように紙に食らいついている。

 レックの頭の中には、かつて見たリゴール郊外の風景が、二〇二六年の詳細な地図データとして投影されていた。

 “その”湿地帯は現代では県立大学の広大なスポーツ競技場として見事に整備されている。

 そこに(たたず)む、かつて日本人義勇隊が追撃戦で苦杯をなめたことを記す、古い石碑の文言を思い出していた。

(……頼む。気づいてくれ。あの袋の中の手紙を読んでくれ!)

 実は出征の朝、レックは長政が腰に下げた薬入れの革袋の中に、一枚の折り畳んだ羊皮紙(ようひし)を忍ばせていた。

 そこには、万が一、退軍時にこの湿地帯に追い詰められた際の戦法が記されていた。



 リゴール、パクパナン河の岸辺を見下ろす高台。

 長政が強行渡河の覚悟を決め、傷の痛みを散らす薬を求めて革袋に手を入れた時、指先に奇妙な紙の感触が触れた。

 引き出したのは、見覚えのない羊皮紙。

 その包みの表には、筆の跡も新しい文字でこう記されていた。

『いきはよいよい、かえりはこわい♪』

 不吉な歌の文句に、語尾に添えられた場違いな音符の印。

 レックが現代でSNSを打つ際に無意識に添える、あの奇妙な癖だった。

「……なんじゃ、これは?」

 長政は怪訝(けげん)そうに呟きながら、切り傷だらけの荒れた手で紙を広げた。

 そこには、蛇がのたくったような奇妙な曲線が密集する、見たこともない図解があった。

『長政様、この線が重なり合う場所は、泥の下に固い岩盤(がんばん)が走っています。強行に渡河を装い、この“浅瀬”を一直線に駆け抜けてください。追撃してきた敵を、沼の深みへ誘い込むのです』

「“いきはよいよい、かえりはこわい……” ああ、なるほど。そういうことか!」

 長政は思わず膝を打った。

 雨季の増水までも予見し、泥底に隠されたかつての古道の跡――砂礫(されき)が固まり、周囲より一段高くなっている浅瀬の底道を、レックは的確に指し示したのだ。

 長政の口元に、確信の笑みが浮かぶ。

 彼は馬首を翻し、全軍に向けて号令を発した。

「全軍、右の林を抜け、対岸へ前進せよ! 泥沼に足を取られるな。我らが通るべき道は、あの河の底にある!」

 雷鳴が轟くと同時に、日本人義勇隊が河へと突入した。

 追撃してきたパタニの残党兵たちは、勝利を確信して歓声を上げた。

「日本人どもが捨て身になって川に飛び込んだぞ!」と。

 彼らもまた、獲物を逃すまいと、長政たちの後を追って水に飛び込んだ。

 だが、次の瞬間、絶叫に変わったのは敵軍の方だった。

 長政の軍勢は、まるで見えない橋の上を駆けるように、濁流の中を驚異的な速度で進んでいく。

 対して、後を追った敵兵たちは、一歩踏み込むごとに底なしの泥に足を取られ、重い防具とともに水底へと引きずり込まれていった。

「今だ、放て!」

 レックの図解通り、高台へと迂回させておいた別働隊が、混乱する敵を見下ろすように姿を現した。

 頭上から降り注ぐ弓と火縄銃の猛射。

 逃げ場のない水中で、敵軍は水に落ちた羽虫のごとく、なす術なく撃ち落とされていった。

 一発の銃声が響くたび、泥水が赤く染まっていく。
 
 —わずか半刻。

 数倍の兵力を誇った残党軍は、レックが指し示した「沈んだ古道」という知略の前に完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、撤退を余儀なくされた。

 パクパナン河を無事渡り切った対岸で、長政は息を弾ませ大きく息を吐いた。

「こわいながらも……とおりゃんせ、とおりゃんせ……か」

 長政は、生まれ故郷の村の境内で流行っていたわらべ歌を思い出した。

「レック軍師殿……今回もあなたの知恵に助けられたましたぞ」

 だが、渡河成功の余韻に浸る間はない。

 アユタヤまでは、ここから少なくともあと五日の強行軍が必要だ。

 長政は激しく(うず)く足の傷を荒縄で固く縛り上げ、手綱を握り直した。

 一刻も早く、アユタヤへ戻るのだ。そして、守るべき町へ。

 はやる気持ちと、傷口の痛みに(うな)される意識。

 長政は、土煙を上げる馬列の先頭で、沈みゆく夕陽を見つめていた。

 その眼差しには、アユタヤを血に染めようとするカラホムへの、静かな、しかし烈火のごとき戦意が宿っていた……。