『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』~四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~



1.血に染まる王冠


 サーンペット・プラーサート宮の黄金の床には、どれほど磨き上げても拭いきれない、生臭い血の匂い漂っていた。

 回廊には白檀(びゃくだん)香煙(こうえん)が立ち込めていたが、それがかえって血の粛清(しゅくせい)の跡を際立たせている。

 先王ソンタムの弟、シーシン親王を支持した高官たちの首が次々と()ねられ、挙兵した親王軍との凄惨な身内同士の殺し合いも、ようやく幕を下ろしたばかりだ。

 泥沼の戦況を強引に終わらせたのは、長政率いる日本人軍団が放った、容赦のない鉄砲の斉射だった。

 だが、王都を血で洗って守り抜いたはずの、若きチェーター王は今やこの世にいない。

 王宮の回廊、雨季の到来を告げる雷鳴が、遠く近くで小さく響いている。

「長政さま、やりきれませんね、先王の長子チェーター王まで()き者にするとは……」

 レックは隣に立つ長政に嘆き声を漏らした。

「先王への義理を果たすために、我らはあの十五歳のチェーター新王を守った。なのに、結局はあいつの思い通りだ」

 長政は無言で、(にわ)かに陰りを落とす、庭の生い茂った緑を見つめていた。

 黄金の柱についた、乾いた血飛沫の跡が、薄暗い雷光に照らされてどす黒く浮かび上がった。

 シーウォラウォンは長政と同じ、宮廷の最高官位のオークヤー・カラホムを冠し、自らをアーティッタヤウォン新王の「摂政(せっしょう)」となった。

 救い出したはずのチェーター王を酒と女で骨抜きにし、民の心が離れるのを待ってから、軍司令官カパインに「お前が次の王になれ」と(ささや)(そそのか)した。

 カパインが王宮を占拠してチェーター新王を処刑すると、カラホムは即座に「主君殺しの逆賊」としてカパインを処刑台に送った。

 すべては、カラホムが王位を簒奪(さんだつ)するための一人芝居だった。


 二人の前に、音もなくカラホムが姿を現した。

 その足音は、湿った石畳を這う蛇のように不気味だった。

「セーナー・ピムック・ナガマサ殿。貴殿ら日ノ本の者どもの武勇、まことに天晴(あっぱ)れであった」

 カラホムは、十歳になったばかりのソンタム王の次男、アーティッタヤウォン王が震えながら座る玉座の横で、冷たく微笑んだ。

 幼王が掲げた金の冠は、立ち込める暗雲とは対照的に眩しく輝いていた。

 広間を支配するのは、祝祭の歓声ではなく、冷たく殺伐(さつばつ)とした沈黙だ。

 ただ、(かんむり)の宝石が触れ合う「チリッ」という微かな金属音だけが、レックの鼓動を揺さぶった。

「アーティッタヤウォン新王は、その功績に対し、貴殿を南方の要衝リゴール(六昆)の知事に任じられた。早々に全軍を率いて出陣し、この国の憂いを取り除いてもらいたい」

 リゴール王。

 アユタヤから遠く離れた南の地。

 それは名誉という名の、重い呪縛(じゅばく)だった。

 リゴール―そこは内戦と南のパタニー国の回教(イスラム)軍の侵攻に荒れる土地。

 そこへ追いやられれば、当分の間、アユタヤの地を踏むことは許されない。

 長政は、その冠の重みに押し潰されるように深く頭を下げた。

 レックは、長政の(こぶし)が白くなるほど握りしめられているのを目にした。

 自分が書き換えたはずの歴史が、恐ろしいほどの修正力で、本来の史実へと(かえ)ろうとしている。

 長政の、先王への恩義と子への忠義。

 カラホムは、その長政の「忠義」という急所を卑劣(ひれつ)に利用したのだ。


 チャオプラヤ河の船着き場。

 降り出した雨が容赦なく土面を叩きつけ、泥水を激しく跳ね上げた。

 長政は軍船の舷梯(タラップ)に歩を進め、レックの手を強く取った。

「レック殿、あとは貴殿に任せたぞ!」

 レックは長政の手を、まるで引き留めるかのように両手で握り返した。

「長政さん、本当に行くんですか! 行ってはだめです。カラホムはあなたを追い出して、町を、そしてあの幼いアーティッタヤウォン王を殺す気ですよ!」

「わかっておる、レック殿。私がいなくなれば、すべてはあの男の掌の上だ。……だが、あいつには一つだけ、読み切れないものがある」

 長政は、雨に濡れた手をレックの肩へ、楔を打ち込むように置いた。

「読み切れないもの……?」

「そうだ、貴殿だ。カラホムは『今』を奪うことしか頭にないが、貴殿だけは、まだ来ぬはずの『先』を見ている。奴の謀略図に貴殿の知恵は入っていない」

 長政の瞳に、濁りのない光が宿る。

「頼んだぞ。奴の喉元に、その“知恵”を深く突き立ててやるがよかろう」

 長政は諭すように言った。

(あなたは、死んではならない人だ……)

 レックの脳裏に、あの時の白い病室の静寂が蘇った。
 
 有希を失う直前、物言わぬ彼女の顔に向かって、心の奥底から叫んだ言葉。

 それが今、時空を超えて全く同じ祈りとなって溢れ出していた。

「長政殿・・・・長政さん!」

 長政が纏う漆塗りの具足が、雨を弾いて鈍い黒光りを放っていた。

 軍船がゆっくりと岸を離れ、長政の背中が雨の帳の向こうへ消えていく。

 レックは、遠ざかる船影が霞んで見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 未練を断ち切れないまま、レックは踵を返した。

 雨脚に煙る日本人町の入り口に、槍を手にした黒装束の兵たちが見え隠れする。

 守護神・長政が去った町を、カラホムの手先の兵が、静かに包囲の網を絞り始めていた。 





2.女侍、お滝とハナ


  降りしきるスコールの激しい雨音が、土路(どろ)に生えたバナナの巨大な葉を叩きつけ、その重い音だけが町に響き渡っている。

 長政のいない日本人町は、守護神を失った抜け殻のように暗い。

 レックは雨の(とばり)を突き抜け、独り、お滝とハナの屋敷へ急いだ。

 屋敷の土間では、二人が静かに遅い夕食の準備をしていた。

 聞こえるのは、藁葺(わらぶ)きの屋根を叩く凄まじい雨音と、時折、雨樋(あまどい)から(あふ)れた泥水がどさっと地面に落ちる重低音だけだった。
 
 レックは二人に歩み寄り、その雨音をかき消すように、鋭い声で命じた。

「お滝さん、ハナ、手を止めてください。……奴らが来ます。一人じゃない、黒尽くめの刺客が少なくとも四人はこの目で確認しました」

 ハナとお滝の手が止まった。

 だが、そこに「(おび)え」の表情は感じられない。

 彼女たちは長政を見送ったその瞬間から、この事態を予期していた。

 長政という後ろ盾を失った今、自分たちが「標的」になることを、直感で理解していたのだ。
 
 二人の瞳には、生き延びるための静かな殺気が宿っていた。

「お滝さん、部屋の隅にある魚醤(ナムプラー)(かめ)を入り口近くまで転がしてくれ。ハナは台所の唐辛子(とうがらし)胡椒(こしょう)を全部出し、(かまど)の熱湯を桶に移して。……奴らはそこまで来ています。私たちがここで倒れたら、長政さんが守ろうとしたこの町は、カラホムの野望の中に消えてしまう」

 レックは、かつて日本の時代劇で見た“殺陣(たて)”のシーンを手繰り寄せた。
 
 闇に紛れ、身の回りの道具を凶器に変え、法の届かぬ悪を裁く仕置き人たちの無慈悲な技。
 
 陰の暗殺者を相手に、素人が刀を振り回しても勝ち目はない。

 視界を奪い、足場を乱し、不意を突く“戦法”に賭けるしかない。

 お滝とハナが“戦闘準備”を整えた頃、レックは高床式家屋の柱を這い上がるような、微かな(きし)みを感じた。

 そして目を閉じ、意識を床下へと集中させた。

(床下に二人、裏の勝手口に二人……奴らはそこまで来ている)

 その時、竹を組んだ床板の隙間から、銀色に光る槍の穂先が音もなく突き出された。

 レックの足元、わずか数センチの場所を鋭い刃がかすめる。

「――今だ! ぶち抜け!」

 跳ね退いたレックの合図とともに、お滝が唸りを上げた。

「あたいの家で、好き勝手させやしないよ!」

 お滝が、中身の詰まった巨大な陶器の瓶を、槍の突き出た床板めがけて力任せに叩きつけた。

――メキメキッ! ガシャァァン!

 凄まじい破壊音とともに、瓶の重みで薄い床板が()ぜるように崩落した。

 溢れ出した大量の魚醤(ナムプラー)と陶器の破片が、床下に潜んでいた刺客の頭上へと降り注ぐ。

「うひゃあああっ!」

 絶叫と共に異臭の中に押し潰される一人の刺客。

 間髪入れず、ハナが崩れた床の穴へ向かって、沸騰した熱湯をぶちまけた。

「主の留守を狙うたぁ、薄汚い真似しやがって! とっとと失せやがれ!」

 熱湯が刺客の皮膚を焼き、唐辛子の粉が粘膜を灼く。

 床下は一瞬にして絶叫の渦巻く地獄と化した。

「お滝さん、外へ! 床下の奴らを掃き出せ!」

 レックの指示を受け、お滝は勝手口から雨の中へ飛び出した。

 彼女が手にしたのは、日頃から担ぎ桶で鍛え上げた、厚みのある堅い天秤棒だ。

「長政様の留守中に、ひとんちへ泥足で上がり込むんじゃないよ!」

 お滝は床下のもう一人の刺客の背後から、天秤棒を真横にフルスイングした。

 ――バシッ!

 水しぶきと共に放たれた一撃は、刺客の脇腹を文字通り()ね飛ばした。

「な、なんだこの女! 女侍か!」

 床下で混乱する刺客たちを、お滝は再び天秤棒を槍のように振り下ろして、次々と泥濘(ぬかるみ)の中へ叩き伏せた。

 その時、残りの二人が木窓を破って室内に飛び込んできた。

 レックは叫んだ。

「ハナ、今だ! 油を!」

 ハナが、跳びかかろうとしてきた刺客の一人に、手桶の灯油を浴びせた。

 そこへレックが竈の残り火を迷わず投げ込む。

 ――シュゴオォォォ!

 激しい火柱が吹き上がり、魚醤(ナムプラー)の油分と混じり合って床下へ堕ちて行った。

 すると、最後の一人、リーダー格の男が、抜き放った刀でレックの喉元を狙う。

「死ね、異邦の小僧!」

 黒装束から剥き出しの眼だけが異常に血走っている。

 レックは長政から授かった短刀を咄嗟(とっさ)に引き抜いた。

(滑る……この床なら行ける!)

 レックは魚醤(ナムプラー)で滑りやすくなった床上を走り、相手が踏み込む瞬間に懐に潜り込んだ。

 体勢を崩した刺客の喉元へ、レックは初めて抜く刃を無我夢中で突き立てた。

 だが、刃先が喉笛を貫く直前、レックは動きを止め、刺客の首筋に冷たい刃を押し当て、獣の咆哮(ほうこう)のように唸った。

「命が惜しければ、お前を雇った主に伝えろ。我ら日本人町の“女侍たち”を甘く見るな、とな」

 刺客たちは仲間を抱え泥にまみれて、命からがら逃げ去っていった。

 静寂が戻る。

 聞こえるのは、三人の激しい胸の鼓動と、変わらぬスコールの雨音、そして半分崩れた床下から漂う魚醤(ナムプラー)と油の焦げた匂いだけだった。

 レックは震える短刀を握りなおし、崩れた床穴を見つめていた。

 カラホムが仕掛けた暗殺劇は失敗に終わった。
 
 レックは、ゆっくりとハナとお滝を見た。

「二人とも、怪我はないですか」

 レックの声に、二人が我に返り同時に振り向く。

「この(うち)、どうしてくれるんだい!床に穴まで開けちまってさ!」

 お滝は刺客に襲われた恐怖より、自分の屋敷が壊れてしまったことに、むしろ腹を立てているようだった。

「レックさん……これで、終わりじゃないんだよね」

 ハナが、掠れた声で問う。

 その瞳は、刺客を追い払った安堵ではなかった。

 レックは短刀を鞘に収め、雨の帳の向こうを見据えた。

「奴らはまた来るでしょう。……次はあんな刺客じゃない、カラホムの軍勢がこの町を焼き払いに来るはずだ」

 傾いた屋敷の床に、三人の荒い呼吸だけが共鳴していた。

 静寂の中、お滝はひび割れた天秤棒を握り直し、ハナは指の震えを空の桶に押しつけた。
 
 レックは自分の手の震えを止めるように、短刀の柄を強く握りこんだ。
 
 アユタヤ日本人町を照らすはずの路肩の松明が、降り続く雨脚の向こうで、(いびつ)に不気味に揺れている。

 日本人町への包囲網は、今この瞬間も狭まり続けていた……。





3.泥の告白


 一夜明け、スコールが嘘のように晴れ渡ったアユタヤの空は、残酷なほどに蒼かった。

 だが、日本人町の空気は、湿った重い(よど)みとなって地面にへばりついている。

 チャオプラヤ河の水面は、数日降り続いた雨水と泥を巻き込んで茶褐色に濁り、不気味なうねりを上げていた。

 かつて六百人以上の長政の義勇隊が象や馬に乗り、軍装も鮮やかに練り歩いた目抜き通りには、もはや往時の活気はない。

 軒を連ねる長屋の窓越しに、住人たちが怯えた瞳で外を(うかが)い、ある者は刀を研ぎ、ある者は呆然と河を渡ってくる熱風に身を任せていた。

 レックは、町の中心部にある「日本人町評議会」の町会所(まちがいしょ)へと足を運んだ。

 建物の周囲は、純白のジャスミンの木々に囲まれている。

 シャムでは「母の愛」を象徴するこの花が、甘い芳香を放ちながら、主を失った日本人町を静かに包み込んでいた。

 かつて故郷を捨てて海を渡った日本人が、この異国の白花に救いを見出し、自分たちの暮らしのなかにその香りを馴染ませていった証でもあった。

 町会所には、日本人町の交易を牛耳(ぎゅうじ)る有力な商人と、町の防衛を指揮する武士団の幹部たちが集まっていた。

 後方では、昨夜死闘を演じたばかりのお滝とハナが、互いの震える指をぎゅっと握り合っている。

「……昨夜、私たちは刺客に襲われました。カラホムはすでに、個々の暗殺から、この町全体の根絶へと策略を練っています。軍勢は王宮の守りを固め、我らを三方から包囲しつつあります」

 一同は昨夜の騒ぎをすでに耳にしていたが、レックの冷淡な宣言に顔を強張らせた。

 レックは机の上に当時の海図と古地図を広げ、思わず息を呑んだ。

 四百年後の正確な衛星写真や現代地図が脳裏にある彼にとって、海岸線の形も河の流れも微妙に異なる過去の”現代地図”の歪みに眩暈(めまい)を覚えたからだ。

 気を取り直し、レックは落ち着いた口調で話し始めた。

「……今ならまだ、北のピッサヌロークへ抜ける道が開いています。あそこは、ソンタム前王の出自の地であり、王家ゆかりの権威と、長政さんの義勇隊の影響力が根強く残る土地だ。一度撤収し、軍を立て直して反撃の機を伺うべきです。今ここで戦うのは無駄死にです!」

 長い沈黙が流れた。

 だが、それは侮蔑と、凝り固まった自尊心を揺さぶられたことへの静かな反撥(はんぱつ)だった。

「撤退だと? ……小僧、貴様は日ノ本の武士が、シャムの兵に背を向けて逃げろと言うのか」

 武士団の長、角倉友助(すみのくらともすけ)が吐き捨てるように言った。

 オランダ兵を易々と斬首したという曰く付きの男の、顔に刻まれた深い傷跡が醜く歪む。

「我らは、関ヶ原や大坂の陣を潜り抜けてこの地に流れ着いた者たちだ。この町は、我らが汗と血で築き上げた城も同然。それを“座して死を待て”とでも言うのか。そんな恥辱、死んでも選べぬわ!」

「わしらの商売も同じだ、レック殿」

 大坂の商人、今津寛三郎(いまづかんざぶろう)恰幅(かっぷく)のいい初老の男が苦虫を噛み潰した顔で続けた。

「ここに積み上げた鹿皮も、鼈甲(べっこう)も、すべてを捨てて逃げろやて? そんなことしたら、わしらの信用は地に堕ちて、二度とこのアユタヤで商いはできまへんがな。長政様が生きてはったら、決して逃げろとはおっしゃらんやろう」

 今津の言葉に、レックは理解を示し、何度も頷いた。

「しかし、長政さんなら、あなたたちが生き延びることを第一に考えるはずだ!」

 レックは身を乗り出し、粘り強く説得を試みた。

「角倉友助殿、誇りで腹は膨れない。今津寛三郎殿、信用も命がなければただの紙屑だ。カラホムは本気で我が日本人町を焼き払う気だ。火が放たれてから、煙のなかで後悔しても遅いのです!」

 だが、彼らにとってのレックは、長政に重用されただけの「予言めいた知恵を吐く得体の知れない居候」に過ぎなかった。

 平和な時には面白がられたその知識も、この期に及んで、彼らの根強い「武士道」や「商魂」を突き破ることはできなかった。

「……ああもう、なら勝手にしてください!」

 レックは吐き捨てるように町会所を出た。

 外に出ると、夕暮れ間近のチャオプラヤ河が、黄金色(こがねいろ)に輝きながら、すべてを飲み込むように流れていた。

 夕陽が沈む河辺の桟橋に、ハナが独り座っていた。

 レックは隣に腰を下ろし、流れる水面をぼんやりと見つめた。

「ああ……誰も、聞いてくれない。歴史は、どうしてもこの町を焼き尽くしたいらしい……」

 “歴史”という言葉が思わず口に出てしまった。

 ハナは何も言わず、ただ怪訝(けげん)そうにレックの横顔を覗き込んだ。

 その不思議そうな眼差しが、かえってレックの心のダムを決壊させた。

 有希を失い、時を超え、ここでもまた大切な人々を救えない無力感が溢れ出した。

「ハナ……信じないかもしれないけど、聞いてほしいことがあるんだ」

 レックの声は、情けないほど震えていた。

 一抹の迷いが脳裏を横切るが、もう止まらなかった。

「ハナ、僕は今から四百年も先の世界から来たんだ。鉄筋のビルが立ち並び、空を飛ぶ鉄の塊があり、誰もが手元のガラス板で世界を知ることができる、そんな未来の世界から……」

 ハナは黙って、まるで迷子をなだめるような、慈しむような微笑を浮かべた。

 彼女の冷えた指先が、レックの熱い頬にそっと触れる。

「レックさん。あなたは、とても不器用な人なのね……」

「ハナさん……信じないのか」

 ハナはゆっくりと河面を見つめた。

「四百年後の世界なんて、私には想像もつかない。でも、今のあなたの言葉は、まるで幼い頃に母から聞いた、別世界の御伽噺(おとぎばなし)のようだわ」

 ハナの言葉をレックは溜息をついて聞き流した。

「……やはり信じてくれないよね」

 未来人としての優位性など、この泥臭い現実の前では、まさしく“現実逃避”にしか聞こえない。

 ハナは、レックが霧の中から現れた、あの日のことを忘れてはいない。

 だが、それを敢えて今ここで口にしなかった。

 彼女にとって大事なのは、レックがどこから来たかではなく、いま、ここにいる彼が歴史の狭間でどれほど苦しんでいるか、それだけだった。

「レックさん、いいのよ。たとえ、あなたが未来から来た妖人の妄想だとしても。……あなたが、私たちのことを大切に思ってくれている。それだけで、私は嬉しいのです」

 レックは絶句した。

 ハナは「妄想」として優しく受け流すことで、皮肉にもレックをこの現実の世界に繋ぎ止めていたのだ。

 二人の影が、桟橋の上に長く伸びていく。

 対岸の林の向こうでは、重い鉄の車輪が泥を噛む軋み音が、鈍く河面を流れて来た。

 カラホムが呼び寄せた大砲の列が、じりじりとその口をこちらへ向けようとしている。

 レックは立ち上がり、ハナの手を取った。

「帰りましょう。お滝さんが夕飯を作って待っている、いや、ちょっと待って……」

(“おとぎばなし”……幼い頃に母から聞いただと……?)

 桟橋を去る二人の背後に、ジャスミンの甘く重い香りが、夕刻の湿気と共にまとわりついていた……。