『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』~四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~



1.白亜の野望

 現代のタイを訪れる旅行者が、アユタヤの夕暮れ時に目にするのは、チャオプラヤ河畔に佇む赤茶けた煉瓦《れんが》の、悠久の“残骸《ざんがい》”だ。

 ワット・チャイワタナラーム寺院―

 一七六七年、ビルマ軍の猛火に焼かれ、廃墟《はいきょ》と化したその姿は、幾度の改修を経て、今ではアユタヤで最も美しい遺構の一つとして観光客を魅了している。

 だが、一六三〇年のその場所に、滅びの気配は微塵《みじん》もなかった。

 レックがその境内へ足を踏み入れた瞬間、視界を焼き尽くしたのは、威圧的な美麗さと、白と黄金の輝きだった。

 そこには、カンボジアのアンコール・ワットを彷彿とさせる、緻密で壮大なクメール様式の宇宙が立ち現れていた。

 中央には、高さ三十五メートルに及ぶ白亜の主塔が、天を突く槍のようにそびえ立ち、八方には須弥山《しゅみせん》を表現する小塔が整然と配置されている。

(……これが、あの“遺跡”の本来の姿か)

 先を歩く長政が、やや緊張気味の笑みを浮かべて振り返る。

 その腰には、亡き先王ソンタムから直々に授けられた、宮廷の最高官位「オークヤー・セーナー・ピムック」(*)の証である黄金の装飾を施した刀が、誇らしげに揺れていた。

「レック殿、どうした。この壮大さに気圧されたか?」

 レックの目には、この完璧な左右対称の建築様式が、シーウォラウォンの果てなき野望そのものに見えて仕方がなかった。

 二人は中央の大塔に続く高壇《こうだん》へと案内された。

 風が吹き抜ける回廊には、黄金の仏像の背後で、自らも神仏の一部であるかのように静止する一人の男が立っていた。

「オークヤー・セーナー・ピムック・ナガマサ殿。……そして、レック軍師殿。よく参られた」

 今や国家の実権を掌握したオークヤー・シーウォラウォンは、視線を河の対岸へ向けた。

 そこには、撤退を始めたオランダ船が、最後の出航準備を整えて停泊している。

「先日の又左衛門殿の進言、実に理に適っていた。南方のリゴール(*)は、前王の崩御に乗じて反乱の火種が燻っている。そこを鎮められるのは、アユタヤ最強の武人たるそなたしかおらぬと」

 シーウォラウォンの声は、静かな水の流れのようだった。

 レックの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 又左衛門が良かれと思って放った言葉は、シーウォラウォンにとって、長政の義勇隊を王都から遠ざけるための絶好の口実となってしまったのだ。

「セーナー・ピムック・ナガマサ殿。新国王チェーター王の名において、そなたをリゴールの太守に任ずる。これは予の切なる願いでもある。……そなたなら、アユタヤの南門を完璧に守ってくれると信じている」

 シーウォラウォンの細い眼が、レックの視線と一瞬だけ交錯した。

 その瞳は、深淵のように暗く、不気味な静けさを醸し出していた。

「……承知仕《しょうちつかまつ》る。このセーナー・ピムック・ナガマサ、命に代えてもそのお役目、しかと果たしましょう」

 長政が深く頭を下げる。

 レックは、眉間《みけん》に寄る皺を必死に抑えて平静を装った。

 歴史の改ざんは、オランダを追い出し日本人町に未曾有の栄誉を与えた。

 それなのに、結局は「リゴール派兵」という史実のレールへと、凄まじい引力で引き戻されている。

 白亜の大塔が、巨大な日時計の針のように、レックたちの足元へ長い影を落とす。

(……このままでは、皆が殺される)

 脳裏をよぎるのは、日本人町の人々の暮らしだ。

 誇らしげに笑うハナ。

 温かい眼差しで気遣ってくれるお滝。

 自分を「軍師」と呼んでくれる侍たち。

 その一人ひとりの命が、間もなくシーウォラウォンの指先一つで、無造作に葬り去られようとしている。

 あまりの恐ろしさに、レックの指先が微かに震える。

 だが、その震えを止めるために必死で手繰り寄せたのは、明日のことだった。

(明日は……ハナの誕生日だ)

 きな臭い政争の匂いの中で、その事実だけがレックにとって唯一の命綱だった。

 彼女のあの小さな笑窪を守るために、自分に何ができる?

 レックは、シーウォラウォンの冷たい眼差しから逃れるように、そっと着物の懐に手をやった。

 そこには、沈黙を続ける猫の形をした“鈴”がある。

 歴史がどれほど史実へ収束しようとしても、自分はこの時代の「現代」を生きる。

 たとえ、それがさらなる歴史の冒涜であったとしても。

 拝謁を終え、白亜の寺院を辞した二人は、チャオプラヤ河の涼風に吹かれながら日本人町へと続く道を歩いていた。

 あまりに重い未来を背負わされた静寂に耐えかね、レックはふと思い出した疑問を口にした。

「……長政様。明日のことですが、ハナさんには何を贈るのですか?」

 前を行く長政が、ぴたりと足を止めた。

 そして、何事か重大な軍機漏洩でも指摘されたかのような、妙に深刻で、それでいてひどく間抜けな顔をして振り返った。

「たんじょうび……? レック殿、なんだい、そりゃあ?」

 少し訛りの混じった駿河弁《するがべん》が返ってくる。

「いや、生まれた日を祝うという……」

「馬鹿を言え。そんなもん、この乱世でいちいち数えとる暇がどこにある。ハナがいつ生まれたかなんて、本人だって覚えとらんずら」

 長政は豪快に鼻で笑うと、「それよりリゴールの仕度だ!」と、再び大股で歩き出した。

 二十一世紀の常識を蹴飛《けと》ばされたレックは暫し立ち尽くし、それから苦笑した。

(そうか……。ここでは、僕だけが覚えているのか)

 その孤独が、今はどこかひどく愛おしく感じられた……。

(⋆)オークヤー アユタヤ王朝時代の王に仕える最高官位(大臣)の称号。江戸幕府では「老中」といった将軍の側近・政策決定層に近い役割
(⋆)リゴール 六昆国―現在のタイ王国南部ナコーンシータンマラート県




2.マンゴー色の夕陽

 アユタヤの夕暮れは、空を熟したマンゴーのような色に染め、チャオプラヤ河の川面に黄橙の影を落としていた。

 日本人町の喧騒から少し離れた、河畔の木陰。

 そこには、西日に背を向けて一心不乱に針を動かすハナの姿があった。

 レックは、お滝に頼まれていた町外れの生簀《いけす》から、鯰《なまず》と雷魚《らいぎょ》の入った重い魚籠《びく》を担いで店に戻るところだった。

 ふと見れば、いつもは忙しく立ち働いているハナが、珍しく木陰で静かに縫い物をしている。

「おや……ハナさん、こんなところで何をされてるのですか?」

 声をかけると、彼女は跳ねるように顔を上げ、すぐにいつもの笑窪を作った。

「あら、レックさん。お仕事お疲れさま!」

 ハナは手に持っていた大きな絹布《シルク》を、誇らしげに広げて見せた。

 それは日の丸を基調としながらも、その中心にシャムの象徴である白象をあしらった、独特の意匠だった。

「見てください、あともう少しなんです。長政様がリゴールへお持ちになる一番大きな旗なんです。このお役目、私が任されたんです!」

 ハナの瞳は、まるで宝物を手に入れた子供のように輝いていた。

 指先を見れば、慣れない細かな刺繍《ししゅう》に何度も針を刺したのだろう、小さな赤黒い点々がいくつも残っている。

 だが、彼女はその傷跡を、名誉な勲章であるかのように愛おしげに見つめていた。

 レックは、着物の懐にある「それ」を握りしめた。

 数日前、お滝から「明日は、ハナが生まれた頃のはずだよ」と、曖昧な、だが確信に満ちた“推定誕生日”を聞かされていた。

 せめて現代的な習慣で彼女を驚かせ、自分も少しは意識してほしい。

 レックがその“かんざし”を求めたのは、日本人町からもほど近い、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの門前に広がるバザールだった。

 かつてナレースワン大王がビルマを退けた戦勝記念に建てられたという、天を突く巨大な仏塔がそびえるその寺院の周辺には、今日もあらゆる異国の言葉と熱気が渦巻いている。

 穏やかな微笑を浮かべた巨大な涅槃仏《ねはんぶつ》の足元、その陰にまでひしめく露店には、オランダのガラス細工、明の絹織物、そして遠く日本の江戸から朱印船《しゅいんせん》で運ばれてきた流行の最先端の品々が並んでいた。

 レックはそこで、周囲の賑わいとは不釣り合いなほど、繊細な小さなピンクの梅の模様が入った銀のかんざしを見つけた。

 それは遠い祖国の梅林《ばいりん》を想い起こす意匠で、ハナの黒髪によく映えるはずだった。

 そんな淡い下心で、そのかんざしをなけなしの金で買い求めていたのだ。

「ハナさん。実は、今日……」

 懐からそれを取り出そうとした時、ハナの顔に、今まで見たこともないような最大級の笑顔が咲いた。

「レックさん、聞いてください! 長政様は本当にすごいお方です。リゴールを治めるということは、このシャムの国の南をすべて背負うということでしょう? 義勇隊の皆も、長政様のためなら命を捨てると張り切っています。私も、この旗が皆の守りになるように、一針ごとに祈りを込めているんです!」

 レックは、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。

 ハナが縫っているのは、単なる絹布ではない。

 それは彼女にとって、手の届かない憧れの英雄である長政と自分を繋ぐ、たった一つの貴《とうと》い「絆《きずな》」そのものだった。

 レックが贈ろうとしたかんざしは、ただハナを飾るための華やかな道具だ。

 だが、今の彼女が心底欲しているのは、女として着飾ることではなく、一人の日本娘として、憧れの男の役に立ちたいという“忠義《ちゅうぎ》”という名の奉公だった。

「……綺麗な旗ですね。ハナさんが、全部一人で?」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。

 レックは懐の奥に手を入れ、“猫”の鈴を指先で弾いた。

 ヂリヂリ、と小さな、情けない音が響く。

 歴史という大きな歯車を前にしても、自分のささやかな恋心ひとつ、彼女の心に届かせることはできない。

 山田長政という、あまりに眩《まぶ》しい太陽の影で、自分の存在が薄く透けていくような錯覚に陥る。

「ああ、それは長政様に喜んでいただけるといいですね……」

「はい! きっと!」

 ハナはレックの折れかけた心など露ほども知らず、再び猛然と針を動かし始めた。

 その没頭する姿は、周囲の景色さえ見えていない。

 ただ一点、遠い空の下で戦うであろう男の背中だけを追いかけているようだった。

 レックはそっと立ち上がり、彼女の視線から外れるようにして、独り小さく呟いた。

「……誕生日、おめでとう。ハナ」

 その声は、河面を渡る湿った風に吸い込まれ、誰に届くこともなかった。

 指先で弾いたはずの鈴は、今はもう、石のように冷たく黙り込んでいた……。




3.黄金の呪縛


 アユタヤ王宮「サーンペット・プラーサート宮」を支配していたのは、すべてを塗り潰さんばかりの、重々しく淀んだ「黄金」だった。

 第二十五代国王、チェーター。

 わずか十五歳で玉座《ぎょくざ》に据えられた少年王の戴冠式《たいかんしき》は、眩《まばゆ》い金箔の装飾と香油《こうゆ》の匂いに満ちていた。

 だが、レックには、その過剰な芳香《ほうこう》は、かえって崩壊の予兆を隠す虚飾に感じられた。

 レックは長政の数歩後ろで平伏しながら、床に映る百官の影を盗み見た。

 居並ぶ重臣たちの視線は、玉座の少年王を素通りし、その傍《かたわ》らで摂政として静止する男——オークヤー・カラホム・シーウォラウォンへと吸い寄せられている。

 いまや最高官位であるカラホム(国務大臣)に昇進し、数多の要職を兼ねる彼は、この国の絶対権力者として玉座を侵食していた。

「……王よ、万歳。アユタヤに永遠の繁栄を!」

 シーウォラウォンの朗々たる祝詞に合わせ、官吏たちの唱和が大合唱となって広間を揺らす。

 それに応えるように、場を埋め尽くさんばかりの僧侶たちが放つ重低音の読経《どきょう》が、黄金の堂内に低く、地鳴りのように響き渡った。

 だが、その中心で、チェーター王は重すぎる王冠の重みに耐えかねるように時折青白い顔を歪め、浅い呼吸を繰り返していた。

 その姿は、彼が「真の王」ではなく、次の覇者が現れるまでの「生贄《いけにえ》」であることを如実に物語っていた。

 式典が形式的な祝辞に移った時、その静寂を破ったのは長政だった。

 彼は、亡き先王ソンタムから受け継いだ「オークヤー・セーナー・ピムック(戦の神)」としての誇りと、愚直《ぐちょく》なまでの「義」を、この最悪の盤面で発動させてしまった。

「チェーター王の御治世、心よりお慶び申し上げます!」

 長政の低く太い声が、読経の余韻を切り裂いて黄金の壁に反響する。

「しかし、王の御身もまた、我ら臣下にとっては至宝。万一、天が王を早う召されるようなことがあれば……その時は、亡き先王の次子、アーティッタヤウォン様を正統なる後継としてお守りすることこそが、このセーナー・ピムックの誓い。日本人町は、王室の血筋を乱す不忠、断じて許しませぬ」

 長政は、カラホムの眼差しに潜む「王座の簒奪《さんだつ》」という野望を既に感じ取っていたのだ。

 その瞬間、宮廷内の空気が文字通り凍りついた。

 レックは心臓が口から飛び出しそうな衝撃に襲われ、必死に顔を伏せた。

(……長政さん、それだけは言っちゃダメだ! 牙《きば》を剥き出しにして、相手を真っ向から拒絶するなんて……!)

 カラホム・シーウォラウォンにとって、チェーター王、そして王弟アーティッタヤウォンこそ、自らが王権を握るために根絶やしにせねばならない最大の障害だ。

 長政の言葉は、カラホムの内なる計画を白日の下に晒し、「我は貴様の敵に回る」と公式に宣言したも同然だった。

 カラホムは黄金の冠を、ゆっくりと長政へ顔を向けた。

 その口元に、慈悲深い仏像の仮面を被ったような、それでいて冷徹な微笑を浮かべている。

「……セーナー・ピムック・ナガマサ殿の忠義、まことに天に届くほど。王弟殿下へのその御覚悟、しかと、このシーウォラウォンの肝に銘じておこう」

 彼は憤るどころか、深く、優雅に頷いてみせた。

 だが、レックはその微笑の奥に、長政を死へと誘《いざな》う緻密な「粛清の筋書」が確定した音を聞いた。

(あいつ……今、決めたんだ。チェーター王を葬る時期と長政さんを確実に始末する手筈を!)

 戴冠式の華やかな旋律が、レックの耳には弔鐘のように鳴り響く。

 歴史の修正力という名の巨大な意志が、アユタヤ最強の武力である日本人町を「排除」し、覇道を完成させるための最終段階に入ったのだ。

 王宮を出る際、長政はどこか清々しい顔をしていた。

「これでいい。筋だけは通したずら」と笑うその背中を見つめながら、レックは懐の鈴に触れた。

 脳裏をよぎるのは、指先に血を滲ませ、一心不乱に旗を縫っていたハナの姿だ。

 彼女が祈りを込めて作り上げた、あの日の丸に白象の旗印。

 それは長政を勝利へ導く旗などではなく、日本人町という共同体を、戦火の中にさらすための「標的」にするのではないか――。

 アユタヤの太陽は、黄金の王宮を背に、レックたちの足元へ長く、鋭い、逃げ場のない影を刻みつけていた。 

 懐の奥で、指先に触れていた鈴が、不意に小刻みな震えを始めた。

 チリとも鳴らず、ただ不気味な脈動のように指を弾く。

 それは、これから始まる壮絶な歴史のうねりを前に、レックの指先だけに届いた、最期の警告であったのかもしれない……。