『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』~四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~



1. 巨艦の沈黙

 1628年、仏歴2171年の8月―。

 アユタヤは重苦しい雨季の最中にあった。 

 ねっとりと肌にまとわりつく熱気と、降り続く雨がチャオプラヤ川を濁った琥珀色(こはくいろ)に変えている。

 だが、この朝の川面を支配していたのは、すべてを覆い隠すような乳白色の霧だった。

 その霧を切り裂くように、一艘の小舟が舳先に日の丸を立てて、水面に不気味なほど巨大な影を落とす

漆黒(しっこく)の城壁」へと近づいていく。

 スペイン艦隊旗艦(かんたいきかん)、『デル・ロサリオ号』。

 全長四十メートルを超えるであろうその巨躯は、長政とレックが乗る木造の小舟を押し潰さんばかりの威圧感で迫ってきた。

 漆黒の船体に施された金箔の聖母|《マリア》像は、ところどころ剥げ落ち、湿った朝日に鈍く光っている。

 船首楼から突き出たカノン砲の銃口が、まるで獲物の鼻先を嗅ぐ獣のように、まっすぐにこちらを覗き込んでいる。

「……レック、お主、(ふる)えておるのか?」

 (とも)に立つ長政の声は、驚くほど静かだった。

 彼は正装である朱印船貿易商(しゅいんせんぼうえきしょう)の羽織を完璧に着こなし、腰には黄金の柄の太刀を佩いている。

「……いえ。まさか、こんな殺気立った場所だとは……」

 レックは乾いた喉を鳴らし、見上げた。

「なんだ?未来の本にはそうは書いてないのか?ははは」

 長政は冗談か本気か分からないような奇妙な笑い声をあげた。

 レックは思わず口に出そうになった。

“歴史の文献には『長政、スペイン船にて和睦(わぼく)を成す』としか書いてありませんでしたから……”

 小舟が舷側(げんそく)に近づくと、頭上の甲板から「ガシャリ」という無機質な金属音が響いた。

 数十挺のマスケット銃が、霧を切り裂いて自分たちに向けられたのだ。

 火蓋が切られる寸前の、張り詰めた沈黙。

 だが、長政は笑った。

 それどころか、両手を広げて、朝の空気に染み渡るような朗らかな声を響かせた。

「おーい、わしらには敵意はない! 日本人町の頭領、ヤマダ・ナガマサだぁ!シルバ司令官に、日頃のキリシタンへの厚遇を感謝しに参った!さばーいでぃまーい!」
【注:「さばーいでぃまーい!」はタイ語で「元気ですかぁ!」の意】

 レックは思わず目を疑った。

(……感謝だと? この状況で、その挨拶かよ)

 歴史書にある「外交」という言葉から、もっとこう、互いの利害を軍師が調整するような冷徹な儀式を想像していた。

 だが、目の前の男がやっているのは、まるで近所の家に挨拶にでも行くような、あまりにも無防備で厚かましい"人たらし”の直談判だった。

 小舟が戦艦に接すると、厳重な警戒の中で縄梯子(なわばしご)が下され、二人は甲板へと引き上げられた。

 待ち構えていたのは、煤けた軍服に身を包んだディエゴ・デ・シルバ司令官である。

 彼は抜き身のサーベルを手に、疑念に満ちた眼差しで長政を射抜いた。

「……日本人よ。わざわざ殺されに来たのか。それとも、泥船のオランダを見捨てて我らに降伏を申し出るのか?」

 シルバの声は低く、そして憔悴していた。

 レックは気づく。

 司令官の背後に控える士官たちの軍服は擦り切れ、ボタンが欠けたまま糸が垂れている。

 甲板の隅には、磨き残された赤錆がこびりついている。

 世界帝国スペインの威光など、この東南アジアの湿気と孤立の中では、とうにボロボロに朽ち果てていたのだ。

 長政は、シルバの剣先など見えていないかのように、柔和な笑みを崩さなかった。

「降伏? 滅相(めっそう)もない。ただ、我が日本人町には貴国のデ・ウスケ神父をはじめ、多くの敬虔な信徒がおります。司令官殿が、彼らを慈しむ騎士道精神の持ち主であると聞き、ぜひ我が町の極上の地酒と、心ばかりの品を届けたいと思いましてな、はっはっはっ!」

 長政は白い歯を見せて笑い、レックに目配せをした。

 レックは震える手で、持参した贈答品の目録を差し出す。

「……酒だと?」

 シルバの頬が、わずかにピクリと動いた。

「ええ。アユタヤの熱気には、日ノ本の冷えた酒が一番です。我らは商人。争いよりも、平和な交易の杯を交わしたい。そうは思いませぬか?」

 シルバ司令官は、しばらく長政を睨みつけていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。

 そしてゆっくりとサーベルを鞘に収めた。

「……貴公、正気か? 我々は今、王宮からもオランダからも敵視されているのだぞ!」

「ははは! 友人と酒を飲むのに、どこの誰の許可がいりましょう。我ら日本人は、義理を重んじます。キリストの教えを信じる同胞が世話になっている以上、その親玉である司令官に挨拶に来るのは、当然の道理でござる!」

 甲板に漂っていた殺気が、霧が晴れるように霧散した。

 士官室に案内され、日本から持ち込まれた清酒の樽が手際よく開けられた。

 澄んだ液体がガラス杯に注がれる。

 シルバは一口それを啜ると、驚いたように目をみはり、次いで深く長い溜息をついた。

「……悪くない。いや、驚くほど澄んでいるな、この酒は実に美味い!」

「そうでしょう!日ノ本の清く澄んだ雪解け水のような味です!」

 酒が回るにつれ、室内の空気は急速に緩んでいった。

 長政は、まるで長年の友人のようにシルバと笑い合い、キリスト教の教義について(付け焼刃とは思えないほど詳しく)語り、日本人町がいかにスペインとの貿易を待ち望んでいるかを情熱的に説いた。

 レックは傍らで、その様子を見ながら呆然としていた。

(これが……これが歴史の真実なのか)

 緻密な戦略や計算なんてどこにもない。

 ただ、腹の底を見せ、美味い酒を振る舞い、「お主らの事情は分かっている」と肩を叩く。

 現代の資料や文献には一行も書かれない、この男の底知れない「愛嬌」と「胆力」こそが、大帝国を動かしている。

 自分が持ってきた知性やロジックが、なんだかひどく小っぽけなものに思えてきた。

 だが、安堵したのも束の間、窓の外、霧の向こう側で動く不穏な影が見えた。

 チャオプラヤ川を下ってくる、複数の小型船。

 そこには、独占権を奪われることを何よりも恐れる、オランダ東インド会社の紋章が揺れていた。

「……長政様」

 レックが低く呟く。

「……ああ、分かっている。客人が来たようだな」

 酒杯を掲げたまま、長政の目が一瞬だけ、獰猛な武士のそれへと戻った。

 この和平の宴こそが、オランダという巨大な獣を誘い出すための"撒餌(まきえ)”であることに、スペイン側はまだ気づいていない。

「司令官、どうやら無粋な連中が、我らの酒盛りを羨んでいるようですぞ!」

 長政の言葉と同時に、船外で鋭い銃声が響いた。

 平和な宴の幕が、血の臭いを伴って引き裂かれようとしていた……。






2.歴史の落丁

  船外で響いた一発の銃声は、士官室の緩んだ空気を、冷えた刃で切り裂くようにして奪い去った。

 長政が持ち込んだ日本酒の香りが漂っていた室内は、一瞬にして鉄と硝煙《しょうえん》の匂いに支配される。

 シルバ司令官が跳ねるように立ち上がり、腰のサーベルの柄を強く握りしめた。

 酒で赤らんでいた顔が、一瞬で蒼白な軍人のそれへと戻る。

 その瞳には、戦闘本能と落胆が入り混じった鋭い色が宿っていた。

「オランダの赤鼠どもか!」

 シルバが吐き捨てるように叫び、部屋を飛び出す。

 長政とレックもそれに続いた。

 甲板へ駆け上がると、そこには視界を拒むような乳白色の霧が停滞していた。

 だが、その霧を割り、チャオプラヤ川の下流から、オランダ東インド会社の三色旗を掲げた武装カッター数艘が、獲物を狙う鮫のようにデル・ロサリオ号の舷側《げんそく》へと迫っていた。

 彼らにとって、スペインと日本人が密談しているという事実は、アユタヤにおける貿易独占権の崩壊――すなわち“撤退”を意味する。

 長政が甲板の縁に走り寄り、銃を構えて応戦体制に入ったスペイン兵たちへ怒号を飛ばした。

「¡No debes atacar!(ノー・デベス・アタッカー)――攻撃をするな!」
 
 しかし、デル・ロサリオ号の右舷では、護衛のために河面で待機していた日本人町の小舟が、すでにオランダ武装船と鼻先を突き合わせ、水面下で激しい火花を散らしている。

「撃つな! 応射してはならぬ!」

 今度は日本語で大声を張り上げた。

 長政の必死の制止だった。

 ここで引き金を引けば、それは単なる小競り合いではなく、二つの帝国の全面戦争、そしてアユタヤを火の海にする地獄の引き金になる。

 長政はそれを熟知していた。

 だが、その叫びは、最前線の狂気には届かなかった。

 霧の中から、乾いた銃声が立て続けに数発響く。

 オランダ側からの威嚇射撃、むしろ先制攻撃に近い。

 チャオプラヤの重苦しい空気が振動し、鉛の弾丸が、小舟で待機していた浪人武士の一人、角倉《すみのくら》の左頬をかすめた。

 細い一筋の血が流れた、その瞬間だった。

 戦国時代の敗残兵――関ヶ原や大坂の陣を経て、行き場を失い、血を流すことでしか己を証明できない“浪人武士”たちにとって、オランダの威嚇は、この上ない「開戦の合図」として響いてしまった。

「笑止千万、南蛮の赤鼠どもが! 我らが吉継殿の無念、その身に刻んでくれん!」

 大漢《たいかん》の角倉が吠えた。

 彼はデル・ロサリオ号の甲板へと投げ込まれた接舷用の鉤縄《かぎなわ》を、あえて避けるどころか、むき出しの左手で掴み取った。

 麻縄が掌を焼く摩擦音を無視し、全体重をかけてグイと引き寄せる。

 相手のカッターが、磁石に吸い寄せられるように舷側へ激突すると、彼は背負った三尺三寸の野太刀《のだち》を抜き放った。

 白刃が朝霧を切り裂く。

 角倉は、足場も定まらぬ小舟から小舟へと、重力を無視したような動きで吸い込まれるように飛び移った。

「兵衛殿、待て! 斬るな! 斬らないでくれ!」

 レックの絶叫が河面を走るが、それは湿った重い空気に呑み込まれ霧散していく。

 レックの視界に入ったのは、未来の歴史書に書かれた「一六二八年の小競り合い」という、わずか五文字の無機質な記述ではない。

 狭いカッターの上、逃げ場のない空間で振り下ろされる、重き鉄の一撃。

 防御しようとしたオランダ兵のマスケット銃の銃身が、角倉の一撃によって、まるで飴細工のように易々と断ち切られた。

 火薬の匂いと、金属が削れる甲高い音が鼓膜を突く。

「おんどりゃぁ!」
  
 角倉の獣じみた咆哮が河面に轟く。

 次の瞬間、鈍い、濡れたような音が響いた。

 肉を斬り、骨を砕き、命を奪うという行為が、そこでは極上の娯楽のようにすら見えた。

 鮮やかな赤い飛沫が乳白色の霧を毒々しく染め上げ、オランダ側の小舟からは、人のものとは思えない悲鳴が次々と上がる。

 数分後―

 地獄のような悲鳴が止み、代わりに不気味なほど重苦しい静寂が河面に戻ってきた。

 デル・ロサリオ号の甲板に、一人の男が縄梯子《なわばしご》を伝ってゆっくりと這い上がってきた。

 全身、返り血で真っ赤に染まった角倉だ。

 その瞳は興奮で異様にギラつき、呼吸は獣のように荒い。

 彼は勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべ、右手で泥にまみれた髪を掴んでいた「それ」を、事もなげに長政の足元へと転がした。

「長政様! 敵の将、しかと討ち取ったり!」

 ゴロリ、という重々しい肉塊の音が板張りの甲板に響き渡る。

 それは、つい数分前まで生きていたはずの、青白い顔をしたオランダ人士官の生首だった。

 見開かれた瞳には、死の瞬間の驚愕が張り付いている。

 レックは胃の底からせり上がる猛烈な嘔吐感に耐えきれず、口元を押さえてその場に崩れ落ちた。

(……嘘だろ。こんなこと、どの歴史資料にも、論文にも載ってなかったぞ……)

  長政とレックで練り上げた繊細な外交計画が、たった一人の「戦馬鹿《いくさばか》」の狂気によって、修復不可能なほど粉々に砕け散った瞬間だった。

 平和への橋は、一瞬で血に染まり崩壊してしまった。

 長政は、足元の生首を無言で見つめていた。

 長政の視線の先には、霧の向こうの王宮で薄笑を浮かべるシーウォラウォンの影があった。

「……レック。しかと見たか。これが教文《きょうもん》にはない“真《まこと》”じゃ」

 長政の声は、驚くほど静かで、そして刃のように冷徹だった。

 彼はその生首の髪を、汚物を扱うような素振りも見せず無造作に掴み上げると、傍らに控えていた従者に短く命じた。

「これを持って、直ちに王宮へ走れ。シーウォラウォン長官へ届けろ。――『日本人義勇隊、我が物顔で“悠久の大河”を荒らすオランダの不埒者を、王宮に代わって成敗せり』とな」

 レックは身震いした。

 長政は、この破滅的な暴走を嘆く時間は一秒も要らなかった。

 即座にこれを「シーウォラウォンの懐に潜り込むための供物」とし、逆にオランダを悪者に仕立て上げる一手に変えたのだ。

 だが、それは同時に、オランダという巨人を完全に敵に回すことを意味する。

 この後、誠実な日ノ本の商人の顔をしてアユタヤの土を踏める日々が、急速に遠のいていくのをレックは感じていた。

 そして、激しい動悸の中で、懐に入れたあの「鈴」が、小刻みに震え続けていたことにさえ、気づいていなかった。
 
 それは未来からの警告か、あるいは歴史が修正不能な地点を越えたことを告げる弔鐘《ちょうしょう》だったのか。
 
 霧の向こう側から、オランダ艦隊が鳴らす復讐の鐘の音が、重く、低く響いてきた……。




3.粛清の駒 

 アユタヤ王宮の最奥、シーウォラウォンの私邸は不気味なほど静寂《せいじゃく》だった。

 磨き上げられた漆黒の床が、窓外の雨を鏡のように映し出し、その中央に置かれた麻袋から、じわりと赤黒い染みが這い出している。

「……見事なものだ、長政殿」

 宮内長官シーウォラウォンは、手にした扇子をパチンと閉じ、その先端で袋の口をわずかに押し広げた。

 無造作に転がり出たオランダ人士官の首を、彼は眉ひとつ動かさず、まるで出来の悪い骨董品でも値踏みするように眺めている。

「オランダの赤鼠どもには、私も手を焼いていた。我が王国の秩序を乱す無法者を、貴殿の義勇隊が掃除してくれたわけだ。……長政殿、骨を折らせたな」

 労《ねぎら》いの言葉とは裏腹に、その双眸《そうぼう》には冷徹な計算だけが宿っている。

 外面では称賛し、裏ではオランダへ「報復」の許可を出しているであろうこの男の底知れなさに、レックは吐き気を堪えた。

「滅相《めっそう》もございません。スペイン船との交渉は、あくまで商いの一環。それを邪魔立てしたオランダ側が、先に銃を向けたまでのこと……。部下の働きは、自衛のための偶発的な事故にございます」

 長政は堂々と言い放った。
 
 暴走した部下の始末を“自衛のため”とすり替え、正当防衛という名の綱を渡りきる。
 
 その胆力に、隣に控えるレックは、濡れた指先の震えが止まらない。

「偶発、か。良かろう、角倉とやらを罪には問わぬ」

 シーウォラウォンは薄笑いを浮かべ、這い寄るように長政を覗き込んだ。

「だが、長官殿。今、病床のソンタム王を悩ませているのは外の鼠《ねずみ》だけではない。チェーター皇子の継承を邪魔立てし、柱の下をかじる内の蜥蜴《トカゲ》ども……。その巣を掃き清めるのに、貴殿の“義勇隊”の力を借りたいのだよ」

 殺せ、とは言わない。

 だが、それは紛れもない「粛清《しゅくせい》の駒」になれという宣令《せんれい》に等しかった。
 
 王宮からの帰り道、激しさを増した雨が二人の肩を叩きつける。
 
 先行する長政の背中を、レックは引き攣《つ》るような焦燥《しょうそう》とともに追う。

「……長政様。どうしても、腑に落ちぬことがございます」

 長政は足を止めない。雨のカーテンに霞む王宮の尖塔を睨みつけたまま、重い足取りで歩き続ける。

「オランダの動きが早すぎました。奴らは、我々がデル・ロサリオ号に乗り込む時刻を、正確に知っていた。日本人町に裏切り者がいるとは思えません。……誰が、情報を売ったのですか」

「あの夜の官吏《かんり》だ」

 吐き捨てられた答えに、レックの思考が凍りついた。

 ソンタム王の書状を届けに来た感情のない男。

 あれもすべて、シーウォラウォンが放った「目」だったのか。

「彼は、長官のスパイ、いや、“密使《みっし》”だったというのですか?」

「密使というほど大層なものではあるまい。ただ、お主がそこにいたこと。わしが何を決断したか。それを見届け、主人へ報告した。シーウォラウォンは、その情報を直ちにオランダへ横流ししたのだ。……わしらと赤鼠を、海の上で食い合わせるためにな」

 震えが止まらなかった。

 外交も、命がけの交渉も、シーウォラウォンにとっては、日本人とオランダ人の間に、消えない“血の溝”を作るための仕掛けに過ぎなかったのだ。

「長官は、最初から我々を破滅させるつもりです!」

 レックは雨音に抗《あらが》うように声を張り上げた。
 
 胸の内に溜まった“未来の史実”が、濁流となって口を突いて出る。

「長政様、狂言《きょうげん》だと思って聞いてください。私が知っている歴史の……いえ、未来の結末では、日本村はシーウォラウォンの軍勢によって焼き払われます。あなたも、お滝様も、日本人全員が彼に裏切られ、このアユタヤから消し去られるのです!」

 長政が、初めてその足を止めた。
 
 振り返ったその眼光は、嘘や迷いを一瞬で切り裂くほどに鋭い。

「……レック。お主、ついに気が触れたか?」

「日本村は、焼き討ちに遭うのです。長官にとって、政敵を排除した後に残る強大な脅威――我ら日本人は葬り去るべき外患となります。恩を仇で返し、根絶やしにする。それが、シーウォラウォン長官の企みなのです」

 狂人の戯言《たわごと》と切り捨てられてもおかしくない言葉だった。
 
 長政はレックを射抜くように見つめたまま、動かない。
 
 脳裏に、お滝がかつて漏らした不吉な言葉が蘇ったからだ。

『……かつて高僧が予言したのです。この地で日ノ本から来た民が栄華を極めたとき、その炎は自らを焼き尽くす紅蓮《ぐれん》に変わると』

(あの僧の言葉と、この若造の予言が、一本の線で繋がるというのか……!)

 長政の中で、バラバラだった疑惑が現実へと変わる。

 目の前の青年が持つ“異世界の知性”の正体が、単なる博識ではなく、運命を見通す“眼”であることを、彼は直感で受け入れた。

「……いいだろう。信じよう。お主の不吉な眼に見えているものを」

 長政の瞳には、獲物を狩る虎のような、冷徹な光が宿っている。

「ならば、長政様。長官の描いた策略を、こちらで塗り替える必要があります。彼は我らを政敵排除の“道具”にするつもりでしょうが、逆にその立場を利用するのです」

 レックは一歩踏み出した。

 雨に濡れたその顔から、かつての清廉な輝きは消え失せていた。

「長官が欲しがっているのは、政敵……王弟シーシン派を皆殺しにするための“大義名分”です。ならば、こちらでそれを“捏造《ねつぞう》”して献上してやるのです。――『シーシン派がオランダと内通し、日本村を焼き討ちにしようとしている』と。実際に我々が焼かれるという未来を、そのまま奴らの陰謀として、長官に売りつけるのです!」

 確定した過去を、今を生き延びるための毒牙に変える。

 歴史が自分たちを滅ぼそうとするなら、その筆を奪い、ここで書き換えてやる。

「……お主、もはや“魔界《まかい》の妖人《ようじん》”ではいられぬな」

 長政の唇が、歪んだ笑みの形を作った。

 レックは今、自らの意志で血塗られた二人のシナリオに連署した。

 降りしきる雨の向こう、遠くで寺の鐘が雨脚に溶けて響く。

 それは一人の青年が清廉な知を捨て、泥沼の「策」へと堕ちていく戯曲《ぎきょく》の調べであった。




4.偽りの告発

 次の日の夕刻。

 ぎらつく夕陽もここ数日、チャオプラヤの河面を照らしてはいなかった。

 雨に濡れた日本人村は泥濘《ぬかるみ》の底に沈み、水位は限界を超えて、村の至るところで床下まで水が入り込んでいる。

 ハナの実家の蒲焼屋も商売あがったりで、軒先には濁《にご》った水が虚しく溜《た》まっていた。

 膝下まで浸かった土間の、木の椅子に腰かける長政とレック。

 その足元を、どこかの樽から逃げ出した鯰《なまず》が、ぬらりと掠《かす》めて泳ぎ去っていった。

 お滝が差し出した茶の湯気だけが、かつての平穏な日常の残り香のように、白く頼りなく揺れている。

「……“偽書《ぎしょ》”、でございますか」

 茶菓子を運ぶお盆を持ったお滝の手が、ぴたりと止まった。

 その声は、脆く、微かに震えている。

 レックはお滝の顔を見られず、手元の煤《すす》けた机を見つめたまま、長政に代わり言葉を絞り出した。

「そうです。王弟シーシン親王の擁立《ようりつ》派がオランダと内通し、それを支持せぬ日本村を焼き払おうとしている……と。今、この場で私が、その“嘘の真実”を書状にします、お滝さん、墨と筆をお願いします」

 お滝の瞳に不安が広がる。

 彼女の脳裏には、あの高僧の不吉な“予言”が被さっていた。

(……この王国で日ノ本が栄華を極めたとき、その炎は自らを焼き尽くす紅蓮《ぐれん》に変わる……)

 「焼き尽くす」という予言、そしてそれが歴史の真実だった。

 レックは今、その歴史の軌道を無理やりねじ曲げようとしていた。

 史実では、シーウォラウォン自身が「日本村焼き討ち」を仕掛け、日本人を排除する。

 だが、その彼が思いつくはずの陰謀を、先んじて「王弟派とオランダの共謀」として捏造し、長官の耳に入れてしまうのだ。

 そうなれば、長官はもはや自分の手で村に火を放つことができなくなる。

 火を放てば、それは自分が「王弟派と通じている」と認めることと同じになるからだ。

 彼は己の野望のために、むしろ日本村を保護する“偽善者”を演じざるを得なくなる。

「お滝さん。これは毒を以て毒を制するための策です。この書状一枚で、シーウォラウォンから“主導権”を奪い取る。彼はこれを見た瞬間、自分の手の内を先に晒《さら》されたことに愕然《がくぜん》とするはずです」

 レックは深く瞳を閉じ、脳裏に浮かび上がる「十七世紀のポルトガル語の書簡」をなぞり始めた。

 お滝が以前、スペイン人の商人と鯰の蒲焼と物々交換をした、ガチョウの羽ペンが、鋭い音を立て、羊皮紙《ようひし》に黒いインクを刻んでいく。

 彼の筆先から一文字ずつ、異国の言葉が溢れ出す。

「……できた!」 

 長政が「よし!」と立ち上がった。

 しかし、その眼光には、窮地《きゅうち》を逆手に取る野心と、己の手を汚す奇策への激しい嫌悪が渦巻いていた。

 この偽書を差し出せば、長官は自らの手を汚さず、王弟派の鎮圧を長政に命じるだろう。

 それはつまり、長政が「自分たちを陥《おとしい》れようとした」という濡れ衣を着せられた者たちを、自らの刀で始末しに行かねばならない……という血の契約を意味していた。

 レックが最後の偽りの署名を終えた、その時だった。 

 屋敷の門を激しく叩く怒号が静寂を破り、泥まみれの伝令が飛び込んできた。

「申し上げます! 先刻、王宮より早馬が……! ソンタム王、崩御あそばされました!」

 一瞬、全員の呼吸が止まった。

「……日ノ本の“傘”が、折れたか!」

 アユタヤ日本人の守護者であり、理解者でもあったソンタム王の死。

 それは、宮廷の危うい均衡を保っていた最後の手綱が、ついに切れたことを意味していた。

 もはやシーウォラウォンの台頭を阻むものはなく、一気に彼が実権を握る時代が幕を開けたのである。

「レック、急ぎ参ろう。あの男に先手を食わせてやるのだ」

 お滝の、祈るような視線を背中に感じながら、長政は偽書を懐に収めた。

 それは、未来の歴史書には決して載らないであろう、最も醜悪《しゅうあく》で、最も慈悲《じひ》深い、歴史への反逆の始まりであった。