『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』~四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~




 その日、老境に達したレックは再び、あのアユタヤの熱気の中に立っていた。

 黄衣(こうい)を纏い、髪を剃り落とした彼の姿は、行き交う人々には一人の徳高い老僧としか映らない。

 一六二五年。ハナに出会う数年前、日本人町が最も栄華を誇っていた時代だ。

 レックは日本人町に近い寺院に身を寄せ、静かに“その時”を待った。

 歴史という巨大な歯車が、今、一人の簒奪者によって回されようとしていた。

 国務大臣オークヤー・カラホム。

 後の第二十四代プラサート・トーン王だ。

 彼は摂政(せっしょう)として実権を握ると、王座への障害を次々と排除し始めた。

 幼き王子アーティタヤウォンまでもがその謀略の毒牙にかかり、命を奪われる。

 こうしてアユタヤ王座への道は、王族の屍で覆われていた。

 レックはそのすべてを「史実」として知っていた。

 だが、個人の力でこの歴史の濁流を止めることはできない。

 歴史の文献を書き換えることは、神ですら許されない禁忌だ。

 それでも、レックにはこの時代に戻ってまでも返したい“恩”があった。

 彼は、かつて戦場での窮地を救ってくれたお滝の屋敷を訪ねる。

 折しも、お滝の主人が(いくさ)で深手を負い、生死の境を彷徨(さまよ)っていた。

 レックは僧侶として、現代の医学的知見とこの時代の薬草を使い、主人の手当てにあたった。
 
 本来の歴史ではここで果てるはずだった命を、彼は現世へ引き留めたのだ。

 数日後、主人が一命を取り留めたことを確認すると、レックは静かに告げた。

「数年後、私よりずっと若い、迷いの中にいる男がここを訪れるだろう。何かを探して彷徨うその男を、お滝さん、どうか信じて支えてやってほしい」

 お滝はその言葉を深く胸に刻みこんでいた。
 
 後に、ワット・プラ・シーサンペットの城壁の外、霧と共に忽然(こつぜん)と現れた若きレックをハナが目撃し、お滝のもとへ連れてきたとき、彼女はすべてを悟った。

 あの老僧の予言した男が、ついに現れたのだと。

 やがて歴史は、レックの知る通りに進んだ。

 カラホムはプラサート・トーンとして王位に就き、日本人町は焼き払われ、地図から消滅した。

 だが、皮肉にもこの独裁者が断行した強力な貿易統制と経済改革は、アユタヤに未曾有(みぞう)の繁栄をもたらす。

 彼が築いた国家の基盤は、数百年後のタイの経済発展にまで寄与することになるのだ。



 現代に戻ったレックは、夕暮れのチャオプラヤ河のほとりに立っていた。

 対岸のワット・チャイワッタナラームが、沈みゆく陽光に溶け、燃えるような朱に染まっている。

 河風が、彼の白髪を優しく揺らしていく。
 
 歴史の史実を変えることはできなかった。日本人町は焼かれ、ハナとの別れも避けられなかった。

 だが、レックの胸にあるのは後悔や悲哀ではない。

 レックは一眼レフを構えた。

 その時、一陣の風が、彼の白い髪を揺らして通り過ぎていった……。


(完)