『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』~四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~



1.チャオプラヤと梅

 カラホム軍の一次撤退から数日。

 日本人町は、嵐の前の(つか)()の平穏に包まれていた。

 折れた竹柵の修復や負傷者の手当てに追われる日々の中で、レックとハナがようやく二人きりになれたのは、昼間の熱気が和らぎ始めた夕暮れ時だった。

 町外れの運河に突き出した、朽ちかけた桟橋。

 レックは、手の甲に負った傷をハナに手当てされていた。

 母、お滝から教わったという薬草の、青臭くも清涼感のある緑の汁を、ハナが指先で丁寧に塗り込んでいく。

「痛みますか、レック様」

 ハナの指先は驚くほど優しく、そして微かに震えていた。

「……いや。ハナさんの手の方が、よっぽど温かいよ」

 レックがそう言うと、ハナは夕映えの(だいだい)を写したように頬を赤らめ、視線を落とした。

 ハナの()れた横顔を見た途端、レックの胸の奥で眠っていた孤独がふわりと揺れた。
 
 自分はこの世界の住人ではない。

 歴史の流れに逆らい、いつか消える存在かもしれない。

 だが、この柔らかな髪の匂いや、指先の確かな温もりだけは、どんな教科書にも公文書にも記されていない、彼だけの真実だった。

「ねえ、レック様。戦いが終わったら、お母様と三人で、長政様が言っていた『遠い未来』の話、もっと聞かせてくださいね。レック様の故郷には、本当に夜を昼に変える魔法があるのでしょう?」

 無邪気(むじゃき)に問いかけるハナ。

 レックは、彼女が思い描いていた「未来」が、まさに今、現実の中で崩れ始めていることを知っている。

「うん、ほかにも聞かせたいことはたくさんあるんだ……」

 彼は、(ふところ)から大切に忍ばせていた布包みをそっと取り出した。

「……これ。(いくさ)が始まる前に渡したかったんだ。ずっと、出しそびれていて」

 包みを解くと、梅の花を(かたど)った“かんざし”が現れた。

 極彩色の地元の装飾品とは異なる、日本の早春を思わせる控えめな白梅の柄模様。

 その白い模様が、夕暮れの中で淡く白光を放っているように見えた。

「これは……」

「梅という木の花だよ。厳しい冬に耐えて、春になると最初に咲くんだ。……再会や、希望の象徴なんだよ」

「そうなんだ……梅の花」

「ハナは、日本、いや、日ノ本の国には行ったことがないの?」

「私はここアユタヤで生まれたから……。でも、一度は行ってみたい。お父様とお母様が生まれた国の景色を、この眼で見てみたいです」

 ハナは、かんざしを宝物のように両手で包み込み、そっと自分の髪に挿した。

「似合いますか?」

「ああ。この世で一番似合っている。約束するよ、いつか、君に全部見せてあげたい。……たとえ私がいなくなっても、君がその光の中にいられるように」

「……大切にします。あなたが言った『冬』が終わるまで。そして、この花が咲く『春』からも、私はあなたの道標(みちしるべ)となります」 

 不安げに見上げるハナを、レックは優しく微笑み、そっと引き寄せた。

 運河を渡る風が二人の髪を揺らし、水面には黄金色の夕映えが波打っている。

 二人の間には、この瞬間のために生きてきたのだという、(もろ)くも美しい確信が芽生えていた。

 永遠に続くかと思われた甘い一時(ひととき)は、わずか数秒で幕を閉じた。

 町の南、静かな田畑を突っ切ってくる、馬蹄(ばてい)の響きが二人の世界を粉々に砕いた。

「レック軍師殿! おハナ様っ!」

 張り詰めた声で叫びながら、重松蔵人が落馬せんばかりの勢いで桟橋へ突っ込んできた。

 顔を強張(こわば)らせ震える声を上げた。

「長政様が……! リゴールの傷が()み、熱に(うな)されておいでだ! 早く、早くお屋敷へ!」



 駆け戻った長政の居室は、さっきまでの穏やかな時間が嘘のように、重苦しい湿気に満ちていた。

 開け放たれた襖から、(むせ)るような薬草の匂いと、傷口を清める強い酒の匂いが漏れてくる。

 特別に召し出されたポルトガル人の医師が、沈痛な面持ちで白い包帯を手に取っていた。

「……長政様!」

 レックの呼びかけに、寝床の主がわずかに肩を揺らす。

「長政様、どうかそのまま」

 ハナの気遣う声が、震えを帯びていた。

 アユタヤ日本人義勇隊を率いた威風堂々(いふうどうどう)たる骨格は、薄い麻の肌着の下でひと回り小さく見える。

 リゴールで受けた毒矢の痕は、今なお熱を帯び、主の命をじわじわと(むしば)み続けていた。

「……遅いぞ、軍師殿。拙者は少し、身体が火照っただけだ」

 長政は、ひび割れた唇を歪めて不敵に笑った。

「熱が引かない。毒が全身にまで回っている。……並の男なら、(とう)に事切れていてもおかしくはない」

 青い目の医師が、感嘆とも諦めともつかぬ吐息をつき、長政の額に湿った布を当てがう。

 アユタヤの空に雨季が近づき、(うな)るような遠雷を運んできた。

 その響きは、刻一刻と迫り来るカラホム軍の進軍の銅鑼(どら)()を予感させる。

 不意に長政が、その震える手でレックの手首を掴んだ。

 その(てのひら)の温度は、異常なほどに熱い。

「軍師よ、よく聞け。奴らは拙者のこのざまを好機と見て、一気に畳みかけてくる。今度こそ、この町を跡形もなく灰にする気だ」

 激しく咳き込み、肩が大きく上下する。

 長政は気力を振り絞るように、レックの目を覗き込んだ。

「……“未来の世”のことは拙者には計りかねる。だが、お主はまぎれもなく、この“今の世”に命を賭けておる。……拙者が再びこの足で立つ時まで、全軍の指揮はお主に託す。よいか、頼むぞ」

 レックは、長政の熱い手を祈るように両手で握り返した。

 彼が再び陣頭に戻るまでの時間を、一秒でも長く稼ぎ出す。

 それが今の自分の、唯一の使命だ。

「……承知しました。それまでこの町は、私が守り抜きます」

「軍師殿、お主ならやれる……。頼んだぞ……」

 長政は荒い息を吐きながら、再び寝床へ深く沈み込んだ。

 レックは託された重責を胸に、ゆっくりと立ち上がった。

 床の間の隅、鎧棚(よろいだな)には「朱塗(しゅぬ)りの大鎧(おおよろい)」が掛けられている。

 幾度も戦場を駆けてきたその甲冑は、静かに“その時”を待っていた。



 長政の居室を出た廊下には、重松蔵人と、騎兵隊を率いる河村権兵衛が、数人の諸将と共に待ち構えていた。

 使い込まれた胴大丸の小札(こざね)が擦れる音が、板張りの回廊に硬く響く。

 男たちの視線は、レックの背後、長政が伏す奥室の闇に吸い寄せられていた。

「……長政様は」

 重松が問いかけた。

 刀の柄を握る指先が白く強張っている。

「今も、病魔と戦っておいでです。ご自身が戦場へ戻るまで、一歩も引くなとの仰せです」

 レックの言葉に、武将たちの間に微かな動揺が走った。

「長政殿は戦える御身(おんみ)ではない、ということか」

 河村権兵衛が苛立ちを隠さず、一歩踏み出した。

「カラホム軍の象部隊が水路を塞ぎ、歩兵はすでに南の防壁を越えようとしている。頭領の姿が見えねば兵の士気は持たぬぞ。この瀬戸際、誰が兵を束ねるというのだ」

「私が、指揮を()ります」

 レックは退かず、武将たちの視線を正面から受け止めた。

「長政様より、全軍の指揮権を預かりました。異論のある方は、今ここで私の首を()ね、好きになされるがよい!」

 静かな宣告に、回廊の空気が一変した。

 アユタヤで長政と共に歩み、同じ泥に塗れてきた男の、退路を断った覚悟がそこにあった。

 張り詰めた空気を切り裂くように、遠くからカラホム軍の銅鑼(どら)(かね)()が、夜風に乗って響いてくる。

 重松が、ゆっくりと膝を折った。

「……御意。軍師殿の指図に従おう。長政様の命とあらば、たとえ魔物であっても、(それがし)は付き従う」

 重松の言葉に、河村も、居並ぶ諸将も、苦渋を飲み込むように次々と頭を下げた。

 町会所の一室に据えられた円卓に、一枚の地図が広げられた。

 レックは言葉を選びながら、丁寧に戦闘方針を告げた。

「敵は我々の動揺を待っている。だが、水路の象部隊は雨季の増水で足元が脆い。そこを狙い撃つ。……私は、長政様が戦場へ戻られるまでの『(たて)』となります。敵に、山田長政が健在であると思い知らせるために」

 その時、夜空を引き裂くような轟音が響いた。

 建物全体が震え、円卓の上の地図が激しく揺れる。

 カラホム軍による総攻撃の号砲――大砲の初弾が、日本人町の外郭を容赦なく叩き潰したのだ。

「……では参る!」

 レックは短く告げ、砲煙が立ち昇る南の空へ向かって、暗い廊下を歩き出した……。
向かって、暗い廊下を歩き出した……。





2.朱炎(しゅえん)慟哭(どうこく)

≪富士と英雄≫

 南の防壁が崩れ、黒煙が上がった。

 日本人町の北を守る竹柵の裂け目から、猛然とカラホム軍の先遣、近衛隊(このえたい)雪崩(なだ)れ込んでくる。   

 長政の屋敷の重い門が開いたのは、その直後だった。
 
 長政が姿を現した。
 
 朱塗りの大鎧(おおよろい)(まと)っているが、その足取りはおぼつかない。

 重松と河村の肩を借り、右足を引き摺るようにして一歩ずつ踏み出すのが精一杯だった。

 河村が膝をついて長政の左の具足を抱え上げ、ようやく愛馬「富士」の背へとその身を押し上げた。

 「富士」は、長政の故郷、駿河の灰土を宿す脚と、富士の冠雪の白背を誇る葦毛(あし)の牡馬だ。

 主人の身を焦がす高熱を背に感じたのか、富士は硬い地面を蹄で叩き短く嘶いた。

「長政様、なりませぬ。今出ればお命が……!」

 駆け寄ったレックが、富士の(くつわ)に手をかけるが、長政はそれを采配(さいはい)の一振りで払いのけた。

「……案ずるな、軍師。拙者は、まだ、山田長政である!」

 (かぶと)の奥に沈んだ眼が、(やいば)のようにレックを貫いた。

 自らの最期を悟った男の、凄まじい執念(しゅうねん)がそこにあった。

「さあ、行くのだ、富士!」

 長政の一喝とともに、鞭が富士の後躯(こうく)を打った。

 白馬が矢の如く駆け出す。
 
 防壁の裂け目から侵入した敵軍の前に、炎を揺らす(あか)い影が差した。

「長政様、長政様だ! 我が頭領がお出ましだぞ!」

「今だ、押し返せ!」

 武器を手にした商人や町の若者たちが、その「朱塗りの大鎧」を目にした瞬間、喉を潰さんばかりの喚声を上げた。

 長政は馬上で日本刀を抜き、焦点の定まらぬ視界のまま、近づく敵を次々と斬り伏せていく。
 
 富士は主の意志を汲み取るように、突き出される槍の林をかいくぐり、敵陣の奥深くへと突き進んだ。

 だが、その勢いは長くは続かなかった。

 敵の一斉射撃の銃先(つつさき)が馬上の長政に向けられた。
 
 騒乱を裂き、火縄銃の乾いた破裂音が響き渡った。 
 
 ――パン、パパン!
 
 数発の鉛の弾が朱塗りの小札(こざね)を砕き、長政の身体を激しく揺さぶる。
 
 富士が前脚を高く上げ、天に向かって悲鳴のような(いなな)きを上げた。

 その直後、長政の六尺の姿態は翻筋斗(もんどり)を打って宙を舞い、土面へと叩きつけられた。

「長政様っ!」

 傍らで太刀を振るっていた重松の絶叫が空に消える。

 泥を撥ね上げ、地に落ちた朱色の鎧。

 英雄の首を狙い、色めき立ったカラホムの兵たちが我先にと殺到する。

 守護神の陥落を目の当たりにした日本人たちは、信じがたいものを見たかのように絶望に包まれた。

 レックは硝煙(しょうえん)が渦巻く中、長政の(もと)へと全力で走った。

 背後を抜ける矢の風切り音も、傍で土を噴き上げる砲弾の震動も、今の彼には届かない。

 たどり着いた泥土の中に、長政は横たわっていた。
 
 顔の半分が黒土に汚れ、首元からは絶え間なく鮮血が溢れ出している。

 長政は、震える手でレックの襟元を掴み寄せた。

 喉の奥から絞り出すような声が、レックの耳を打つ。

「……奴らに見せろ。……拙者、山田長政は、まだ、死んでいないと……」

 指から力が抜け、長政の瞳から光が失われていく。
 
 背後からは、手柄を確信した敵兵の足音が、一歩、また一歩と迫っていた。
 
 レックは震える手で、主の血で生温かく濡れた、鎧の紐へと指を掛けた。


≪鎧の継承≫
 
 勢いに乗ってカラホムの軍勢が、象牙の()短剣(ダープ)を振りかざして迫ってきた。

 近衛兵たちは黒漆(くろうるし)に金箔を貼った長盾を構え、中央には三つ首の蛇の精霊(ナーガ)(がら)がうねっている。
 
 レックは膝をつき、横たわる長政の体に手をかけた。

 朱塗りの小札には、まだ熱い赤黒い血が粘りついている。

 背後で風を切る音がし、矢が一本、傍らに突き刺さった。

「軍師殿、急がれよ!」

 重松が数人の手下とともに円陣を組み、必死に敵の先鋒を食い止めている。

 だが、それも長くは持たない。

 敵兵の野太い叫び声は、すぐそこまで迫っていた。

 レックは震える指で、大鎧の紐に指をかけた。

 長政の血を吸った組紐は、焦れば焦るほど結び目が固く締まり、容易には解けない。

 レックは腰の短刀を引き抜くと革紐を力任せに断ち切った。

 引き剥がした胸当ての裏側から、鉄錆と混じり合った生々しい血臭が立ち昇る。

 鎧を纏うべく、レックは邪魔な上着を剥ぎ取った。

 その拍子に、懐から小さな「鈴」がこぼれ落ち、赤く染まった水溜まりへ沈んだ。
 
 有希(ゆき)との形見――この世界で唯一、自分が何者であるかを繋ぎ止めてきた拠り所、キティの鈴をつけたキーホルダーだ。

 レックはそれを片手に掴み取ると、朱の鎧の腰紐にねじ込み祈るように固く結びつけた。

 肌に直接、生暖かい鎧の重みがのしかかる。

「レック殿、何をしておる! 敵が押し寄せてくるぞ!」

 重松が返り血を浴びながら叫ぶ。

 レックは転がる兜を掴み、深く被った。

 面頬(めんぽお)を締めた瞬間、視界は朱に染まり、町が火の海へと変わった。

 立ち上がったレックの正面に、一人のシャム兵が躍り出た。
 
 手柄を確信し、短剣を振り上げた兵の動きが唐突に止まった。

 血みどろの中から、討ち取ったはずの「長政」が再び立ち上がったのだ。

 レックは足元に転がる長政の刀を拾い上げ、一気に振り下ろした。

 重い刀身が、易々と敵兵を切り裂いた。

 その時、自分でも聞いたことのない怒号がほとばしった。

「山田長政、ここにあり! 命の惜しくない奴は前に出ろ!」

 その一喝に敵軍が凍りついた。

 呼応するように、倒れていた富士が後肢を蹴って跳ね起きる。

 レックは白馬の鬣を掴み、その背へと飛び乗った。

 富士が荒々しく嘶き、戦場を駆けだす。

 その激しい振動に合わせ、腰の鈴がひび割れた音を立てて震え続けていた。

 一度は壊れたはずのその音色が、今は修羅の道を行く男の、唯一の伴奏のように聞こえていた。


紅蓮(ぐれん)道標(みちしるべ)
 
 富士の背で刀を掲げるレックの目に、南の避難路を塞ぐ巨大な壁が映った。
 
 カラホム軍の切り札、戦象部隊(せんぞうぶたい)である。
 
 町家や上屋を薙倒(なぎたお)しながら進む象の群れは、その先にある、ハナたちの養生所へと迫っていた。
 
 養生所では、凄まじい振動に薬瓶を鳴らしながらも、ハナが負傷者の処置を続けていた。

「ハナ様、早く逃げねば象に踏み潰されます!」

 誰かが叫んだ。

 しかし、ハナは凛とした声で遮る。

「いいえ、レック様が……長政様が、あそこで今、戦っておられます。影となって、この町を守るために。私が先に逃げるわけにはいきません!」

 ハナの細い肩は、レックが“長政の影”として立つ覚悟を、誰よりも強く感じ取っていた。
 
 その頃、レックは敵の軍勢に阻まれ、ハナたちへ近づけずにいた。

「そこを退()け! 退()かぬ奴は叩き斬る!」

 レックの怒声に呼応し、重松蔵人が左右を固め、河村権兵衛率いる騎馬武士たちが風となって敵陣を切り裂く。

「長政様に続け! 臆した者からあの世行きぞ!」

 河村の叫びとともに、馬蹄が泥を跳ね上げ、カラホムの兵たちを蹴散らしていく。

 だが、戦象の巨躯を前に、騎馬隊の進撃も限界を迎えつつあった。
 
 歯を食いしばるレックの耳に、激しい騒乱を突いて、重い車輪の軋む音が聞こえた。

 お滝だった。

 伊三郎の形見の具足を無理やり纏い、南蛮(なんばん)火薬の樽を山積みにした荷車を引いて、彼女は戦象の足元へと突き進んでいた。

「軍師殿! そのまま前だけ見てな!」

 その叫びが、火炎に拒まれ足掻くレックの耳に響いた。

 お滝の燃えたぎる眼光は、赤い鎧の中身が誰であるかをとうに察していた。

 彼女は、影武者となったレックを死なせぬ道を選んだ。

「お滝さん、戻れ! 戻ってください!」
 
 レックの声は、喉を焼く火炎と、兵たちの怒号にかき消される。

 お滝は戦象の鼻先までたどり端に、迷いなく松明を樽へと突き入れた。

「ハナ、生きて、強い女になりなよ! ……軍師殿、娘を、この町を、頼んだよ!」

 刹那、白濁の閃光が夜の闇を塗りつぶした。
 
 ――ドーン! ドォーン!
 
 凄まじい爆炎が渦を巻き、戦象の断末魔を飲み込んでいく。

 崩れ落ちる巨躯、開かれた進路。

 その光の中に、お滝の姿はもうなかった。

 衝撃波で富士が大きくしなり、レックの体は激しく揺さぶられた。

 その時、視界が歪み、景色が白くかすんだ。

「なんだ、このめまい……」

 レックは頭を振り、“長政”の(とき)の声で押し潰した。

「進め! 道は開かれた!」

 富士が火の海を蹴り、お滝が命を賭して示した空白へと突っ込む。

 腰に結んだ鈴が、爆音の余韻の中で、ひび割れた高い音を立てて震え続けていた。

 その不協和音は、散っていった者たちの魂が、彼の背を激しく押しているかのようだった。
 
 朱炎の慟哭が、燃え崩れるアユタヤ日本人町の夜を容赦なく染めていった……。



 
3.(あかつき)残照(ざんしょう)

 お滝が命を賭して引き起こした、巨大な火柱。

 その紅蓮の幕を強引に切り裂き、朱色の鎧が躍り出た。

 白馬・富士の(いなな)きが、逃げ惑う兵たちの耳を(つんざ)く。

「長政だ……。朱い悪魔が、地獄の底から這い上がってきたぞ!」

 誰かの上げた悲鳴が、さざ波のように、瞬く間に敵陣の末端まで震えさせた。

 当時のアユタヤにおいて、戦場に這い出す亡霊や悪霊の類は、目に見える刀剣よりもはるかに生々しい「霊障」そのものとして信じられていた。

 レックは刀を振るわない。

 ただ、富士の背で刀尖(きっさき)を高く天に掲げ、面頬(めんぽう)の奥から「ウォーウォー」と妖気のような低い声を絞り出した。

 正面から敵軍の真っ只中へと突っ込む。

 それだけで、最前線の兵たちは腰を抜かし、踏み留まろうとする味方を突き飛ばして逃げ惑った。

 陣形は瓦解し、カラホムの軍勢は内側から崩れ、統制を失った散兵へと成り果てていく。

 レックは、矢傷と弾傷の激痛で白く(かす)む眼で、敵の配置を視界に焼き付けていく。

「蔵人殿! 前方、敵の右、あの旗が動いている場所を叩け! 権兵衛殿は左へ! 敵の動きを止め、町民の避難の道を(ふせ)がせないことだけを考えよ!」

 その淀みのない差配は、周囲の者たちに、もはや妖魔と化した、長政の執念を見せつけていた。

 本陣でこの光景を見ていたカラホムは、屈辱(くつじょく)に震え、椅子の肘掛けを握り潰さんばかりだった。

「……理解できぬ。拙僧の謀算(はかりごと)を亡霊となってまで狂わすというのか!」

 彼は苛立ちをぶつけるように、明国の商人から献上された高価な茶器を床に叩きつけた。

「構わぬ、町を焼き尽くせ。日本人どもを一人も残さず、灰にするのだ。犠牲は厭わぬ……」

 カラホムは感情を殺した声で命じると、何事もなかったかのように、ゆったりとした歩調で王宮の奥へと消えていった。



 ハナたちがいる養生所を死守するため、レックは執拗に敵の注意を引きつけ続けた。

 だが、養生所のすぐ手前まで辿り着いたその時、一筋の鋭い風切り音が空を裂いた。

 ――ガツッ。

 戦の華々しさなど、どこにもなかった。
 
 混迷を極める乱戦の中、誰が放ったかもわからぬ一本の迷い矢が、朱塗りの鎧の中央を、深く、深く貫いた。
  
 レックの視界が、急激に白く濁り始める。
 
 富士の(たてがみ)を掴む指から力が失せ、世界が霧のかかったような(もや)の向こう側へと吸い込まれていく。
 
 富士は主人の異変を悟ったように、悲痛な嘶きを上げながら養生所の敷地へと駆け込んだ。

 レックは馬の背から滑り落ち、硬い土の上に崩れ落ちた。

 異変を察して駆け寄ったハナが、朱に染まったレックの背中を見て絶叫した。

「レック様! しっかりしてください、今すぐ手当てを、誰か!」

 彼女の手が、震えながら鎧の紐にかけられる。

 レックの呼吸は浅く、掠れていた。

 口の端から溢れる血が、土に吸い込まれていく。

「……ハナ、さん……。もう、いいんだ……。僕を、これ以上……」

「何を、何を仰るのですか! 死なせない、私がお守りすると決めたのに!」

 面頬を外したレックの顔は、死人のように青白い。

 だが、その瞳だけは、夕凪のような穏やかさでハナを見つめていた。

 彼は傷だらけの手を震わせ、腰に結びつけた「鈴」へと指を這わせた。

 血がこびりつき、戦火の煤(すす)を被りながらも、その鈴は決して砕けることなく、そこに在った。

 レックは、ハナの小さな掌を借りるように、その小さな金属を押し当てた。

 キーホルダーの金具が、微かに彼女の肌を弾く。

「未来のこと……もっと、たくさん……君に……伝えたかった……。もっと……一緒に……」

 震えるレックの指先から、熱が失われていく。

 ハナの涙が、煤と泥にまみれたレックの頬に、幾つも零れ落ちた。

「伝えてください、レック様! 未来の話を……お滝さんと、三人で……!」

 レックは、掠れた笑みを微かに浮かべた。
 
 もはや言葉は形にならなかった。
 
 レックはゆっくりと目を閉じた。
 
 かつて有希を喪ったあの日、自分はただ震えながら見送るしかなかった。
 
 四百年を越えてもなお、あの瞬間(とき)の無力さに立ちすくんでいた。

 だが今、(まぶた)の裏に浮かぶのは有希の幻影ではない。

 十七世紀のアユタヤで共に命を懸けて戦った――「ハナ」という一人の女性だ。

 有希が「生きて」と託したこの鈴を、今、彼は自分の手でハナへ託した。

 それは過去の呪縛を解き、目の前の彼女を選び取った、彼なりの終着点だった。

「……ハナ、さん……」

 最期に消え入るように、その名だけを呼んだ。

 ハナは、掌の鈴を祈るように胸にあてた。

 この鈴が鳴るたびに、彼女は思い出すだろう。

 次元の裂け目に落ち込んだ一人の青年が、愛し、守り抜いたのは、この時代を共に駆け抜けた自分だったということを。

 愛する人の温もりに包まれながら、レックは静かな闇へと溶けていった。

 昇り始めた朝の光がチャオプラヤ河の水面を眩しく照らし始めた……。