野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)

(おお)尼君(あまぎみ)たちの乗り物が宇治(うじ)(いん)に到着した。
乗り物から出るときにひどく苦しまれるので、大騒ぎになる。
容態(ようだい)が少し落ち着いたのを見届けてから、
「あの女性はどうなった」
僧都(そうづ)弟子(でし)にお尋ねになった。

「ずいぶん衰弱(すいじゃく)しております。何も申しませんし、息もかすかです。まるで妖怪(ようかい)(たましい)(うば)われた人のようで」
「何のお話ですか」
そばにいた尼君(あまぎみ)(あや)しんでお尋ねになった。
僧都は事情を説明して、
「六十年以上生きてきたが、こんなにめずらしいことは初めてだ」
とおっしゃるやいなや、尼君は涙をこぼされる。
長谷(はせ)(でら)観音(かんのん)様からお()げを受ける夢を見たのです。それに関係する人かもしれません。私にも会わせてください」
急いで尼君が病室に向かわれると、女は捨て置いたように寝かされていた。

たいそう若く美しい女で、上等な生地(きじ)の白い着物に赤い(はかま)を着けている。
着物に()きしめられたすばらしい香りから、身分の高さが感じられる。
「あぁ、やっぱり。死んでしまった姫の生まれ変わりだ」
尼君は女房(にょうぼう)たちを呼ぶと、自分の部屋へ運びこませなさる。
発見されたときの不気味(ぶきみ)な様子を見ていない人たちだから、とくに怖がりもせず運んだ。

生きているかわからないほどの様子だったけれど、さすがに女はうっすらと目を開けた。
「気づきましたか。何かおっしゃってください。あなたは誰。どうやってここまでいらしたの」
尼君が尋ねても女はぼんやりとしているから、薬湯(やくとう)を飲ませてごらんになる。
するとますます弱っていって、今にも死にそうになってしまった。
<よけいなことをしたかもしれない。どうしよう>
尼君は兄僧都の弟子のところへ行って、
「死んでしまいそうなのです。どうかお祈りをしてください」
とお願いなさる。

「もう手遅れでしょう。中途(ちゅうと)半端(はんぱ)看病(かんびょう)などなさらない方がよかったのに」
弟子はそう言いながらもお祈りを始めた。
僧都も様子を見にいらっしゃった。
「どんな具合だ。何が()りついているのか、よく()らしめて問いただせ」
とおっしゃるけれど、もはやそんな容態(ようだい)ではない。

弟子たちは集まって相談する。
「まもなく死ぬだろう。よく分からない死人が出たことで、私たちはしばらくこの院に(こも)らなければならなくなるぞ。面倒だな」
「しかも身分の高そうな人だ。死んだら僧都様は丁寧に(とむら)おうとなさるはず。厄介(やっかい)なことになった」

死ぬことばかり話すので、尼君はむっとなさる。
「静かにしてください。私ができるかぎりの看病をします。この女性のことは誰にも言ってはいけませんよ。きっとご身分の高い人ですから、(うわさ)になったらお名前に傷がつきます」
(おお)尼君(あまぎみ)の看病は放り出して、この女に付ききりになってしまわれる。

顔立ちがとても美しい病人なので、尼君は死なせてなるものかと世話をなさる。
女はときどき目を開けて、涙を流す。
「弱気になってはいけませんよ。長谷(はせ)(でら)観音(かんのん)様が、死んだ娘の代わりにあなたを私に(さず)けてくださったのです。あなたまで死んでしまったら、私は娘を二度亡くすことになります。せっかく観音様のお(みちび)きで出会えたのですから、さぁ、何か少しでもおっしゃって」
必死に話しかけなさるけれど、女は弱々しい声で言った。

「私など生きていない方がよいのです。夜になったら、人目(ひとめ)()けて近くの川へ投げこんでください」
「めずらしく何かおっしゃってうれしいと思えば、なんと恐ろしいことを。どうしてそんなことをおっしゃるのです。川というのはどういうことですか。ここは宇治(うじ)(いん)ですよ。どうやってここまでいらしたの」
なんとか女の素性(すじょう)を聞き出そうとなさるけれど、女はもう(だま)ってしまった。

<もしかしたら、どこか怪我(けが)をしているのでは>
尼君は女の体をご覧になる。
とくに痛そうなところはなく美しい。
それなのにどうして生きようとしないのかと、情けなくてお悲しい。
妖怪(ようかい)が美しい娘に()けて、私の心をもてあそんでいるのかもしれない>
とさえ(うたが)ってしまわれる。