野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)

(かおる)(きみ)は私のことをお忘れになっていないのだ>
浮舟(うきふね)(きみ)は感動しながらも、やはり母君(ははぎみ)のことが気にかかる。
生きていることをお知らせしても、尼姿(あますがた)をお見せしたら、かえって悲しませてしまうかもしれない。

尼君(あまぎみ)女房(にょうぼう)たちと、紀伊()(かみ)に頼まれた着物を()っていらっしゃる。
自分の一周忌(いっしゅうき)のお(そな)(もの)だと思うと、変な感じがする。
「この作業を手伝ってくださいませんか。あなたはとても上手になさるから」
尼君から仕立て途中の着物を渡されたけれど、浮舟の君は心がざわつく。
「気分が悪くて」
とお断りすると、尼君はあわてて体調をお尋ねになった。

浮舟の君が横になっている間に、春らしい明るい色の着物ができあがった。
姫君(ひめぎみ)にはこういうものを着ていただきたかったのに。悲しい墨色(すみいろ)のお着物なんて」
と言う女房もいる。
「ひさしぶりに華やかな着物を手に取って、昔を思い出すのもよいかもしれない」
浮舟の君はふと思ったことを紙に書いて、もし自分の素性(すじょう)が尼君に知られてしまったらと心配する。

<私が死んだ後、何もかもお聞きになったらどうしよう。(かく)(ごと)などできない世の中だもの。『一周忌の話まで聞いていたくせに、よくも知らん顔でいたものだ』とあきれてしまわれるだろう>
と思うけれど、やはり正直に打ち明ける気にはなれない。
「昔のことは忘れてしまいましたが、こうやって着物を仕立てているところを見ると、なんとなく(なつ)かしいような気がいたします」
おっとりとそれだけ言った。

「そうおっしゃっても、いくつか思い出されたことはあるでしょう。いつまでも気を許してくださらないのが悲しい。ここは尼ばかりですから、こういう華やかな色の着物を作るのはひさしぶりなのですよ。すっかり(かん)(にぶ)っていて、娘が生きていたらと思ってしまいます。
あなたのこともそう思っている人がいらっしゃるのではありませんか。私の場合は目の前で娘を亡くしたけれど、それでもこの世のどこかにいるような気がして、探し出したいと思うのです。ましてあなたのご両親は娘が行方(ゆくえ)不明(ふめい)になったのですから、心配なさっているでしょう」

「母君はいたのですが、私が姿を消した後、もしかしたら亡くなってしまわれたかもしれません」
涙が落ちるのをさりげなく隠して、
「思い出すたびにかえってつらくなるのです。それで何も申し上げられません。けっして気を許していないわけではないのです」
とだけ言う。