野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)

新年になった。
山里(やまざと)にはまだ春らしさが見えず、川は(こお)ったままだから川音もしない。
静まりきった空気が心細い。
浮舟(うきふね)(きみ)はふと匂宮(におうのみや)様のことを思い出す。
<まだ宇治(うじ)山荘(さんそう)にいたころ、(みや)様が川向こうの(かく)()に私をお連れになった。あれも雪の日だった。『どれほど(けわ)しい雪道でも()(まど)ったりはしない。あなたの魅力(みりょく)には(まど)わされているけれど』なんて甘いことをおっしゃったのだ>
宮様のことはすっかり嫌になってしまったけれど、あのときの思い出は胸にある。

筆を取って、
「ふりしきる雪を見ると昔のことを思い出して悲しい」
と書いた。
修行(しゅぎょう)合間(あいま)に、こうして思ったことを書きためていく。
<私が山荘から姿を消したことを、『もう去年の出来事になってしまった』と思い出してくれている人もいるだろう>
母君(ははぎみ)乳母(めのと)女房(にょうぼう)たちの顔を思い浮かべる。

地元の人が縁起(えんぎ)(もの)若菜(わかな)を届けてくれた。
雪の間から()えてきた若菜は生命力の象徴(しょうちょう)で、本格的な春が近づく合図でもある。
「尼姿におなりになったとはいえ、やはりあなたのご将来を期待してしまいます」
という言葉を()えて、尼君(あまぎみ)は若菜を浮舟の君におあげになった。

「今年からは私が尼君のために若菜を()みましょう。どうか長生きしてくださいませ」
浮舟の君のお返事を聞いて、
<もう私だけが頼りだと思っていらっしゃるのだろう>
と尼君は同情なさる。
<ふつうの姿で私を頼ってくださっていたら、いくらでもご結婚のお世話をしたのに>
つくづく悲しくてお泣きになった。

お庭の紅梅(こうばい)が咲いた。
色も香りも昔見たものと変わらないから、
<こうしていると昔に戻ったような気がするけれど>
と浮舟の君はぼんやり(なが)める。
他の花でも同じはずなのに、とくに紅梅に心が()かれるのは、匂宮様のお(そで)の香りを思い出すのでしょうね。

仏様に水をお(そな)えさせたついでに、女房に命じて紅梅を一枝(ひとえだ)折らせる。
梅は文句を言うように少し()って、華やかに香りを(ただよ)わせた。
「まるで宮様のお袖の香りがしみこんだような花だこと。宮様のお姿は見えないけれど」
と、これも紙に書いておく。