野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)

それから僧都(そうづ)は、(おんな)(いち)(みや)様に()りついていた妖怪(ようかい)がしつこかったことや、正体を名乗るのが恐ろしかったことなどをお話しなさった。
そのついでにふとおっしゃる。
「そういえば半年ほど前の春、めずらしいことがございました。私の老母(ろうぼ)長谷(はせ)(でら)参りの帰りに体調を(くず)しまして、私は宇治(うじ)まで迎えにまいったのです。近くの泊まれそうなところといえば宇治(うじ)(いん)ですが、ああいう大きな()()は妖怪が()みつきがちですから、母が重病なのに困ったなと思っておりましたところ、(あん)(じょう)
と、浮舟(うきふね)(きみ)を見つけたときのことをお聞かせなさった。

「まぁ、本当にめずらしいことですね」
中宮(ちゅうぐう)様は恐ろしくなってしまわれる。
ご病室近くに残っていた女房(にょうぼう)にお命じになって、他の女房たちを起こしにいかせなさった。
(かおる)(きみ)がひそかにかわいがっていらっしゃる小宰相(こざいしょう)(きみ)は、最初から中宮様のおそばでこのお話を聞いていたわ。

中宮様をおびえさせてしまったことを僧都は反省なさる。
宇治の院での出来事はそれ以上お話しせず、先日のことに話題を(てん)じられた。
参内(さんだい)するために山を下り、(ふもと)の母の家に立ち寄りますと、その若い女性は今も妹が世話をしておりました。尼になりたいと申しますから、急なことですが私が出家の儀式をしてあげたのです。妹はちょうど留守でしたが、亡き娘の代わりとしてその人をかわいがっていましたから、妹の女房たちに私はずいぶん(うら)まれてしまいました。
たしかに、妹が夢中になるのも仕方ないほど気品があって美しい人なのです。尼にするのは()しいほどでした。いったいどこのどなたなのか、いまだに分からないのが不思議でございます」

「妖怪が若い女性を宇治の院に連れていったということですか。どうしてそんなことになったのでしょう。妹君(いもうとぎみ)は何か聞いていらっしゃるのでは」
小宰相の君が尋ねる。
「どうでしょうか。聞いているのかもしれません。高いご身分の姫君(ひめぎみ)ならとっくに(うわさ)になっているはずですから、田舎(いなか)の家の娘だろうと存じますが。田舎(いなか)(もの)のなかにも、まれに品よく育つ娘はおります。よほど前世(ぜんせ)(とく)を積んだのでしょうな」
何も知らない僧都はあっけらかんと答えなさった。

<半年前の宇治ということは、ひょっとしたら(かおる)(きみ)が亡くされた恋人かもしれない>
と中宮様は思いつかれる。
小宰相の君も同じことを思っていたけれど、絶対にそうだとは言い切れない。
「自分が生きていることを世間に知られたくないと思っているようです。何かよくない事情があるのかもしれません」
僧都はぼんやりとした説明だけで話を終わらせなさった。

「僧都が話していた若い女性というのは、きっと薫の君の恋人だろう。亡くなっていなかったのだ。薫の君に知らせたい」
中宮様はこっそりと小宰相の君に相談なさる。
とはいえ、姫君のためにも薫の君のためにも、軽率(けいそつ)なことはおできにならない。
薫の君は(おく)ゆかしく落ち着いたお人柄(ひとがら)だから、はっきりとしない噂話(うわさばなし)を伝えることは気が引けてしまわれる。
結局、何もお知らせなさらないまま月日が()っていった。