野いちご源氏物語 五三 手習(てならい)

小野(おの)の家の近くにも川が流れている。
ここの川音は(おだ)やかで、山の(ふもと)の景色も風情(ふぜい)がある。
庭は品よく作って手入れされていた。
秋に入ると空も美しく、下働きの女たちは地元の人のまねをして(いね)()りの歌を歌う。
実った米を食べにくる小鳥を追い払おうと、板を鳴らす音が聞こえる。
浮舟(うきふね)(きみ)はかつて住んでいた東国(とうごく)のことを思い出す。

小野には貴族の別荘(べっそう)がいくつかあるけれど、この家はもう少し奥まったところに建てられている。
比叡(ひえい)(ざん)への(のぼ)(ぐち)のあたりで、松で日陰(ひかげ)になりやすく、秋は風の音も心細く(ひび)く。
(おお)尼君(あまぎみ)尼君(あまぎみ)は毎日お(きょう)を読んで、()わり()えのしない静かな暮らしをなさっていた。

月が明かるい夜には、尼君が(きん)を、尼姿(あますがた)女房(にょうぼう)琵琶(びわ)を弾いた。
「あなたもお弾きになりますか。退屈(たいくつ)でしょう」
と尼君は(さそ)うけれど、浮舟の君は首をふる。
<子どもの頃から田舎(いなか)暮らしで、こういう優雅な趣味も知らずに成長してしまった>
すっかり年老いた尼君たちなのに、ほんの(ひま)つぶしとはいえ、なかなか楽しそうに楽器を弾いていらっしゃる。
その姿を見ると、浮舟の君は育った境遇(きょうぐう)の違いを感じて悲しくなった。

<川に()()げするつもりが、どうして生きながらえてしまったのだろう>
思いどおりにならなかったことがつらい。
将来も見えないのだから、自分の生命力がうっとうしくなってしまう。

尼君たちは月を()でながら、優雅に和歌を()んだり、昔話をしたりなさる。
浮舟の君は口を(はさ)めなくて、ぼんやりと物思いにふけっていた。
<私がこんなふうに生きていることを、誰も知らないだろう。母君(ははぎみ)はどれほどうろたえなさっていることか。私の将来を期待してくれていた乳母(めのと)にも申し訳ないことをしてしまった。今はどこでどうしているだろう。右近(うこん)(なつ)かしい。まるで姉妹のように仲良くしていたのに>
自殺を決意したときには恋しく思う人がたくさんいたけれど、今はそれほど多くの人を思い出さない。

この家にお(つか)えしているのは、尼姿の年老いた女房が七、八人。
人手(ひとで)が必要なときは、その(あま)たちの娘や孫娘が手伝いにくる。
いつもは都で暮らしている人たちだから、浮舟の君は自分の存在に気づかれないよう気をつける。
尼君はこの様子を見て、よほど厄介(やっかい)な事情がある人なのだろうと想像なさる。
女君(おんなぎみ)についての詳しいことは女房たちにもお話しにならない。