
女は水筒を取り上げると、何も言わずにくるりと背を向けた。
そして数歩進んでから振り返り、タイ語で呟いて手のひらを小さく動かした。
――ついて来なさい。
その仕草だけで、意味は分かった。
相沢と中村軍曹は顔を見合わせる。
罠かもしれない―。
だが、このまま闇の中に立ち尽くしていれば、体力は持たない。
犬の吠え声も、いつまでも続くだろう。
彼女は家の裏手へ回り込み、納屋の前で止まり軒先を指差す。
そこには竹で組んだ簡素な床があり、古いござが一枚敷かれていた。
雨を避けるには十分な場所だ。
彼女は二人の顔を順に見て、軽くうなずいた。
――ここで休みなさい。
言葉はないが、その意図ははっきりしていた。
相沢が小銃を肩から下ろし、竹床に腰を落とす。
瞬間、全身の力が抜けた。
骨の中まで湿気が染み込んでいるようだった。
中村軍曹はまだ立ったまま、周囲を警戒している。
だがやがて諦めたように息を吐き、相沢の隣に座り込んだ。
彼女はそれを確認すると、納屋の横の木戸を開けて中に入り、振り返ることなく扉を閉めた。
バタン―乾いた音が夜に響く。
それきり、出てこなかった。
静寂が戻る。
遠くで虫が鳴いている。時折、ドリアンの実がどさりと落ちる鈍い音がした。
相沢はござの上に仰向けになった。
星が見えた。南の空は低く、見慣れない星座が滲んでいる。
「……助かったぁ」思わず呟く。
だが中村軍曹はすぐに答えなかった。
長い沈黙のあと、低い声が返ってくる。
「助けられたと思うな」
相沢は顔を向けた。
「ここはな、日本街道の村だ。あの娘の親も、祖父も、あの道で働かされたはずだ」
闇の向こうに、昼間見た赤土の道が浮かぶ。
朽ちた丸太。錆びた薬莢。
胸の奥がざらついた。
強烈に腹が鳴る。
今まで何度も鳴ってきたが、これは違う。
体の内側から何かが崩れ落ちていくような感覚だった。
視線が自然と納屋の隙間へ向かう。
暗闇の中に、ぼんやりと白い袋の形が見えた。
米だ。
その手前で、鶏が羽を震わせている。
相沢はゆっくりと起き上がった。
「どこへ行く?」
軍曹の声が背中に刺さる。
「……小便であります」
自分でも驚くほど平静な声だった。
竹床を降りる。
赤土が冷たい。
納屋の壁に手をつくと、木がしっとりと汗ばんでいた。
――生きるためだ。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
そっと扉に触れる。鍵はかかっていない。
遠くで、再びドリアンの実が落ちた……。



