天気……今日は小春日和のよい天気に恵まれて、とても気持ちがよかった。日が暮れて、夜のとばりが降りてからも、空は澄んでいて、満天の星が、きらきらと輝いていた。
ぼくと老いらくさんは、能力開発研究所を出たあと、夜陰に紛れるようにして、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとから、ついていった。桜木横丁を出たところで、安琪儿と安琪儿のお母さんはタクシーを拾って帰っていった。
「これから、どうしようか」
老いらくさんが聞いた。
「安琪儿のうちへ行ってみようと思います」
ぼくはそう答えた。
「そうだな。知恵入りスープを飲んだり、鍼(はり)治療を受けた安琪儿に、何か変化が生じるのか、わしはとても興味がある」
老いらくさんがそう言った。
「ぼくも同じです」
ぼくはそう答えた。
「安琪儿のうちは知っているから、慌てないで、ゆっくり行きましょうよ」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「そうだな。走るのは疲れるから、ゆっくり歩いていこう」
老いらくさんがそう言った。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく、星月夜のもとを、人や車に気をつけながら通りを幾つか渡って、安琪儿のうちがあるほうへ向かっていた。
「安琪儿が、これまでと変わることを、お前は望んでいるのか、それとも望んでいないのか。おまえの率直な気持ちを聞かせてくれないか」
歩きながら、老いらくさんがぼくに聞いた。
「安琪儿はとても純真で、天使のように無垢な女の子です。賢くなっても、そのような性格だけは永遠に変わらないでほしいと、ぼくは思っています」
ぼくは老いらくさんに、そう答えた。
「そうだな。わしもそう思っている」
老いらくさんがそう答えた。
「安琪儿がもし性格までも変わってしまったとしたら、ぼくは落胆すると思います」
ぼくがそう言うと、老いらくさんが
「わしも同じだ」
と言った。
「安琪儿は今のままでいいのに、安琪儿のお母さんは見栄を張るところがあるから、安琪儿をいつも、ほかの優秀な子どもと比べています。みんな違って、みんないいと、ぼくは思っています。でも安琪儿のお母さんは、いつも自分が正しいと思っていて、なかなか、ほかの人と妥協しません。安琪儿とも意見が合わないことが多くて、そのために安琪儿が辛い思いをしています」
ぼくはそう言いながら、杜真子のことが、ふっと頭に思い浮かんだ。杜真子も安琪儿と同じように、お母さんと考え方に違いがあって、辛い思いをしていたからだ。安琪儿のお母さんも杜真子のお母さんも、一番身近で、一番長く、子どもたちと接しているのに、子どもたちのことをよく分かっていない。分かっていても、自分の気持ちを押しつけて子どもの立場になって考えようとはしない。安琪儿のお母さんも杜真子のお母さんも『子どもたちを誰よりも愛しているからそうするのだ』と言っているが、実際には自分の欲望を満たすために、そう言っているようにしかぼくには思えなかった。
そんなことを思いながら、ぼくと老いらくさんは安琪儿のうちがある集合アパートの前まで行った。安琪儿のうちの電気がついているのが見えた。馬小跳のうちの電気もついていた。ぼくと老いらくさんは、外壁を伝わって、上に登っていって、安琪儿のうちのベランダまでいった。ベランダから家の中をそっとのぞくと、居間で安琪儿が、お父さんやお母さんといっしょにテレビを見ているのが見えた。面白い番組があっていたのか、みんな楽しそうに見ていた。
しばらくしてから、お父さんが席を立って、玄関のほうへ行った。誰かが来たようだった。
(こんな遅い時間に誰が来たのだろう?)
ぼくはそう思いながら見ていた。
玄関の前に立っていたのは馬小跳だった。
「おじさん、こんにちは。安琪儿はいますか。安琪儿が今日、国語の教科書を学校に忘れて帰ったので、担任の秦先生から頼まれて持ってきました」
馬小跳がそう言った。
「そうだったか、どうも、ありがとう」
安琪儿のお父さんが馬小跳にお礼を述べていた。そのあと安琪儿のお母さんと安琪儿も玄関に出てきた。
「まったく、お前は、そそっかしいのだから」
安琪儿のお母さんが安琪儿に小言を言っていた。安琪儿のお母さんは馬小跳のことが好きではないので、馬小跳と視線を合わせないで、おうへいな目で斜めに見ていた。とても感じが悪かったし、「ありがとう」とも言わないで、突っ立っていた。安琪儿は馬小跳に丁重にお礼を言ってから、国語の教科書を受け取っていた。
馬小跳が帰ろうとすると
「ちょっと待って」
と言って、安琪儿が馬小跳を呼びとめていた。
「何だよ。また宿題を手伝ってもらいたいのか?」
馬小跳が不機嫌そうな顔をしながら、そう言った。
「ううん、違うわ」
安琪儿はそう言って、首を横に振った。
「だったら、何なのだ?」
馬小跳が、けげんそうな顔をして聞き返していた。
「今日の放課後、わたしは、どこへ行っていたと思う?」
安琪儿が馬小跳に聞いていた。
「そんなこと、知るわけがないだろう」
馬小跳が仏頂面をしながら、そう言った。
「桜木横丁へ行って、その中にある能力開発研究所というところへ行って、知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺していたわ」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが、慌てたようすで
「安琪儿、だまりなさい。どうして、あなたは、そんなに口が軽いのよ」
と言って、冠を曲げていた。安琪儿のお母さんは安琪儿の話を断ち切ろうとしていた。しかし馬小跳は、知恵入りスープを飲んだとか、頭に鍼(はり)を刺したという安琪儿の話を聞いて、興味を覚えて、どうしても聞きたいという気持ちを抑えきれないでいた。
「かまわないから、安琪儿、おれに話してくれないか」
馬小跳が安琪儿にそう言った。
「だめです。話してはいけません」
安琪儿のお母さんが、きつい顔をしながら、安琪儿を戒めていた。安琪儿はどうしたらよいか分からないで戸惑っていた。
その時、安琪儿のお父さんが
「その話は、お父さんにもまだしていないではないか。夫婦や親子の間で隠し事をするのは不愉快だ。安琪儿、早く話しなさい」
と言った。それを聞いて、お母さんが口をはさんだ。
「だめです。話してはいけません。安琪儿の頭がよくなって、お父さんや、クラスの子をびっくりさせることが、わたしの願いですから」
お母さんがそう言った。
安琪儿は、お母さんとお父さんの顔を交互に見ながら、話したらよいのか、話さないほうがよいのか、決めかねていた。
「早く話しなさい」
お父さんが声を荒らげながら、そう言ったので、安琪儿は、お母さんの顔色を気にしながら、ぽつぽつと話し始めた。
「今日の午後、学校が終わったあと、お母さんがわたしを迎えにきて、いっしょに桜木横丁へ行ったの」
安琪儿がそう言った。
「何をしに行ったのだ?」
お父さんがけげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「桜が咲いているという話を聞いたので、花見に行ったの。昨日も行ったわ」
安琪儿がそう答えた。それを聞いて、お父さんが
「馬鹿なことを言うものではない。今の時季に桜が咲くわけがないではないか」
と言って、不愉快そうな顔をしていた。
「昨日も行ったのなら、どうして、昨日、お父さんに話さなかったのか」
お父さんが、むっとした顔をして、畳みかけていた。
「お母さんがわたしに、『話しても信じてもらえないだろうから話さないで』と言ったから……」
安琪儿がお父さんにそう答えていた。
「……」
お父さんは返答に窮していた。そのあと一瞬、間を置いてから、お父さんが
「さっき、馬小跳に知恵入りスープを飲んだとか、頭に鍼(はり)を刺したという話をしていたが、それは一体、何なのだ?」
と聞いた。
「桜木横丁の中に、白い二階建ての建物があって、その前に、子ども連れの人たちがいっぱい並んでいた。(何だろう)と思って、並んでいる人に聞いたら、『子どもの頭をよくするところだ』と言った。お母さんがそれを聞いて、興味を示して、わたしに検査や治療を受けさせてくれた。頭をよくするためと言って、その建物の中で、知恵入りスープを飲ませてくれたり、頭に鍼(はり)を刺してくれた」
安琪儿がそう言った。それを聞いて安琪儿のお父さんが怖い顔をして、お母さんをにらみながら
「ふん、何て馬鹿なことを、おまえは安琪儿にさせたのだ。そんなことをして効果があると思っているのか」
と言って憤慨していた。
「そんなに、わたしを怒らないでくださいよ。安琪儿は、わたしが四十歳のときに産んだ子どもだから、それが原因で知能の発達が、ほかの子よりも遅れているのではないかと思って、あなたにも、この子にも申し訳なかったから治療を受けさせただけです。それのどこがよくなかったのでしょうか」
安琪儿のお母さんは、そう言ってから、目に涙を浮かべていた。それを見て、安琪儿のお父さんが
「分かった、分かった。分かったから、もう泣くなよ」
と、ぶっきらぼうに答えていた。安琪儿のお母さんは涙をハンカチで拭きながら
「安琪儿は今日初めて、知恵入りスープを飲んだり、鍼(はり)を刺しました。でも効果はすぐに現れました」
安琪儿のお母さんは、うれしそうな顔をしながら、そう言った。
「そんなことがあるのか」
お父さんが、いぶかしそうな顔をしながら、安琪儿を、じろじろと見ていた。
「別段、変わったところは見受けられないがなあ……」
お父さんがそう言った。
「外から見た変化ではなくて、頭の中が変わりました」
お母さんがそう答えていた。
「頭の中か。頭の中がどのように変わったのか?」
お父さんが聞き返していた。
「賢くなりました。大人でも知らないことに答えることができるようになりました」
お母さんがそう答えていた。
「そうか。具体的に、どんなことに答えることができるようになったのか」
お父さんが聞いていた。
「お父さんは、ハリネズミには針がどれくらいあるか知っていますか」
お母さんが聞いていた。お父さんは一瞬、考えてから
「分からない。見当もつかない」
と答えていた。
「わたしも知りませんでした。ところが安琪儿は知っていました。鍼(はり)を頭に刺したあと、治療師に答えていましたから」
お母さんが誇らしそうに、そう言っていた。
「安琪儿、お父さんにも教えてあげなさいよ」
お母さんが安琪儿に促していた。安琪儿はにっこりとうなずいてから
「ハリネズミには多くて一万七千本、少なくても一万六千本の針があるわ」
と答えていた。
「ほらね。よく知っているでしょう。大学院まで出ているあなたが知らなかったことを、うちの安琪儿は知っていたのよ。これも知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺したおかげだと思うわ」
お母さんがそう言った。
「……」
お父さんは答に詰まっていた。
安琪儿のお母さんとお父さんの会話を、玄関の前で聞いていた馬小跳が、口をはさんだ。
「安琪儿がハリネズミの針の数を知っていたのは、知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺したからではないと、ぼくは思います。この前、ぼくのうちで、いっしょに『動物世界』というテレビ番組を見ていたとき、たまたまハリネズミの特集をやっていて、その番組の中でハリネズミの針の数を話していたので、安琪儿はそれを覚えていたのだと思います」
馬小跳がそう答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんが、馬小跳の顔をじろりと見てから
「ふん、いいかげんなことを言わないでよ。うちの安琪儿が知っていたのは、治療の効果がてきめんに現れたからよ」
安琪儿のお母さんがそう言い張っていた。
「馬小跳、今に見ていなさい。あと十五日、いや、あと十四日すれば、うちの安琪儿は秀才になるから」
お母さんは興奮した顔でそう言った。馬小跳はそれを聞いて、意味がよく分からないでいた。
「安琪儿、どういう意味なのだ?」
馬小跳が安琪儿に聞いていた。
「お母さんは、わたしを半月の治療コースに申し込んだの。今日で一日治療が終わったから、あと残るのは二週間ということ」
安琪儿がそう答えていた。
「分かった。そういうことか」
馬小跳は納得がいったような顔をしていた。馬小跳はそれからまもなく、うちへ帰っていった。ぼくと老いらくさんも、そのあと安琪儿のうちを出て翠湖公園へ帰っていった。
ぼくと老いらくさんは、能力開発研究所を出たあと、夜陰に紛れるようにして、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとから、ついていった。桜木横丁を出たところで、安琪儿と安琪儿のお母さんはタクシーを拾って帰っていった。
「これから、どうしようか」
老いらくさんが聞いた。
「安琪儿のうちへ行ってみようと思います」
ぼくはそう答えた。
「そうだな。知恵入りスープを飲んだり、鍼(はり)治療を受けた安琪儿に、何か変化が生じるのか、わしはとても興味がある」
老いらくさんがそう言った。
「ぼくも同じです」
ぼくはそう答えた。
「安琪儿のうちは知っているから、慌てないで、ゆっくり行きましょうよ」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「そうだな。走るのは疲れるから、ゆっくり歩いていこう」
老いらくさんがそう言った。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく、星月夜のもとを、人や車に気をつけながら通りを幾つか渡って、安琪儿のうちがあるほうへ向かっていた。
「安琪儿が、これまでと変わることを、お前は望んでいるのか、それとも望んでいないのか。おまえの率直な気持ちを聞かせてくれないか」
歩きながら、老いらくさんがぼくに聞いた。
「安琪儿はとても純真で、天使のように無垢な女の子です。賢くなっても、そのような性格だけは永遠に変わらないでほしいと、ぼくは思っています」
ぼくは老いらくさんに、そう答えた。
「そうだな。わしもそう思っている」
老いらくさんがそう答えた。
「安琪儿がもし性格までも変わってしまったとしたら、ぼくは落胆すると思います」
ぼくがそう言うと、老いらくさんが
「わしも同じだ」
と言った。
「安琪儿は今のままでいいのに、安琪儿のお母さんは見栄を張るところがあるから、安琪儿をいつも、ほかの優秀な子どもと比べています。みんな違って、みんないいと、ぼくは思っています。でも安琪儿のお母さんは、いつも自分が正しいと思っていて、なかなか、ほかの人と妥協しません。安琪儿とも意見が合わないことが多くて、そのために安琪儿が辛い思いをしています」
ぼくはそう言いながら、杜真子のことが、ふっと頭に思い浮かんだ。杜真子も安琪儿と同じように、お母さんと考え方に違いがあって、辛い思いをしていたからだ。安琪儿のお母さんも杜真子のお母さんも、一番身近で、一番長く、子どもたちと接しているのに、子どもたちのことをよく分かっていない。分かっていても、自分の気持ちを押しつけて子どもの立場になって考えようとはしない。安琪儿のお母さんも杜真子のお母さんも『子どもたちを誰よりも愛しているからそうするのだ』と言っているが、実際には自分の欲望を満たすために、そう言っているようにしかぼくには思えなかった。
そんなことを思いながら、ぼくと老いらくさんは安琪儿のうちがある集合アパートの前まで行った。安琪儿のうちの電気がついているのが見えた。馬小跳のうちの電気もついていた。ぼくと老いらくさんは、外壁を伝わって、上に登っていって、安琪儿のうちのベランダまでいった。ベランダから家の中をそっとのぞくと、居間で安琪儿が、お父さんやお母さんといっしょにテレビを見ているのが見えた。面白い番組があっていたのか、みんな楽しそうに見ていた。
しばらくしてから、お父さんが席を立って、玄関のほうへ行った。誰かが来たようだった。
(こんな遅い時間に誰が来たのだろう?)
ぼくはそう思いながら見ていた。
玄関の前に立っていたのは馬小跳だった。
「おじさん、こんにちは。安琪儿はいますか。安琪儿が今日、国語の教科書を学校に忘れて帰ったので、担任の秦先生から頼まれて持ってきました」
馬小跳がそう言った。
「そうだったか、どうも、ありがとう」
安琪儿のお父さんが馬小跳にお礼を述べていた。そのあと安琪儿のお母さんと安琪儿も玄関に出てきた。
「まったく、お前は、そそっかしいのだから」
安琪儿のお母さんが安琪儿に小言を言っていた。安琪儿のお母さんは馬小跳のことが好きではないので、馬小跳と視線を合わせないで、おうへいな目で斜めに見ていた。とても感じが悪かったし、「ありがとう」とも言わないで、突っ立っていた。安琪儿は馬小跳に丁重にお礼を言ってから、国語の教科書を受け取っていた。
馬小跳が帰ろうとすると
「ちょっと待って」
と言って、安琪儿が馬小跳を呼びとめていた。
「何だよ。また宿題を手伝ってもらいたいのか?」
馬小跳が不機嫌そうな顔をしながら、そう言った。
「ううん、違うわ」
安琪儿はそう言って、首を横に振った。
「だったら、何なのだ?」
馬小跳が、けげんそうな顔をして聞き返していた。
「今日の放課後、わたしは、どこへ行っていたと思う?」
安琪儿が馬小跳に聞いていた。
「そんなこと、知るわけがないだろう」
馬小跳が仏頂面をしながら、そう言った。
「桜木横丁へ行って、その中にある能力開発研究所というところへ行って、知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺していたわ」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが、慌てたようすで
「安琪儿、だまりなさい。どうして、あなたは、そんなに口が軽いのよ」
と言って、冠を曲げていた。安琪儿のお母さんは安琪儿の話を断ち切ろうとしていた。しかし馬小跳は、知恵入りスープを飲んだとか、頭に鍼(はり)を刺したという安琪儿の話を聞いて、興味を覚えて、どうしても聞きたいという気持ちを抑えきれないでいた。
「かまわないから、安琪儿、おれに話してくれないか」
馬小跳が安琪儿にそう言った。
「だめです。話してはいけません」
安琪儿のお母さんが、きつい顔をしながら、安琪儿を戒めていた。安琪儿はどうしたらよいか分からないで戸惑っていた。
その時、安琪儿のお父さんが
「その話は、お父さんにもまだしていないではないか。夫婦や親子の間で隠し事をするのは不愉快だ。安琪儿、早く話しなさい」
と言った。それを聞いて、お母さんが口をはさんだ。
「だめです。話してはいけません。安琪儿の頭がよくなって、お父さんや、クラスの子をびっくりさせることが、わたしの願いですから」
お母さんがそう言った。
安琪儿は、お母さんとお父さんの顔を交互に見ながら、話したらよいのか、話さないほうがよいのか、決めかねていた。
「早く話しなさい」
お父さんが声を荒らげながら、そう言ったので、安琪儿は、お母さんの顔色を気にしながら、ぽつぽつと話し始めた。
「今日の午後、学校が終わったあと、お母さんがわたしを迎えにきて、いっしょに桜木横丁へ行ったの」
安琪儿がそう言った。
「何をしに行ったのだ?」
お父さんがけげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「桜が咲いているという話を聞いたので、花見に行ったの。昨日も行ったわ」
安琪儿がそう答えた。それを聞いて、お父さんが
「馬鹿なことを言うものではない。今の時季に桜が咲くわけがないではないか」
と言って、不愉快そうな顔をしていた。
「昨日も行ったのなら、どうして、昨日、お父さんに話さなかったのか」
お父さんが、むっとした顔をして、畳みかけていた。
「お母さんがわたしに、『話しても信じてもらえないだろうから話さないで』と言ったから……」
安琪儿がお父さんにそう答えていた。
「……」
お父さんは返答に窮していた。そのあと一瞬、間を置いてから、お父さんが
「さっき、馬小跳に知恵入りスープを飲んだとか、頭に鍼(はり)を刺したという話をしていたが、それは一体、何なのだ?」
と聞いた。
「桜木横丁の中に、白い二階建ての建物があって、その前に、子ども連れの人たちがいっぱい並んでいた。(何だろう)と思って、並んでいる人に聞いたら、『子どもの頭をよくするところだ』と言った。お母さんがそれを聞いて、興味を示して、わたしに検査や治療を受けさせてくれた。頭をよくするためと言って、その建物の中で、知恵入りスープを飲ませてくれたり、頭に鍼(はり)を刺してくれた」
安琪儿がそう言った。それを聞いて安琪儿のお父さんが怖い顔をして、お母さんをにらみながら
「ふん、何て馬鹿なことを、おまえは安琪儿にさせたのだ。そんなことをして効果があると思っているのか」
と言って憤慨していた。
「そんなに、わたしを怒らないでくださいよ。安琪儿は、わたしが四十歳のときに産んだ子どもだから、それが原因で知能の発達が、ほかの子よりも遅れているのではないかと思って、あなたにも、この子にも申し訳なかったから治療を受けさせただけです。それのどこがよくなかったのでしょうか」
安琪儿のお母さんは、そう言ってから、目に涙を浮かべていた。それを見て、安琪儿のお父さんが
「分かった、分かった。分かったから、もう泣くなよ」
と、ぶっきらぼうに答えていた。安琪儿のお母さんは涙をハンカチで拭きながら
「安琪儿は今日初めて、知恵入りスープを飲んだり、鍼(はり)を刺しました。でも効果はすぐに現れました」
安琪儿のお母さんは、うれしそうな顔をしながら、そう言った。
「そんなことがあるのか」
お父さんが、いぶかしそうな顔をしながら、安琪儿を、じろじろと見ていた。
「別段、変わったところは見受けられないがなあ……」
お父さんがそう言った。
「外から見た変化ではなくて、頭の中が変わりました」
お母さんがそう答えていた。
「頭の中か。頭の中がどのように変わったのか?」
お父さんが聞き返していた。
「賢くなりました。大人でも知らないことに答えることができるようになりました」
お母さんがそう答えていた。
「そうか。具体的に、どんなことに答えることができるようになったのか」
お父さんが聞いていた。
「お父さんは、ハリネズミには針がどれくらいあるか知っていますか」
お母さんが聞いていた。お父さんは一瞬、考えてから
「分からない。見当もつかない」
と答えていた。
「わたしも知りませんでした。ところが安琪儿は知っていました。鍼(はり)を頭に刺したあと、治療師に答えていましたから」
お母さんが誇らしそうに、そう言っていた。
「安琪儿、お父さんにも教えてあげなさいよ」
お母さんが安琪儿に促していた。安琪儿はにっこりとうなずいてから
「ハリネズミには多くて一万七千本、少なくても一万六千本の針があるわ」
と答えていた。
「ほらね。よく知っているでしょう。大学院まで出ているあなたが知らなかったことを、うちの安琪儿は知っていたのよ。これも知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺したおかげだと思うわ」
お母さんがそう言った。
「……」
お父さんは答に詰まっていた。
安琪儿のお母さんとお父さんの会話を、玄関の前で聞いていた馬小跳が、口をはさんだ。
「安琪儿がハリネズミの針の数を知っていたのは、知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺したからではないと、ぼくは思います。この前、ぼくのうちで、いっしょに『動物世界』というテレビ番組を見ていたとき、たまたまハリネズミの特集をやっていて、その番組の中でハリネズミの針の数を話していたので、安琪儿はそれを覚えていたのだと思います」
馬小跳がそう答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんが、馬小跳の顔をじろりと見てから
「ふん、いいかげんなことを言わないでよ。うちの安琪儿が知っていたのは、治療の効果がてきめんに現れたからよ」
安琪儿のお母さんがそう言い張っていた。
「馬小跳、今に見ていなさい。あと十五日、いや、あと十四日すれば、うちの安琪儿は秀才になるから」
お母さんは興奮した顔でそう言った。馬小跳はそれを聞いて、意味がよく分からないでいた。
「安琪儿、どういう意味なのだ?」
馬小跳が安琪儿に聞いていた。
「お母さんは、わたしを半月の治療コースに申し込んだの。今日で一日治療が終わったから、あと残るのは二週間ということ」
安琪儿がそう答えていた。
「分かった。そういうことか」
馬小跳は納得がいったような顔をしていた。馬小跳はそれからまもなく、うちへ帰っていった。ぼくと老いらくさんも、そのあと安琪儿のうちを出て翠湖公園へ帰っていった。

