天気……今日は朝からとても天気がよくて、晩秋とは思えないほど、お日様の光が、きらきらと輝いている。ぽかぽかとした暖かい光を体いっぱいに浴びながら桜の花を見ていると、まるで本当に春がきたかのように思えるほどだった。
ぼくと老いらくさんは今日も再び桜木横丁にやってきた。お花見をするためではなくて、安琪儿がどのような治療を受けるのかを見るためにやってきた。安琪儿のお母さんが昨日、帰りがけに能力開発研究所の玄関の前で治療費を払っていて、今日からさっそく治療を受けることになったからだ。
午後の四時過ぎに、安琪儿のお母さんが安琪儿を連れて、能力開発研究所の前にやってきた。安琪儿は背中にランドセルを背負っていたので、学校の放課後まっすぐに、お母さんがここへ連れてきたことが分かった。
「いらっしゃい、待っていたわ」
安琪儿を見ると、受付の女の人が優しそうな声で、そう呼びかけていた。
「さあ、中に入って。今日から治療を始めるわ。緊張しなくていいからね。お母さんもいっしょに中に入ってください」
女の人がそう言ったので、安琪儿とお母さんは、それからまもなく、玄関のドアを開けて建物の中に入っていった。ぼくと老いらくさんも、ドアが開いたすきに、さっと中に入っていった。ドアの内側にも女の人がいて
「わたしについてきてください」
と言って、安琪儿とお母さんを、ある部屋に案内していた。
「さあ、この部屋に入ってください。お母さんは外で待っていてください」
女の人はそう言って、安琪儿だけを部屋の中に入らせようとした。安琪儿のお母さんは不満そうな顔をしながら
「どのような治療をするのか、わたしも見てみたいのですが……」
と言っていた。
「申し訳ありませんが、この部屋には保護者は入ることはできません。ここのドクターが開発して特許を取った知恵入りスープという特別な飲み物を飲ませますから、秘密が漏れてはいけないからです」
女の人がそう言った。
「そんなことをおっしゃらないで、ちょっとだけ見せてください。けっして見たことを口外しませんから」
安琪儿のお母さんが女の人に頼みこんでいた。
「申し訳ありませんが、規則に従ってください」
女の人はそう答えて引かなかった。
女の人と安琪儿のお母さんが押し問答をしているすきに、ぼくと老いらくさんは、部屋の中に、そっと入っていった。
安琪儿のお母さんは結局、女の人に押し切られて部屋の中に入ることはできなかったので、部屋の外でじっと待っているよりほかなかった。
女の人は安琪儿を部屋の中に入れると、内側からかぎをかけてから、安琪儿をいすの上に座らせていた。いすの後ろに机があって、机の上には缶ジュースのようなものが一つ置いてあった。女の人は、それを手に取ってから
「さあ、これを飲みなさい」
と言って、安琪儿に渡していた。
「これは何ですか」
安琪儿はやや緊張した面持ちで缶を受け取ると、聞き返していた。
「知恵入りスープです。飲むことで頭がよくなります」
女の人がそう答えていた。
「そんなスープがあるのかしら?」
安琪儿は、けげんそうな顔をしながら、つぶやくような声でそう言った。
「つべこべ言わないで飲みなさい」
女の人がそう言った。
「得体がしれないものを、わたしは飲みたくありません」
安琪儿がきっぱりと、そう言った。
「飲まなかったら、この部屋から出しません」
女の人が毅然とした声で、そう言った。それを聞いて安琪儿は仕方なく、渡された缶のタブを開けて、においをかいでいた。
「生姜糖のようなにおいがする」
安琪儿がそう言った。それを聞いて女の人が、きりっとした顔で
「違います。知恵入りスープです」
と言って、異を唱えていた。
「でも生姜のにおいがするから」
安琪儿がそう答えていた。
「生姜ではありません」
女の人が語気を強めながら、むきになって、そう言っていた。
「そうですか。でも辛いのは嫌いだから飲みたくありません」
安琪儿が顔を曇らせながら、そう言った。
「辛くはありません。まず一口飲んでみてください」
女の人がそう言った。
「分かりました。一口だけ飲んでみます」
安琪儿はそう答えると、缶を片手に持って、顔をしかめながら、缶の中に入っていたものを、ぐぐぐっと飲み始めた。一口どころか、全部飲み干してしまった。
「どうでしたか。おしいかったでしょう?」
女の人が笑みを浮かべなから聞いた。
「おいしくないです。でも生姜の辛味がコーラの苦味で薄くされているように感じて、飲めないことはありませんでした」
安琪儿が飲んだ感想を述べていた。
「そうですか。薬だから、そういう味がするのかもしれません」
女の人がそう答えていた。
「飲んだから、わたしは、この部屋から出ることができるのでしょう?」
安琪儿が女の人に聞いていた。
「もちろんですよ」
女の人はそう答えると、安琪儿の手を引いて、ドアの方に向かっていって、入口のかぎを開けて、安琪儿を部屋の外に出した。それを見て安琪儿のお母さんが駆け寄ってきた。
「どうだった。知恵入りスープって、どんな味だった?」
お母さんが聞いた。
「おいしくはなかったけど飲めないことはなかったわ。わたしが嫌いな生姜のにおいがしたので、最初は飲みたくなかったわ。でも飲まないと部屋から出さないと言われたから、仕方なく一口飲んでみたの。するとコーラの味もして苦かったし、生姜の辛さがコーラの苦味で薄くされているように感じて、飲めないこともなかった」
安琪儿がそう答えていた。
「そうだったの。飲んだことで頭がよくなってくれたら、お母さんはうれしいわ」
安琪儿のお母さんが、そう言った。
「知恵入りスープを飲んだから、もううちへ帰りましょうよ」
安琪儿がそう言って、お母さんに促していた。
「まだ治療は半分しか終わっていないわよ。治療はこれからが本番。そうせかさないでよ」
お母さんがそう言った。
「頭に鍼(はり)を刺したくないわ。痛そうだから」
安琪儿が泣きそうな顔をしながら、そう言った。
「我慢するのも勉強よ」
お母さんがそう言った。
「分かっているわ。でも考えただけで怖くなって……」
安琪儿が真情を吐露していた。
「おまえの気持ちが分からないこともないわ。でも知恵入りスープを飲むだけでは、知能の発達に時間がかかると思うの。鍼(はり)治療を併せておこなうことで知能の発達が速くなるし、中学や高校や大学の入学試験に間に合うと思うから鍼(はり)治療も受けてほしいの」
お母さんが安琪儿に懇願していた。
「でも、もし治療を受けても、わたしの知能が思ったほど伸びなかったら、お母さんに申し訳ないわ。お金もたくさんかかるだろうから」
安琪儿がそう言った。お母さんはそれを聞いて少しも気にとめない様子で
「そんなことを心配する必要はないわ。とりあえず十五日のコースに申し込んだから、その間、毎日、知恵入りスープを飲んだり、鍼(はり)治療で脳に刺激を与えて、それでも効果があがらないようだったら、その時はその時で考えましょうよ」
と言った。
「分かったわ。ではこれから頭に鍼(はり)を刺す治療を受けてから帰るわ」
安琪儿がそう言った。安琪儿が納得してくれたので、お母さんは、ほっとしたような顔をしていた。
それからまもなく別の女の人がやってきて、安琪儿とお母さんを、先ほどとは違う部屋へ案内していった。今度は、安琪儿だけではなくて、安琪儿のお母さんも部屋の中に入ることが許されたので、安琪儿はお母さんといっしょに部屋の中に入っていった。ぼくと老いらくさんも、部屋のドアが開いたすきに、部屋の中に入っていって、カーテンの後ろに隠れながら、カーテン越しに治療の様子をうかがうことにした。部屋の中には、白い医務服を着た初老の男がいて、机に向かって『検査報告書』を見ていた。
(この男が治療師なのだろうか)
と、ぼくは思った。
部屋の中にはすでに五人の子どもと、その保護者がいた。子どもの年齢は様々で、大きい子どもは十二、三歳、小さい子どもは五、六歳に見えた。子どもたちはみんな頭の上に、鍼(はり)を刺していて、見るからに痛々しそうに見えた。苦痛のあまり、涙を流している女の子もいた。
「お嬢ちゃん、あの子たちは何に見えますか?」
治療師が、安琪儿に聞いていた。
「ハリネズミに見えます」
安琪儿が率直な感想を述べていた。それを聞いて、治療師が、くっくっくっと笑った。
的を射た安琪儿の答に、治療師は感心したような声で
「お嬢ちゃんは頭がいいなあ。まさにその通りだ」
と言った。それを聞いて安琪儿は、うれしそうな声で
「お母さん、この人は、わたしに頭がいいと言ったわ」
と言った。お母さんは、それには取り合わないで
「あなたのことを何も知らないから、おだてているだけよ」
と言って、一笑に付した。
「そうかしら。でも治療師がそう言ったのだから、間違ったことは言っていないと思うわ。わたしは、頭は悪くないのだから鍼(はり)を刺す必要はないわ。お母さん、うちへ帰ろうよ」
安琪儿がそう言った。
「……」
お母さんは、どう答えてよいか分からないで黙っていた。
するとそのとき、治療師が
「せっかくここへ来たのだから、お嬢ちゃんも鍼(はり)を刺していきなさいよ。頭がますますよくなるから」
と言った。
「分かりました。では痛いのを我慢して刺してから帰ることにします。よろしくお願いします」
安琪儿がそう答えていた。
治療師はうなずいてから
「では、あそこにあるベッドの上に横になりなさい」
と言った。安琪儿が言われたとおりにすると、治療師がすぐにやってきて、頭に鍼(はり)を刺すための準備に入っていた。安琪儿の首の周りにベルトを巻いて、頭が動かないように固定してから、箱の中から取り出した鍼(はり)を慎重に頭皮の上に刺していった。刺されるたびに、ちくりとした痛みが走って、安琪儿は顔の表情をゆがめていた。涙が出そうな顔をしていたが、お母さんがベッドのすぐ横から、心配そうな顔でのぞきこんでいたので、安琪儿は泣かないでじっと耐えていた。
治療師は全部で三十六本もの鍼(はり)を安琪儿の頭の上に刺したから、安琪儿の頭は、ほかの子の頭と同じように、まるでハリネズミのようになった。
「さあ、終わったから、起きていいよ」
治療師がそう言った。安琪儿はベッドから下りて、ほっとしたような顔をしていた。
安琪儿のお母さんが、安琪儿をハグしながら
「よく頑張ったわね。痛かったでしょう?」
と聞いていた。安琪儿はうなずいていた。
「今もまだ痛い?」
お母さんが心配そうな声でそう言った。
「ううん、大丈夫。ぴりぴりとした刺激を感じるけど、思ったほど痛くはない」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんは
「よかった」
と言って、安堵の胸をなでおろしていた。安琪儿のお母さんは、そのあと、治療師に
「どうして、こんなにたくさんの鍼(はり)を刺さなければならないのでしょうか」
と聞いていた。
「人間の脳を研究している学者によると、頭脳明晰な人の脳には三十六本の末梢神経があって、それが活発に機能しているそうだ。したがって、それらの末梢神経のつぼに鍼(はり)を刺すことで、たいていの人は賢くなれると、わしは思っているからだ」
治療師がそう言った。
安琪儿のお母さんは、それを聞いて、合点がいったような顔をしていた。そのあと安琪儿のお母さんは、畳みかけるように
「効果はどれくらいで現れてくるのでしょうか」
と聞いていた。
「人によって様々だから一概にはいえないが、あなたの子どもは『検査報告書』に〇がついているから、効果が出てくるのは早いと思っている」
治療師がそう言った。それを聞いて安琪儿のお母さんは、にっこりと笑みを浮かべていた。
治療師は、そのあと、ほかの子どもたちが頭に刺している鍼(はり)を一本一本、丁寧に抜き取っていた。鍼(はり)を取られた子どもと、その保護者たちは、ほっとしたような顔をしながら、安琪儿のお母さんと安琪儿に
「お先に失礼します」
と言って、部屋から出ていった。
それからまもなく、治療師は安琪儿の頭からも鍼(はり)を丁寧に抜き取ってくれた。
「今日の治療は、これで終わりだ。うちへ帰っていいよ、ハリネズミさん」
治療師がそう言った。それを聞いて、安琪儿が治療師に
「わたしはハリネズミではないわ」
と言って、つむじを曲げていた。そのあと治療師に
「ハリネズミには、針がどれくらいあるか知っていますか」
と聞いていた。治療師は不意を突かれて、一瞬、戸惑ったような顔をしながら
「さあ、どれくらいだろう。数千本かな」
と、あいまいに答えていた。
「治療師のくせに、はっきりした数字を知らないのですか」
安琪儿が問い詰めていた。
「三千本ぐらいではないかな」
治療師が、そう答えていた。それを聞いて、安琪儿が、むっとしたような顔をしながら
「違うわ。ハリネズミには多くて一万七千本、少なくとも一万六千本の針があるわ」
と答えていた。
それを聞いて、治療師は、感心したような声で
「お嬢ちゃんは、すごいなあ。一度、鍼(はり)を刺しただけで、そんなことまでも分かるようになったのか。鍼(はり)の効果は抜群だ」
と言った。それを聞いて、安琪儿は何とも言えないような顔をしていた。安琪儿のお母さんは、とてもうれしそうな顔をしていた。
「まだ一度しか、知恵入りスープを飲んでいないし、鍼(はり)も今日初めて刺したばかりなのに、そんなことまで、うちの子が分かるようになるとは思ってもいなかったわ。確かに効き目はたいしたものですね」
と、お母さんが言っていた。治療師は、それを聞いて、得意げにうなずいてから
「まだあと二週間ありますから、もっともっと賢くなりますよ」
と言って、太鼓判を押していた。
「ありがとうございます」
安琪儿のお母さんは、笑顔でそう答えていた。安琪儿のお母さんは、そのあと安琪儿に
「あなたは、もうしばらくしたら、丁文涛よりも賢くなるわ」
と言った。安琪儿はそれを聞いて、口をへの字に曲げながら
「お母さんは、どうして、いつも丁文涛と比べるの?」
と聞き返していた。
「だって、あの子は、あなたのクラスの中で一番賢い子だからよ」
お母さんがそう答えた。
「でも、わたしは丁文涛が好きではないから、丁文涛とわたしを比べないでほしいわ」
安琪儿がそう言って、ふくれていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが
「あなたが丁文涛を好きでないのは、あなたは頭がよくないので、ひがんでいるからよ」
と言った。
「ひがんでなんかいないわ。できない子をばかにするから嫌いなの」
安琪儿がそう言った。
「でも頭がよいことはいいことよ。あなたも頭がよくなって、丁文涛と同じくらいに優秀になったら、頑張れば、できるのだと、みんなから思われるし、あなたは優しい子だから、できない子をばかにすることもないと思うわ」
お母さんがそう言った。
「分かったわ。あと二週間、ここで毎日、頑張るわ」
安琪儿が聞き分けよく、そう答えていた。
それからまもなく、安琪儿と安琪儿のお母さんは能力開発研究所をあとにした。ぼくと老いらくさんも、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついて建物の外に出た。今の時季は日が暮れるのが早いので、まだ夕方の七時前なのに、辺りはもうすっかり、暗くなっていた。昼間は、芋を洗うように多くの花見客で混雑していた桜木横丁だったが、今は、人通りは、ほとんど途絶えて、しんとしていた。
ぼくと老いらくさんは今日も再び桜木横丁にやってきた。お花見をするためではなくて、安琪儿がどのような治療を受けるのかを見るためにやってきた。安琪儿のお母さんが昨日、帰りがけに能力開発研究所の玄関の前で治療費を払っていて、今日からさっそく治療を受けることになったからだ。
午後の四時過ぎに、安琪儿のお母さんが安琪儿を連れて、能力開発研究所の前にやってきた。安琪儿は背中にランドセルを背負っていたので、学校の放課後まっすぐに、お母さんがここへ連れてきたことが分かった。
「いらっしゃい、待っていたわ」
安琪儿を見ると、受付の女の人が優しそうな声で、そう呼びかけていた。
「さあ、中に入って。今日から治療を始めるわ。緊張しなくていいからね。お母さんもいっしょに中に入ってください」
女の人がそう言ったので、安琪儿とお母さんは、それからまもなく、玄関のドアを開けて建物の中に入っていった。ぼくと老いらくさんも、ドアが開いたすきに、さっと中に入っていった。ドアの内側にも女の人がいて
「わたしについてきてください」
と言って、安琪儿とお母さんを、ある部屋に案内していた。
「さあ、この部屋に入ってください。お母さんは外で待っていてください」
女の人はそう言って、安琪儿だけを部屋の中に入らせようとした。安琪儿のお母さんは不満そうな顔をしながら
「どのような治療をするのか、わたしも見てみたいのですが……」
と言っていた。
「申し訳ありませんが、この部屋には保護者は入ることはできません。ここのドクターが開発して特許を取った知恵入りスープという特別な飲み物を飲ませますから、秘密が漏れてはいけないからです」
女の人がそう言った。
「そんなことをおっしゃらないで、ちょっとだけ見せてください。けっして見たことを口外しませんから」
安琪儿のお母さんが女の人に頼みこんでいた。
「申し訳ありませんが、規則に従ってください」
女の人はそう答えて引かなかった。
女の人と安琪儿のお母さんが押し問答をしているすきに、ぼくと老いらくさんは、部屋の中に、そっと入っていった。
安琪儿のお母さんは結局、女の人に押し切られて部屋の中に入ることはできなかったので、部屋の外でじっと待っているよりほかなかった。
女の人は安琪儿を部屋の中に入れると、内側からかぎをかけてから、安琪儿をいすの上に座らせていた。いすの後ろに机があって、机の上には缶ジュースのようなものが一つ置いてあった。女の人は、それを手に取ってから
「さあ、これを飲みなさい」
と言って、安琪儿に渡していた。
「これは何ですか」
安琪儿はやや緊張した面持ちで缶を受け取ると、聞き返していた。
「知恵入りスープです。飲むことで頭がよくなります」
女の人がそう答えていた。
「そんなスープがあるのかしら?」
安琪儿は、けげんそうな顔をしながら、つぶやくような声でそう言った。
「つべこべ言わないで飲みなさい」
女の人がそう言った。
「得体がしれないものを、わたしは飲みたくありません」
安琪儿がきっぱりと、そう言った。
「飲まなかったら、この部屋から出しません」
女の人が毅然とした声で、そう言った。それを聞いて安琪儿は仕方なく、渡された缶のタブを開けて、においをかいでいた。
「生姜糖のようなにおいがする」
安琪儿がそう言った。それを聞いて女の人が、きりっとした顔で
「違います。知恵入りスープです」
と言って、異を唱えていた。
「でも生姜のにおいがするから」
安琪儿がそう答えていた。
「生姜ではありません」
女の人が語気を強めながら、むきになって、そう言っていた。
「そうですか。でも辛いのは嫌いだから飲みたくありません」
安琪儿が顔を曇らせながら、そう言った。
「辛くはありません。まず一口飲んでみてください」
女の人がそう言った。
「分かりました。一口だけ飲んでみます」
安琪儿はそう答えると、缶を片手に持って、顔をしかめながら、缶の中に入っていたものを、ぐぐぐっと飲み始めた。一口どころか、全部飲み干してしまった。
「どうでしたか。おしいかったでしょう?」
女の人が笑みを浮かべなから聞いた。
「おいしくないです。でも生姜の辛味がコーラの苦味で薄くされているように感じて、飲めないことはありませんでした」
安琪儿が飲んだ感想を述べていた。
「そうですか。薬だから、そういう味がするのかもしれません」
女の人がそう答えていた。
「飲んだから、わたしは、この部屋から出ることができるのでしょう?」
安琪儿が女の人に聞いていた。
「もちろんですよ」
女の人はそう答えると、安琪儿の手を引いて、ドアの方に向かっていって、入口のかぎを開けて、安琪儿を部屋の外に出した。それを見て安琪儿のお母さんが駆け寄ってきた。
「どうだった。知恵入りスープって、どんな味だった?」
お母さんが聞いた。
「おいしくはなかったけど飲めないことはなかったわ。わたしが嫌いな生姜のにおいがしたので、最初は飲みたくなかったわ。でも飲まないと部屋から出さないと言われたから、仕方なく一口飲んでみたの。するとコーラの味もして苦かったし、生姜の辛さがコーラの苦味で薄くされているように感じて、飲めないこともなかった」
安琪儿がそう答えていた。
「そうだったの。飲んだことで頭がよくなってくれたら、お母さんはうれしいわ」
安琪儿のお母さんが、そう言った。
「知恵入りスープを飲んだから、もううちへ帰りましょうよ」
安琪儿がそう言って、お母さんに促していた。
「まだ治療は半分しか終わっていないわよ。治療はこれからが本番。そうせかさないでよ」
お母さんがそう言った。
「頭に鍼(はり)を刺したくないわ。痛そうだから」
安琪儿が泣きそうな顔をしながら、そう言った。
「我慢するのも勉強よ」
お母さんがそう言った。
「分かっているわ。でも考えただけで怖くなって……」
安琪儿が真情を吐露していた。
「おまえの気持ちが分からないこともないわ。でも知恵入りスープを飲むだけでは、知能の発達に時間がかかると思うの。鍼(はり)治療を併せておこなうことで知能の発達が速くなるし、中学や高校や大学の入学試験に間に合うと思うから鍼(はり)治療も受けてほしいの」
お母さんが安琪儿に懇願していた。
「でも、もし治療を受けても、わたしの知能が思ったほど伸びなかったら、お母さんに申し訳ないわ。お金もたくさんかかるだろうから」
安琪儿がそう言った。お母さんはそれを聞いて少しも気にとめない様子で
「そんなことを心配する必要はないわ。とりあえず十五日のコースに申し込んだから、その間、毎日、知恵入りスープを飲んだり、鍼(はり)治療で脳に刺激を与えて、それでも効果があがらないようだったら、その時はその時で考えましょうよ」
と言った。
「分かったわ。ではこれから頭に鍼(はり)を刺す治療を受けてから帰るわ」
安琪儿がそう言った。安琪儿が納得してくれたので、お母さんは、ほっとしたような顔をしていた。
それからまもなく別の女の人がやってきて、安琪儿とお母さんを、先ほどとは違う部屋へ案内していった。今度は、安琪儿だけではなくて、安琪儿のお母さんも部屋の中に入ることが許されたので、安琪儿はお母さんといっしょに部屋の中に入っていった。ぼくと老いらくさんも、部屋のドアが開いたすきに、部屋の中に入っていって、カーテンの後ろに隠れながら、カーテン越しに治療の様子をうかがうことにした。部屋の中には、白い医務服を着た初老の男がいて、机に向かって『検査報告書』を見ていた。
(この男が治療師なのだろうか)
と、ぼくは思った。
部屋の中にはすでに五人の子どもと、その保護者がいた。子どもの年齢は様々で、大きい子どもは十二、三歳、小さい子どもは五、六歳に見えた。子どもたちはみんな頭の上に、鍼(はり)を刺していて、見るからに痛々しそうに見えた。苦痛のあまり、涙を流している女の子もいた。
「お嬢ちゃん、あの子たちは何に見えますか?」
治療師が、安琪儿に聞いていた。
「ハリネズミに見えます」
安琪儿が率直な感想を述べていた。それを聞いて、治療師が、くっくっくっと笑った。
的を射た安琪儿の答に、治療師は感心したような声で
「お嬢ちゃんは頭がいいなあ。まさにその通りだ」
と言った。それを聞いて安琪儿は、うれしそうな声で
「お母さん、この人は、わたしに頭がいいと言ったわ」
と言った。お母さんは、それには取り合わないで
「あなたのことを何も知らないから、おだてているだけよ」
と言って、一笑に付した。
「そうかしら。でも治療師がそう言ったのだから、間違ったことは言っていないと思うわ。わたしは、頭は悪くないのだから鍼(はり)を刺す必要はないわ。お母さん、うちへ帰ろうよ」
安琪儿がそう言った。
「……」
お母さんは、どう答えてよいか分からないで黙っていた。
するとそのとき、治療師が
「せっかくここへ来たのだから、お嬢ちゃんも鍼(はり)を刺していきなさいよ。頭がますますよくなるから」
と言った。
「分かりました。では痛いのを我慢して刺してから帰ることにします。よろしくお願いします」
安琪儿がそう答えていた。
治療師はうなずいてから
「では、あそこにあるベッドの上に横になりなさい」
と言った。安琪儿が言われたとおりにすると、治療師がすぐにやってきて、頭に鍼(はり)を刺すための準備に入っていた。安琪儿の首の周りにベルトを巻いて、頭が動かないように固定してから、箱の中から取り出した鍼(はり)を慎重に頭皮の上に刺していった。刺されるたびに、ちくりとした痛みが走って、安琪儿は顔の表情をゆがめていた。涙が出そうな顔をしていたが、お母さんがベッドのすぐ横から、心配そうな顔でのぞきこんでいたので、安琪儿は泣かないでじっと耐えていた。
治療師は全部で三十六本もの鍼(はり)を安琪儿の頭の上に刺したから、安琪儿の頭は、ほかの子の頭と同じように、まるでハリネズミのようになった。
「さあ、終わったから、起きていいよ」
治療師がそう言った。安琪儿はベッドから下りて、ほっとしたような顔をしていた。
安琪儿のお母さんが、安琪儿をハグしながら
「よく頑張ったわね。痛かったでしょう?」
と聞いていた。安琪儿はうなずいていた。
「今もまだ痛い?」
お母さんが心配そうな声でそう言った。
「ううん、大丈夫。ぴりぴりとした刺激を感じるけど、思ったほど痛くはない」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんは
「よかった」
と言って、安堵の胸をなでおろしていた。安琪儿のお母さんは、そのあと、治療師に
「どうして、こんなにたくさんの鍼(はり)を刺さなければならないのでしょうか」
と聞いていた。
「人間の脳を研究している学者によると、頭脳明晰な人の脳には三十六本の末梢神経があって、それが活発に機能しているそうだ。したがって、それらの末梢神経のつぼに鍼(はり)を刺すことで、たいていの人は賢くなれると、わしは思っているからだ」
治療師がそう言った。
安琪儿のお母さんは、それを聞いて、合点がいったような顔をしていた。そのあと安琪儿のお母さんは、畳みかけるように
「効果はどれくらいで現れてくるのでしょうか」
と聞いていた。
「人によって様々だから一概にはいえないが、あなたの子どもは『検査報告書』に〇がついているから、効果が出てくるのは早いと思っている」
治療師がそう言った。それを聞いて安琪儿のお母さんは、にっこりと笑みを浮かべていた。
治療師は、そのあと、ほかの子どもたちが頭に刺している鍼(はり)を一本一本、丁寧に抜き取っていた。鍼(はり)を取られた子どもと、その保護者たちは、ほっとしたような顔をしながら、安琪儿のお母さんと安琪儿に
「お先に失礼します」
と言って、部屋から出ていった。
それからまもなく、治療師は安琪儿の頭からも鍼(はり)を丁寧に抜き取ってくれた。
「今日の治療は、これで終わりだ。うちへ帰っていいよ、ハリネズミさん」
治療師がそう言った。それを聞いて、安琪儿が治療師に
「わたしはハリネズミではないわ」
と言って、つむじを曲げていた。そのあと治療師に
「ハリネズミには、針がどれくらいあるか知っていますか」
と聞いていた。治療師は不意を突かれて、一瞬、戸惑ったような顔をしながら
「さあ、どれくらいだろう。数千本かな」
と、あいまいに答えていた。
「治療師のくせに、はっきりした数字を知らないのですか」
安琪儿が問い詰めていた。
「三千本ぐらいではないかな」
治療師が、そう答えていた。それを聞いて、安琪儿が、むっとしたような顔をしながら
「違うわ。ハリネズミには多くて一万七千本、少なくとも一万六千本の針があるわ」
と答えていた。
それを聞いて、治療師は、感心したような声で
「お嬢ちゃんは、すごいなあ。一度、鍼(はり)を刺しただけで、そんなことまでも分かるようになったのか。鍼(はり)の効果は抜群だ」
と言った。それを聞いて、安琪儿は何とも言えないような顔をしていた。安琪儿のお母さんは、とてもうれしそうな顔をしていた。
「まだ一度しか、知恵入りスープを飲んでいないし、鍼(はり)も今日初めて刺したばかりなのに、そんなことまで、うちの子が分かるようになるとは思ってもいなかったわ。確かに効き目はたいしたものですね」
と、お母さんが言っていた。治療師は、それを聞いて、得意げにうなずいてから
「まだあと二週間ありますから、もっともっと賢くなりますよ」
と言って、太鼓判を押していた。
「ありがとうございます」
安琪儿のお母さんは、笑顔でそう答えていた。安琪儿のお母さんは、そのあと安琪儿に
「あなたは、もうしばらくしたら、丁文涛よりも賢くなるわ」
と言った。安琪儿はそれを聞いて、口をへの字に曲げながら
「お母さんは、どうして、いつも丁文涛と比べるの?」
と聞き返していた。
「だって、あの子は、あなたのクラスの中で一番賢い子だからよ」
お母さんがそう答えた。
「でも、わたしは丁文涛が好きではないから、丁文涛とわたしを比べないでほしいわ」
安琪儿がそう言って、ふくれていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが
「あなたが丁文涛を好きでないのは、あなたは頭がよくないので、ひがんでいるからよ」
と言った。
「ひがんでなんかいないわ。できない子をばかにするから嫌いなの」
安琪儿がそう言った。
「でも頭がよいことはいいことよ。あなたも頭がよくなって、丁文涛と同じくらいに優秀になったら、頑張れば、できるのだと、みんなから思われるし、あなたは優しい子だから、できない子をばかにすることもないと思うわ」
お母さんがそう言った。
「分かったわ。あと二週間、ここで毎日、頑張るわ」
安琪儿が聞き分けよく、そう答えていた。
それからまもなく、安琪儿と安琪儿のお母さんは能力開発研究所をあとにした。ぼくと老いらくさんも、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついて建物の外に出た。今の時季は日が暮れるのが早いので、まだ夕方の七時前なのに、辺りはもうすっかり、暗くなっていた。昼間は、芋を洗うように多くの花見客で混雑していた桜木横丁だったが、今は、人通りは、ほとんど途絶えて、しんとしていた。

