天気……秋が深まり、初冬間近のこの町に、厳しい寒気が押し寄せてきた。気温が急に下がり、ぼくたちが住んでいる翠湖公園の中にある落葉樹の木々は葉をすっかり落としてしまい、見るからに寒々しくなった。
老いらくさんは人の話が分からないから、昨日、ぼくが診察室の中で聞いた話の一部始終を話してきかせた。
「『知能の発達が遅れているのは病気の一種だ』と、ドクターが言っていました。老いらくさんも、そう思いますか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「それは違うよ」
老いらくさんが、そう答えて、首を激しく横に振った。
「人がかかる病気にはいろいろなものがある。しかし知能の発達が遅れているのは病気ではない」
老いらくさんが語気を強めながら、そう言った。
「そうですよね。ぼくもそう思います」
ぼくは老いらくさんの意見に同調した。
「知能の発達が遅れているのは病気ではないことは、わしさえ知っている。それなのに人間の親がどうしてドクターの言うことを信じているのだろうか」
老いらくさんがけげんそうな顔をしていた。
「親たちがドクターの言うことを信じているのは、診察室の壁の上に、立派な賞状や感謝状や証明書がたくさん貼ってあったからだと思います。親たちはそれを見てから、感心したような顔をしていましたから」
ぼくはそう答えた。
「そんなものは、まやかしに過ぎないよ。親たちを信用させるために偽造したものかもしれないではないか」
老いらくさんがそう言った。
「もし本当にそうだとしたら、どうしてそんなことをしたのでしょうか」
ぼくは合点がいかなかった。
「わしにもよく分からない。以前はそんな突飛なことを言ったら、誰からも信用されなかったはずなのに、今の世の中は一体どうなっているのだろう」
老いらくさんが首をかしげていた。
「そうですねえ。ぼくにもよく分かりません」
ぼくはそう答えた。しばらく考えてから
「子どもの知能の発達が遅れているのは病気の一種だと言ったら、病気を治そうと思って、お金を払う親がいるかもしれないと思ったからではないでしょうか」
ぼくはそう言った。
「なるほど、そうかもしれないな。今は競争社会が激しいから、子どもを落伍させないためにお金をつぎ込む親が多いので、そこに目をつけた新手の商売かもしれないな」
老いらくさんがそう答えた。
「親たちを盲信させて、お金を儲けようとたくらんでいるのだったら、ぼくは絶対に許せません」
ぼくはそう言った。
「わしも同じだ」
老いらくさんがそう答えた。
「ドクターは処方箋を出していて、それに基づいて治療をおこなっていくようでした。どんな治療なのか、ぼくはとても興味を覚えました」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「わしも同じだ。治療している場面を見ぜひ見てみたい。これからいっしょに、あの能力開発研究所へもう一度、行ってみないか」
老いらくさんがそう提案した。
「いいですよ。ぼくもそう思っています」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは翠湖公園を出て桜木横丁へ出かけて行った。
今日は週末だったから、桜木横丁へ花見見物に来る人の数は、いつも以上に多かった。ぼくと老いらくさんは人に踏まれないように塀のすぐ下の、わずかな隙間に沿って歩いていた。老いらくさんはぼくよりも体が小さいので、踏まれたら命にかかわるので、ぼくは気を遣って、背中に乗せてあげた。途中、何度か人とぶつかりそうになったが、かろうじて避けながら、白い二階建ての立派な能力開発研究所の前までやってくることができた。
建物の前には測定を待つ人たちの長い列ができていた。子ども連れの親子ばかりだった。その中に、一組、ぼくが知っている親子がいるのに気がついた。馬小跳と同じ集合アパートに住んでいる安琪儿とお母さんだった。ぼくと老いらくさんは、人ごみをかき分けるようにして、安琪儿とお母さんのほうへ近づいていった。安琪儿の声が聞こえた。
「お母さん、ここは何をするところ?」
「病気を治すところよ」
お母さんがそう答えていた。
「病気?」
安琪儿がけげんそうな顔をして聞き返していた。
「そう、病気よ。あなたは病気にかかっているから治療をしてあげようと思って」
お母さんがそう言っていた。
「わたし、どこも悪くないわ」
安琪儿がそう答えていた。
「そんなことないわ。あなたは頭が悪いわ」
お母さんが、顔色ひとつ変えないで、そう答えていた。
「……」
安琪儿は答に窮していた。
「ここのドクターは知能の発達が遅れているのは病気の一種だと考えていて、治療することで頭をよくすることができると言っている。あなたに頭がよくなってもらいたいと思っているから、あなたをここへ連れてきたの」
お母さんがそう答えていた。
「わたしは確かに学校の成績はあまりよくないわ。でも病気だからではないわ」
安琪儿がそう答えていた。
「それはどうだか分からないわ。お母さんは四十歳のときに、あなたを産んだから、もしかしたら高齢出産のために知能の発達に障害が出てきたのではないかと考えているの。もしそうだとしたら、あなたに本当に申し訳ないから治療をしてあげようと思っているの」
お母さんがそう言った。
「そんなことはないわ。お母さんのせいではないわ。わたしが努力をしないからよ」
安琪儿がそう答えていた。
「そう言ってくれると、気持ちが少しは楽になるわ。でもやはり知能の発達がほかの子どもよりも遅れているのは紛れもない事実だし、いい学校に行けなかったら、あとで幸せな生活が送れなくなるから、あなたの将来をとても心配しているの」
お母さんがそう言った。
「分かったわ。お母さんの気持ちが、よく分かったわ。でも、ここでは一体、どんなことをして、知能の発達を促そうとしているの」
安琪儿がお母さんに聞いていた。
「それはお母さんにもよく分からないわ。治療をしている場面を実際に見たことはないから」
お母さんがそう答えていた。
「実際に見たこともないのに信用できるの?」
安琪儿がけげんそうな顔をしていた。
「つべこべ言わないで、中に入っていける順番が来るのを静かに待ちなさいよ」
お母さんがそう言って、安琪儿の問いかけを、はぐらかそうとしていた。
やがて順番が来て、安琪儿とお母さんがドアの前まで進んでいった。ぼくと老いらくさんもいっしょについていった。ドアの前に立っていた受付の女の人が、にこやかな笑みを浮かべながら
「ようこそ、いらっしゃいました」
と言って、安琪儿のお母さんに、挨拶をしていた。
「うちの子は学校の成績はあまりよくないのですが、ここで治療を受けたら頭がよくなるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが、半信半疑の顔をしながら聞いていた。
「子どもは一人ひとり、持っている潜在能力が違っていますから、潜在能力が開花するまでにかかる時間には個人差があります。しかし時間はかかっても、ほとんどの場合、学力は確実に伸びると思います。治療を受ける前に最先端の科学技術に基づいた測定をおこないますから、その測定結果に基づいて、一番適切な治療方法を提示いたします」
受付の女の人が、そう答えていた。
「分かりました。うちの子は頭がよくないので、ここで治療を受けることによって頭がよくなることを願っています。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんが、そう言った。安琪儿がそれを聞いて、仏頂面をして
「お母さんは、わたしのことを頭がよくないと言っているけど、クラスの中には、わたしよりも、もっと成績の悪い子もいるわ。馬小跳も、いとこの韓力兄さんも、わたしは馬鹿ではないと言っているわ」
と、言葉をはさんだ。それを聞いて、安琪儿のお母さんは、むっとして
「何を言っているのよ。馬小跳も韓力も、子どもではないの。子どもの言うことを、うのみにして信じるとは、それこそ、あなたは馬鹿よ」
と言った。
「……」
激しく息巻いているお母さんの気勢に圧倒された安琪儿は返す言葉もなく、黙っているしかなかった。
「二人とも、ここで親子げんかはしないでください。知能の発達レベルがどれくらいなのか検査を希望されるようでしたら、まず、あそこで料金を払ってください」
受付の女の人がそう言って、向かい側を指さした。『料金支払い所』と書かれた紙が机の前に貼ってあって、お金を受け取る人が、いすの上に座っていた。検査料金が高かったので、安琪儿のお母さんは少し迷っていたが、花見見物のついでに立ち寄って、気持ちが高揚していたこともあって、「まあ、いいか」と言って、お金を払っていた。
「順番が来たら、お名前をお呼びいたしますから、お母様は外に待機して、お子様だけを中にお入れください」
受付の女の人が、そう言った。
「分かりました」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
列に並んでから十五分ほど待っていると、安琪儿の名前が呼ばれたので
「はい」
と元気よく答えてから、安琪儿は建物の中に入っていった。安琪儿のお母さんは建物の外にある待機所で不安そうな顔をしながら安琪儿が出てくるのを待っていた。
二十分ぐらいしてから、安琪儿が手に『検査報告書』と書かれた紙を持って出てきた。安琪儿のお母さんは、すぐに安琪儿のところに駆け寄っていって
「どうだった。どんな結果が出た?」
と聞いていた。安琪儿は何も答えないで、『検査報告書』と書かれた紙を、お母さんに見せていた。『検査報告書』には〇が一つ描かれているだけで、文字によるコメントは何も書かれていなかった。
「これはどういう意味なのかしら?」
お母さんが、けげんそうな顔をしていた。安琪儿も首をかしげていた。受付の女の人が
お母さんが手に持っている『検査報告書』を、のぞき込みながら
「大丈夫という意味です」
と答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんが
「治療を受けなくても大丈夫という意味ですか」
と聞き返していた。
「大丈夫は大丈夫です。でも◎に比べたら時間がかかります」
受付の女の人が、そう答えていた。
「そうですか。わたしは、気短でせっかちな性格ですから、時間がかかるのは嫌です」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「そうですか。だったら治療を受けさせますか」
受付の女の人が聞いていた。
「受けさせます。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんが、うなずいていた。
「分かりました。ではまずドクターの診察を受けさせるために料金を払ってください」
受付の女の人がそう言った。
「分かりました。払います」
安琪儿のお母さんは、そう答えてから、再び『料金支払い所』に行って、診察料金を払い込んでいた。
「今度はお母様もごいっしょに中に入ることができます」
受付の女の人がそう言ったので、安琪儿のお母さんが、うれしそうな顔をしていた。
それからまもなく安琪儿はお母さんといっしょに建物の中に入っていった。玄関のドアが開いたすきに、ぼくと老いらくさんも、建物の中に入り込んだ。ぼくと老いらくさんの姿は受付の女の人に見られたが、風のようにすっと入っていったので、女の人は、ぼくや老いらくさんを締め出すすべがなかった。ぼくと老いらくさんが建物の中に入ってから診察室の前に行くと、順番を待つ親子がすでに五組、待合室で待っているのが目に入った。診察室のドアが開いた瞬間に、ぼくと老いらくさんは、さっと診察室の中に入っていった。ぼくと老いらくさんは診察室のカーテンの後ろに隠れて、ドクターの診察の様子をカーテン越しに見ながら、安琪儿と安琪儿のお母さんが中に入ってくるのを待っていた。診察に当たっていたドクターは鋭い眼光で、見るからに怖そうな顔をしながら、いすの上にふんぞり返っていて、偉そうな態度で、子どもと、その保護者を見下すような目で見ていた。
しばらくしてから安琪儿が、お母さんに手を引かれながら診察室の中に入ってきた。安琪儿のお母さんは、診察室の壁一面に張られている、たくさんの表彰状や感謝状や証明書に目を奪われていて、(こんなに輝かしい実績がある人だから、信頼がおける人なのだ)と思っているように見えた。
ドクターは安琪儿のお母さんから『検査報告書』を受け取ると、しばらく見てから
「この子の学力を向上させるためには相当の治療を施さなければならないようだ」
と言った。安琪儿のお母さんは、それを聞いて、けげんそうな顔をしながら
「受付の女の人は、〇がついているので、治療を受けなくても大丈夫のレベルだと、おっしゃっていましたが……」
と言葉を返していた。
「それは安心させるために、そう言っただけだ。△や×よりはましだが、◎ではないので、学力を向上させるためには、相当の治療を施さなければならない」
ドクターがそう言った。
「分かりました。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「知能の発達が遅れているのは病気の一種だから、治療することができる。安心しなさい」
ドクターがそう言った。
「頭の手術をしなければなりませんか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「いや、その必要はない。〇という検査報告が出たのだから、その必要はない」
ドクターがそう言った。それを聞いて、安琪儿のお母さんは、ほっとしたような顔をしていた。安琪儿もよかったという顔をしていた。
「では具体的に、どのような方法で知能の発達を促されるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが興味深そうな顔をして聞き返していた。
「頭に鍼(はり)を刺す」
ドクターがそう答えていた。それを聞いて、安琪儿も安琪儿のお母さんも、びっくりしていた。
「そんなことをして大丈夫なのですか。脳を傷つけるのではないですか」
安琪儿のお母さんは顔の色が真っ青になっていた。
「大丈夫だ。頭に鍼(はり)を刺すと言っても、頭皮の上に刺すだけだから、頭蓋骨の下にある脳に鍼(はり)が刺さることはない。安心しなさい」
ドクターがそう言った。それを聞いて安琪儿のお母さんは、少しは、ほっとしたような顔をしていた。でも安琪儿はこわばった表情を少しも変えないで、不安そうな顔をしていた。
「痛くはありませんか」
安琪儿のお母さんがドクターに聞いていた。ドクターは一瞬、間を置いてから
「痛くないといったら、うそになる。でも頭皮に鍼(はり)を刺すことで、これまで眠っていた脳が活性化して頭の働きがよくなる」
と答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんは安琪儿の顔色をうかがっていた。
「どうする。脳を傷つけることはなさそうだけど、少し痛いそうよ」
「わたし、頭に鍼(はり)を刺したくない」
安琪儿はそう答えて、首を激しく横に振った。それを見て、安琪儿のお母さんが
「でも少し我慢さえすれば、あなたの頭はよくなるのよ」
安琪儿のお母さんがそう言って、安琪儿の気持ちを変えさせようとしていた。安琪儿はそれでも、なかなか、うんとは言わないでいた。
「鍼(はり)を刺すことのほかにも、何かされるのでしょうか」
安琪儿のお母さんがドクターに聞いていた。
「知恵入りスープを飲ませる」
ドクターがそう答えていた。
「知恵入りスープって何ですか?」
聞きなれない言葉を耳にしたので、安琪儿のお母さんがドクターに聞き返していた。
「優秀な人の遺伝子から抽出したエキスを入れたスープのことだ。そのスープを飲むことで体を流れる血液の中にエキスが広く浸透していって、飲んだ人の頭がよくなる」
ドクターがそう言った。安琪儿のお母さんは、それを聞いて、うんうんと、うなずいていた。
「頭に鍼(はり)を刺して、知恵入りスープを飲むことで、うちの子の頭がよくなるのだったら、これ以上、うれしいことはありません。ドクター、よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんは、安琪儿の気持ちを確かめることもしないで、そう言った。
「分かりました。では処方箋を書くから、それを持って、治療費を払ってから帰りなさい。治療は明日から始めることにする。明日の午後四時過ぎに、ここに来ることができますか」
ドクターが聞いていた。
「できます。明日の午後四時過ぎに、ここへまた来ます」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
しばらく待っていると、ドクターが処方箋にサインをしてから安琪儿のお母さんに手渡した。
「ありがとうございます」
安琪儿のお母さんは処方箋を拝むように受け取ると、安琪儿の手を引いて診察室から出ていった。
ぼくと老いらくさんは安琪儿や安琪儿のお母さんのあとについて診察室を出た。安琪儿は治療を受けたくないような顔をしながら、渋々、お母さんのあとに続いていた。それを見て、ぼくの心は痛んだ。安琪儿がお母さんに
「お母さんは、あの人の言うことを本当に信じているの。あの人は、いい加減なことを言って、人をたぶらかして、お金儲けをしているようにしか、わたしには思えないわ」
と言った。それを聞いて安琪儿のお母さんが、むっとしたような顔をしながら
「子どものくせに、生意気な口をきくものではないわ。診察室の中に、たくさんの表彰状や感謝状や証明書が壁に貼ってあったのを、あなたも目にしたでしょう。あの人は立派なドクターよ」
と言って反論していた。安琪儿はそれでも引かなかった。
「学校の成績がよくないのは勉強する量が足りないからよ。鍼(はり)を刺したり、スープを飲むだけで、成績がよくなるわけではないわ」
安琪儿はお母さんにそう言った。
お母さんも負けなかった。
「勉強をあまりしなくても成績がよい子もいるし、たくさん勉強しても成績が悪い子もいるじゃない。もともとの脳に問題があると思うので、脳に刺激を与えたり、優秀な遺伝子から抽出したエキスを血液に入れることで学力が伸びると、お母さんは思っているわ」
安琪儿のお母さんがそう言った。
「……」
安琪儿は返す言葉が見つからないでいた。
「つべこべ言わないで、素直にお母さんの言うことを聞いて、鍼(はり)を刺したり、
スープを飲んでほしいわ。そうすることで、本当に効果があって、あなたの学力が伸びて、丁文涛にも匹敵するくらいになったら、あなただってうれしいはずよ」
安琪儿のお母さんがそう言った。すると意外にも、安琪儿は首を横に振っていた。
「わたしは丁文涛のような人にはなりたくないわ。丁文涛は頭はよいけど、頭が悪い人を馬鹿にするから、わたしは好きではない」
安琪儿がそう答えていた。
「だったら、どういう人になりたいの」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「馬小跳のようになりたいわ。馬小跳はわたしを馬鹿にしないから」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんが、不機嫌そうな顔をしながら、
「ふん、あんなやんちゃ坊主のどこがよいのよ」
と言葉を返していた。
安琪儿のお母さんと安琪儿は、それからまもなく玄関の外に出た。ぼくと老いらくさんも、ドアが開いたすきに外に出た。安琪儿のお母さんは『料金支払い所』で治療代を払ってから、うちへ帰っていった。
老いらくさんは人の話が分からないから、昨日、ぼくが診察室の中で聞いた話の一部始終を話してきかせた。
「『知能の発達が遅れているのは病気の一種だ』と、ドクターが言っていました。老いらくさんも、そう思いますか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「それは違うよ」
老いらくさんが、そう答えて、首を激しく横に振った。
「人がかかる病気にはいろいろなものがある。しかし知能の発達が遅れているのは病気ではない」
老いらくさんが語気を強めながら、そう言った。
「そうですよね。ぼくもそう思います」
ぼくは老いらくさんの意見に同調した。
「知能の発達が遅れているのは病気ではないことは、わしさえ知っている。それなのに人間の親がどうしてドクターの言うことを信じているのだろうか」
老いらくさんがけげんそうな顔をしていた。
「親たちがドクターの言うことを信じているのは、診察室の壁の上に、立派な賞状や感謝状や証明書がたくさん貼ってあったからだと思います。親たちはそれを見てから、感心したような顔をしていましたから」
ぼくはそう答えた。
「そんなものは、まやかしに過ぎないよ。親たちを信用させるために偽造したものかもしれないではないか」
老いらくさんがそう言った。
「もし本当にそうだとしたら、どうしてそんなことをしたのでしょうか」
ぼくは合点がいかなかった。
「わしにもよく分からない。以前はそんな突飛なことを言ったら、誰からも信用されなかったはずなのに、今の世の中は一体どうなっているのだろう」
老いらくさんが首をかしげていた。
「そうですねえ。ぼくにもよく分かりません」
ぼくはそう答えた。しばらく考えてから
「子どもの知能の発達が遅れているのは病気の一種だと言ったら、病気を治そうと思って、お金を払う親がいるかもしれないと思ったからではないでしょうか」
ぼくはそう言った。
「なるほど、そうかもしれないな。今は競争社会が激しいから、子どもを落伍させないためにお金をつぎ込む親が多いので、そこに目をつけた新手の商売かもしれないな」
老いらくさんがそう答えた。
「親たちを盲信させて、お金を儲けようとたくらんでいるのだったら、ぼくは絶対に許せません」
ぼくはそう言った。
「わしも同じだ」
老いらくさんがそう答えた。
「ドクターは処方箋を出していて、それに基づいて治療をおこなっていくようでした。どんな治療なのか、ぼくはとても興味を覚えました」
ぼくは老いらくさんにそう言った。
「わしも同じだ。治療している場面を見ぜひ見てみたい。これからいっしょに、あの能力開発研究所へもう一度、行ってみないか」
老いらくさんがそう提案した。
「いいですよ。ぼくもそう思っています」
ぼくはそう答えた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは翠湖公園を出て桜木横丁へ出かけて行った。
今日は週末だったから、桜木横丁へ花見見物に来る人の数は、いつも以上に多かった。ぼくと老いらくさんは人に踏まれないように塀のすぐ下の、わずかな隙間に沿って歩いていた。老いらくさんはぼくよりも体が小さいので、踏まれたら命にかかわるので、ぼくは気を遣って、背中に乗せてあげた。途中、何度か人とぶつかりそうになったが、かろうじて避けながら、白い二階建ての立派な能力開発研究所の前までやってくることができた。
建物の前には測定を待つ人たちの長い列ができていた。子ども連れの親子ばかりだった。その中に、一組、ぼくが知っている親子がいるのに気がついた。馬小跳と同じ集合アパートに住んでいる安琪儿とお母さんだった。ぼくと老いらくさんは、人ごみをかき分けるようにして、安琪儿とお母さんのほうへ近づいていった。安琪儿の声が聞こえた。
「お母さん、ここは何をするところ?」
「病気を治すところよ」
お母さんがそう答えていた。
「病気?」
安琪儿がけげんそうな顔をして聞き返していた。
「そう、病気よ。あなたは病気にかかっているから治療をしてあげようと思って」
お母さんがそう言っていた。
「わたし、どこも悪くないわ」
安琪儿がそう答えていた。
「そんなことないわ。あなたは頭が悪いわ」
お母さんが、顔色ひとつ変えないで、そう答えていた。
「……」
安琪儿は答に窮していた。
「ここのドクターは知能の発達が遅れているのは病気の一種だと考えていて、治療することで頭をよくすることができると言っている。あなたに頭がよくなってもらいたいと思っているから、あなたをここへ連れてきたの」
お母さんがそう答えていた。
「わたしは確かに学校の成績はあまりよくないわ。でも病気だからではないわ」
安琪儿がそう答えていた。
「それはどうだか分からないわ。お母さんは四十歳のときに、あなたを産んだから、もしかしたら高齢出産のために知能の発達に障害が出てきたのではないかと考えているの。もしそうだとしたら、あなたに本当に申し訳ないから治療をしてあげようと思っているの」
お母さんがそう言った。
「そんなことはないわ。お母さんのせいではないわ。わたしが努力をしないからよ」
安琪儿がそう答えていた。
「そう言ってくれると、気持ちが少しは楽になるわ。でもやはり知能の発達がほかの子どもよりも遅れているのは紛れもない事実だし、いい学校に行けなかったら、あとで幸せな生活が送れなくなるから、あなたの将来をとても心配しているの」
お母さんがそう言った。
「分かったわ。お母さんの気持ちが、よく分かったわ。でも、ここでは一体、どんなことをして、知能の発達を促そうとしているの」
安琪儿がお母さんに聞いていた。
「それはお母さんにもよく分からないわ。治療をしている場面を実際に見たことはないから」
お母さんがそう答えていた。
「実際に見たこともないのに信用できるの?」
安琪儿がけげんそうな顔をしていた。
「つべこべ言わないで、中に入っていける順番が来るのを静かに待ちなさいよ」
お母さんがそう言って、安琪儿の問いかけを、はぐらかそうとしていた。
やがて順番が来て、安琪儿とお母さんがドアの前まで進んでいった。ぼくと老いらくさんもいっしょについていった。ドアの前に立っていた受付の女の人が、にこやかな笑みを浮かべながら
「ようこそ、いらっしゃいました」
と言って、安琪儿のお母さんに、挨拶をしていた。
「うちの子は学校の成績はあまりよくないのですが、ここで治療を受けたら頭がよくなるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが、半信半疑の顔をしながら聞いていた。
「子どもは一人ひとり、持っている潜在能力が違っていますから、潜在能力が開花するまでにかかる時間には個人差があります。しかし時間はかかっても、ほとんどの場合、学力は確実に伸びると思います。治療を受ける前に最先端の科学技術に基づいた測定をおこないますから、その測定結果に基づいて、一番適切な治療方法を提示いたします」
受付の女の人が、そう答えていた。
「分かりました。うちの子は頭がよくないので、ここで治療を受けることによって頭がよくなることを願っています。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんが、そう言った。安琪儿がそれを聞いて、仏頂面をして
「お母さんは、わたしのことを頭がよくないと言っているけど、クラスの中には、わたしよりも、もっと成績の悪い子もいるわ。馬小跳も、いとこの韓力兄さんも、わたしは馬鹿ではないと言っているわ」
と、言葉をはさんだ。それを聞いて、安琪儿のお母さんは、むっとして
「何を言っているのよ。馬小跳も韓力も、子どもではないの。子どもの言うことを、うのみにして信じるとは、それこそ、あなたは馬鹿よ」
と言った。
「……」
激しく息巻いているお母さんの気勢に圧倒された安琪儿は返す言葉もなく、黙っているしかなかった。
「二人とも、ここで親子げんかはしないでください。知能の発達レベルがどれくらいなのか検査を希望されるようでしたら、まず、あそこで料金を払ってください」
受付の女の人がそう言って、向かい側を指さした。『料金支払い所』と書かれた紙が机の前に貼ってあって、お金を受け取る人が、いすの上に座っていた。検査料金が高かったので、安琪儿のお母さんは少し迷っていたが、花見見物のついでに立ち寄って、気持ちが高揚していたこともあって、「まあ、いいか」と言って、お金を払っていた。
「順番が来たら、お名前をお呼びいたしますから、お母様は外に待機して、お子様だけを中にお入れください」
受付の女の人が、そう言った。
「分かりました」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
列に並んでから十五分ほど待っていると、安琪儿の名前が呼ばれたので
「はい」
と元気よく答えてから、安琪儿は建物の中に入っていった。安琪儿のお母さんは建物の外にある待機所で不安そうな顔をしながら安琪儿が出てくるのを待っていた。
二十分ぐらいしてから、安琪儿が手に『検査報告書』と書かれた紙を持って出てきた。安琪儿のお母さんは、すぐに安琪儿のところに駆け寄っていって
「どうだった。どんな結果が出た?」
と聞いていた。安琪儿は何も答えないで、『検査報告書』と書かれた紙を、お母さんに見せていた。『検査報告書』には〇が一つ描かれているだけで、文字によるコメントは何も書かれていなかった。
「これはどういう意味なのかしら?」
お母さんが、けげんそうな顔をしていた。安琪儿も首をかしげていた。受付の女の人が
お母さんが手に持っている『検査報告書』を、のぞき込みながら
「大丈夫という意味です」
と答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんが
「治療を受けなくても大丈夫という意味ですか」
と聞き返していた。
「大丈夫は大丈夫です。でも◎に比べたら時間がかかります」
受付の女の人が、そう答えていた。
「そうですか。わたしは、気短でせっかちな性格ですから、時間がかかるのは嫌です」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「そうですか。だったら治療を受けさせますか」
受付の女の人が聞いていた。
「受けさせます。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんが、うなずいていた。
「分かりました。ではまずドクターの診察を受けさせるために料金を払ってください」
受付の女の人がそう言った。
「分かりました。払います」
安琪儿のお母さんは、そう答えてから、再び『料金支払い所』に行って、診察料金を払い込んでいた。
「今度はお母様もごいっしょに中に入ることができます」
受付の女の人がそう言ったので、安琪儿のお母さんが、うれしそうな顔をしていた。
それからまもなく安琪儿はお母さんといっしょに建物の中に入っていった。玄関のドアが開いたすきに、ぼくと老いらくさんも、建物の中に入り込んだ。ぼくと老いらくさんの姿は受付の女の人に見られたが、風のようにすっと入っていったので、女の人は、ぼくや老いらくさんを締め出すすべがなかった。ぼくと老いらくさんが建物の中に入ってから診察室の前に行くと、順番を待つ親子がすでに五組、待合室で待っているのが目に入った。診察室のドアが開いた瞬間に、ぼくと老いらくさんは、さっと診察室の中に入っていった。ぼくと老いらくさんは診察室のカーテンの後ろに隠れて、ドクターの診察の様子をカーテン越しに見ながら、安琪儿と安琪儿のお母さんが中に入ってくるのを待っていた。診察に当たっていたドクターは鋭い眼光で、見るからに怖そうな顔をしながら、いすの上にふんぞり返っていて、偉そうな態度で、子どもと、その保護者を見下すような目で見ていた。
しばらくしてから安琪儿が、お母さんに手を引かれながら診察室の中に入ってきた。安琪儿のお母さんは、診察室の壁一面に張られている、たくさんの表彰状や感謝状や証明書に目を奪われていて、(こんなに輝かしい実績がある人だから、信頼がおける人なのだ)と思っているように見えた。
ドクターは安琪儿のお母さんから『検査報告書』を受け取ると、しばらく見てから
「この子の学力を向上させるためには相当の治療を施さなければならないようだ」
と言った。安琪儿のお母さんは、それを聞いて、けげんそうな顔をしながら
「受付の女の人は、〇がついているので、治療を受けなくても大丈夫のレベルだと、おっしゃっていましたが……」
と言葉を返していた。
「それは安心させるために、そう言っただけだ。△や×よりはましだが、◎ではないので、学力を向上させるためには、相当の治療を施さなければならない」
ドクターがそう言った。
「分かりました。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「知能の発達が遅れているのは病気の一種だから、治療することができる。安心しなさい」
ドクターがそう言った。
「頭の手術をしなければなりませんか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「いや、その必要はない。〇という検査報告が出たのだから、その必要はない」
ドクターがそう言った。それを聞いて、安琪儿のお母さんは、ほっとしたような顔をしていた。安琪儿もよかったという顔をしていた。
「では具体的に、どのような方法で知能の発達を促されるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが興味深そうな顔をして聞き返していた。
「頭に鍼(はり)を刺す」
ドクターがそう答えていた。それを聞いて、安琪儿も安琪儿のお母さんも、びっくりしていた。
「そんなことをして大丈夫なのですか。脳を傷つけるのではないですか」
安琪儿のお母さんは顔の色が真っ青になっていた。
「大丈夫だ。頭に鍼(はり)を刺すと言っても、頭皮の上に刺すだけだから、頭蓋骨の下にある脳に鍼(はり)が刺さることはない。安心しなさい」
ドクターがそう言った。それを聞いて安琪儿のお母さんは、少しは、ほっとしたような顔をしていた。でも安琪儿はこわばった表情を少しも変えないで、不安そうな顔をしていた。
「痛くはありませんか」
安琪儿のお母さんがドクターに聞いていた。ドクターは一瞬、間を置いてから
「痛くないといったら、うそになる。でも頭皮に鍼(はり)を刺すことで、これまで眠っていた脳が活性化して頭の働きがよくなる」
と答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんは安琪儿の顔色をうかがっていた。
「どうする。脳を傷つけることはなさそうだけど、少し痛いそうよ」
「わたし、頭に鍼(はり)を刺したくない」
安琪儿はそう答えて、首を激しく横に振った。それを見て、安琪儿のお母さんが
「でも少し我慢さえすれば、あなたの頭はよくなるのよ」
安琪儿のお母さんがそう言って、安琪儿の気持ちを変えさせようとしていた。安琪儿はそれでも、なかなか、うんとは言わないでいた。
「鍼(はり)を刺すことのほかにも、何かされるのでしょうか」
安琪儿のお母さんがドクターに聞いていた。
「知恵入りスープを飲ませる」
ドクターがそう答えていた。
「知恵入りスープって何ですか?」
聞きなれない言葉を耳にしたので、安琪儿のお母さんがドクターに聞き返していた。
「優秀な人の遺伝子から抽出したエキスを入れたスープのことだ。そのスープを飲むことで体を流れる血液の中にエキスが広く浸透していって、飲んだ人の頭がよくなる」
ドクターがそう言った。安琪儿のお母さんは、それを聞いて、うんうんと、うなずいていた。
「頭に鍼(はり)を刺して、知恵入りスープを飲むことで、うちの子の頭がよくなるのだったら、これ以上、うれしいことはありません。ドクター、よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんは、安琪儿の気持ちを確かめることもしないで、そう言った。
「分かりました。では処方箋を書くから、それを持って、治療費を払ってから帰りなさい。治療は明日から始めることにする。明日の午後四時過ぎに、ここに来ることができますか」
ドクターが聞いていた。
「できます。明日の午後四時過ぎに、ここへまた来ます」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
しばらく待っていると、ドクターが処方箋にサインをしてから安琪儿のお母さんに手渡した。
「ありがとうございます」
安琪儿のお母さんは処方箋を拝むように受け取ると、安琪儿の手を引いて診察室から出ていった。
ぼくと老いらくさんは安琪儿や安琪儿のお母さんのあとについて診察室を出た。安琪儿は治療を受けたくないような顔をしながら、渋々、お母さんのあとに続いていた。それを見て、ぼくの心は痛んだ。安琪儿がお母さんに
「お母さんは、あの人の言うことを本当に信じているの。あの人は、いい加減なことを言って、人をたぶらかして、お金儲けをしているようにしか、わたしには思えないわ」
と言った。それを聞いて安琪儿のお母さんが、むっとしたような顔をしながら
「子どものくせに、生意気な口をきくものではないわ。診察室の中に、たくさんの表彰状や感謝状や証明書が壁に貼ってあったのを、あなたも目にしたでしょう。あの人は立派なドクターよ」
と言って反論していた。安琪儿はそれでも引かなかった。
「学校の成績がよくないのは勉強する量が足りないからよ。鍼(はり)を刺したり、スープを飲むだけで、成績がよくなるわけではないわ」
安琪儿はお母さんにそう言った。
お母さんも負けなかった。
「勉強をあまりしなくても成績がよい子もいるし、たくさん勉強しても成績が悪い子もいるじゃない。もともとの脳に問題があると思うので、脳に刺激を与えたり、優秀な遺伝子から抽出したエキスを血液に入れることで学力が伸びると、お母さんは思っているわ」
安琪儿のお母さんがそう言った。
「……」
安琪儿は返す言葉が見つからないでいた。
「つべこべ言わないで、素直にお母さんの言うことを聞いて、鍼(はり)を刺したり、
スープを飲んでほしいわ。そうすることで、本当に効果があって、あなたの学力が伸びて、丁文涛にも匹敵するくらいになったら、あなただってうれしいはずよ」
安琪儿のお母さんがそう言った。すると意外にも、安琪儿は首を横に振っていた。
「わたしは丁文涛のような人にはなりたくないわ。丁文涛は頭はよいけど、頭が悪い人を馬鹿にするから、わたしは好きではない」
安琪儿がそう答えていた。
「だったら、どういう人になりたいの」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「馬小跳のようになりたいわ。馬小跳はわたしを馬鹿にしないから」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて、安琪儿のお母さんが、不機嫌そうな顔をしながら、
「ふん、あんなやんちゃ坊主のどこがよいのよ」
と言葉を返していた。
安琪儿のお母さんと安琪儿は、それからまもなく玄関の外に出た。ぼくと老いらくさんも、ドアが開いたすきに外に出た。安琪儿のお母さんは『料金支払い所』で治療代を払ってから、うちへ帰っていった。

