天気……今日はとても良い天気に恵まれて、ぼくが、この時季で一番好きな空が高く広がっている。不純物が少しも含まれていないトルコ石のように澄んだ青空に、スイレンのような白い雲が、ところどころに浮かんでいて、ゆったりと流れていたからだ。
フェイナは以前とはすっかり変わってしまった。以前は悪事にはとても敏感だったから、誰かが悪いことをしようとしたら、冠を曲げていたが、今は容認するようになっていたからだ。お金儲けのために、桜木横丁の人たちがたくらんだことを、フェイナはそれほど悪いことだとは思っていないようだったので、ぼくは気持ちが、くさくさしていた。
「フェイナのことで思い悩んでいるようだが、あまり気にし過ぎないほうがいいよ」
老いらくさんが、ぼくにそう言った。
「どうしてですか。ぼくは以前のフェイナと馬が合ったのに、最近のフェイナには……」
ぼくは不満そうな顔をしながら、そう答えた。
「『郷に入っては郷に従え』と言うから、フェイナは、今住んでいる桜木横丁に住んでいる人たちが、客寄せのために考えついた奇策を受け入れているだけではないかと、わしは思っている」
老いらくさんがそう言った。
「確かに、そうかも知れません。でも飼い主さんの商売を助けるために愛嬌を振りまいているフェイナには親しみを感じなくなりました」
ぼくはそう答えた。
「フェイナは、もともと、商売には手を貸さない犬だったし、飼い主さんも商売はしない人だったから、何か理由があって、ああいうことをしているのではないだろうか。そのことに関して、フェイナは何か、言っていなかったか」
老いらくさんが聞いた。
「『桜木横丁には明るい面も暗い面もあるから、その両面を見るべきだわ』と言っていました」
ぼくはそう答えた。
「そうか、そんなことを言っていたか。だったら、一概にフェイナや、フェイナの飼い主さんの変わりようを責めるのではなくて、桜木横丁がどんなところなのか、調べてみようではないか。もっと悪いことをしている人や動物がいるかもしれない」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね。『百聞は一見に如かず』と言いますからね」
ぼくはそう答えた。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく、桜木横丁に出かけていった。相変わらず、花見客で、ごった返している桜木横丁の出入り口の付近にフェイナと、フェイナの飼い主さんがいて、花の冠や首飾りを売っている姿が見えた。桜の妖精に扮したフェイナの姿は、とても人目を惹いていたし、桜姫に扮した飼い主さんが、にっこり微笑みかけるだけで、露店にいっぱい並べてある桜の冠や首飾りは、これまでと同じように飛ぶように売れていた。
ぼくと老いらくさんは、人の足に踏まれないように気をつけながら、花見客であふれている桜木横丁の中に入っていった。本物の桜ではないと多くの人は知っているだろうに、どうしてこんなに夢中になれるのか、ぼくには、とんと見当もつかなかった。それでも人が多いことには変わりがなかったから、ぼくと老いらくさんは、人とぶつからないように、できるだけ塀のすぐ下のわずかな隙間に沿って歩いていた。
しばらく歩いていると、たくさんの人たちが立ち止まって、奇異な目をしながら、目の前にある白い建物のほうを見ていた。今までなかった新しい建物が、いつのまにか、そこにできていて、桜見物に来た人たちの目を引いていた。
「何だ、これは?」
「立派な建物ですが、誰かお金持ちの人の邸宅ができたのでしょうか」
「いや、そうではないみたいだ。建物の前に『能力開発研究所』と書かれた看板が出ている」
「何をするところでしょうか?」
「さあ、よく分からない。でも子ども連れの人がたくさん建物の前に並んでいるから、子どもを教育するところかもしれない」
「どんなところなのか、ちょっと行ってみませんか」
ぼくには人の話が分かるので、この横丁の一角に急に現れた建物が気になってしかたがなかった。
ぼくは老いらくさんといっしょに、建物のすぐ近くまで行って、この建物が何をするところなのか探ることにした。
玄関の前には白いガウンを着た女の人が立っていて、興味を覚えてやってきた人たちの質問に答えていた。
「ここは子どもたちの頭脳を鍛えるところです。ここで訓練を受けたら、たいていの子どもは、とても優秀な子どもになります」
女の人は自信にあふれた声で、そう答えていた。
「本当ですか?」
質問をした人は半信半疑の顔をしながら、そう問い返していた。
「九十九パーセント、賢くなります」
女の人はそう答えていた。
「一パーセントの子どもは変わらないということですか?」
質問をした人は意地悪そうな声で突っ込みを入れていた。
「この世の中に完璧ということはありませんから」
女の人は、顔色一つ変えないで、そう答えていた。
「具体的にどのようなことをして、子どもたちの頭脳を鍛えるのでしょうか」
別の人が聞いていた。
「この研究所の中には優秀な人の遺伝子から抽出したエキスが大切に保存してあります。そのエキスをスープに溶かしたものを飲ませたり、頭に鍼(はり)を刺して眠っている脳を活性化させます。そうすることで、知能指数がそれほど高くない子どもでも優秀な子どもに変えることができます」
女の人が太鼓判を押していた。
「頭に鍼(はり)を刺したら危ないのではないのですか?」
心配そうな声で聞き返す人がいた。
「そんなことはありません。鍼(はり)を打つのは頭皮の上だけです。頭蓋骨の下にある脳に鍼(はり)が直接刺さることはありませんので、どうかご安心ください」
女の人はそう答えていた。
「痛くないですか」
別の人がまた聞いていた。
「少し痛いかもしれません。でも脳に刺激を与えることで、眠っている脳が活性化して、頭がよくなるのです。頭がよくなったら、いい学校に入ることができます。それを思うと少しの痛みぐらい我慢すべきだと思います」
女の人がそう答えていた。女の人の説明を聞いて、うなずいている人が何人もいた。
「うちの子は学校の成績はあまりよくないのですが、ここで訓練を受けたら、頭がよくなるのでしょうか」
ある人が心配そうな声で、そう聞いていた。
「子どもは一人ひとり、持っている潜在能力が違っていますから、潜在能力が開花するまでにかかる時間には個人差があります。しかし、時間はかかっても、ほとんどの場合、学力が確実に伸びると思います」
女の人がそう答えていた。
「子どもが持っている潜在能力が、どれくらいなのか知ることはできますか」
別の人が聞いていた。
「もちろん知ることができます。訓練を始める前に、最先端の科学技術に基づいた測定をおこないます」
女の人がそう答えていた。
「測定したあとで、子どもに訓練を受けさせるかどうか決めることができますか?」
ある人が聞いていた。
「もちろん、できます。測定を希望する人は、まずお金を払ってください」
女の人がそう言った。女の人の向かい側には机といすがあって、机の前には『料金支払い所』と書かれた紙が貼ってあって、いすにはお金を受け取る人が座っていた。測定料金が少し高かったので、人々は連れてきた子どもに測定を受けさせようかどうか、しばらく迷っているように見えた。しかし、ほとんどの人が、花見見物で浮かれていたこともあって、お金の出費はいとわずに、次から次へと『料金支払い所』の前に並び始めた。
しばらくしてから、玄関のドアが開いて、中から十歳ぐらいの男の子が出てきた。それを見て、玄関から少し離れたところで待機していた女の人が、並んでいる人たちをかき分けるようにして、さっと前に出てきた。
「測定結果はどうだった?」
女の人がそう聞いていた。男の子のお母さんのように思えた。
「自分でもよく分からない」
男の子は何とも言えないような顔をしていた。
「測定のあとで、結果の説明はなかったの」
お母さんが聞き返していた。
「何もなかった」
男の子は首を横に振っていた。
「あんなにたくさんお金を払ったのに、どうして何の説明もなかったのだろう」
お母さんは、そう、つぶやきながら、心中、穏やかではないような顔をしていた。
「どんな測定を受けたの?」
お母さんが男の子に聞いていた。
「建物の中に入ってからすぐ左側に『検査室』と書かれた部屋があったので、その中に入っていった。部屋の中には誰もいなかった。録音された音の指示に従って、部屋の中にあるベッドの上に横たわって、頭にバンドを巻いてから天井を向いて五分間、じっとしていた。すると頭に照明が当てられて、ぱちぱちと言うフラッシュの音が聞こえた。そのあと検査が終わったという音が流れて、五分間待つように指示された。指示にしたがって五分間、ベッドに横たわったまま待っていた。するとベッドの横にある機械から『検査報告書』と書かれた紙が出てきた。これが、その報告書」
男の子はお母さんに、そう言って、報告書を渡していた。ところが、報告書には〇がつけられているだけで、文字によるコメントは一言も書かれていなかった。けげんに思ったお母さんは、玄関の前に立っていた女の人に
「これはどういう意味でしょうか」
と、いぶかしそうな顔をしながら聞いていた。
「大丈夫だということです」
女の人はそう答えていた。お母さんは、それでもまだ釈然としないような顔をしていた。どのような点が足りないかや、どのような点に重点を置いて改善していかなければならないかを知りたそうな顔をしていた。お母さんのそのような気持ちを見通して女の人が
「この検査は、あくまでも診察に入る前の予備検査です。具体的なアドバイスは、これから専門のドクターがマンツーマンで懇切丁寧におこなっていきます。お子様の詳しい状況の説明は、あとでドクターがおこいますから、どうかご安心ください」
と答えていた。それを聞いて、お母さんが
「分かりました。ではよろしくお願いいたします」
と言っていた。
それからまもなく、男の子のお母さんは再び『料金支払い所』と書かれている所に行って、ドクターの診察を受けるための料金を払い込んでいた。診察を受けるために、男の子は今度はお母さんといっしょに建物の中に入っていった。玄関のドアが開いたすきに、ぼくと老いらくさんも、建物の中に入って、診察室の中にこっそり忍び込んでいった。診察室の中には、眼光が鋭くて、こわおもての顔をした中年の男がいた。この男がドクターなのだろうかと思った。ドクターというよりも、やくざのように見える人だった。ぼくと老いらくさんは、カーテンの後ろに隠れて診察の様子を見ていた。ドクターは男の子のお母さんから『検査報告書』と書かれた紙を受け取ると、小さな声で、つぶやくように
「この子の学力を向上させるためには相当の治療を施さなければならないようだ」
と言った。それを聞いて男の子のお母さんが異を唱えた。
「でも〇がついているではないですか」
「〇は〇でも◎ではないから、学力を向上させるためには時間がかかる。△や×ではないから、その点では、学力を向上させる余地があるから大丈夫だと言える。安心しなさい」
ドクターが、そう答えていた。
「知能の発達が遅れているのは病気の一種だから、治療を施せばけっして治せないことはない。わしの言うことを信じて、この子の能力の開発をわしに任せなさい」
ドクターが自信ありげにそう言った。それを聞いて、男の子のお母さんは、うなずいていた。
「さっき、玄関のところで、この研究所には優秀な人の遺伝子から抽出したエキスがあって、それを飲ませたり、頭に鍼(はり)を刺して脳を活性化させて、子どもの頭をよくするという話を聞きました。本当にそんなことをして効果があるのでしょうか」
男の子のお母さんがドクターに聞き返していた。それを聞いてドクターは壁にいっぱい貼ってある賞状や感謝状や証明書を指さしながら
「これがわしの実績を物語っている何よりの証拠だ」
と、誇らしげに言っていた。男の子のお母さんは、金字で書かれていて、きらきらと輝いている賞状や感謝状や証明書を、まぶしそうに見ながら、ドクターに心から敬意を払っていた。
ドクターはそのあと処方箋を書いて、サインをしてから、男の子のお母さんに渡していた。処方箋を見て、男の子のお母さんは、びっくりしたような顔をしながら
「えっ、こんなに高いの」
と言って、色を失っていた。
「高いのは嫌いですか」
ドクターがそう聞いていた。
「そうではありませんが、思っていた以上に高いから……」
男の子のお母さんは、答に詰まっていた。
「これはわしが独自に考えて作り出した専売特許だから、値段が張るのは致し方ない。しかし効果はてきめんだから、お子様の将来を考えたら、けっして割に合わない投資ではない」
ドクターがそう言った。男の子のお母さんは、しばらく考えてから
「分かりました。乗りかかった舟から降りるわけにはいきませんから、お金を払います。ただし今日はお花見に来ただけですから、持ち合わせがありません。明日、もう一度、この横丁へお花見に来ますから、そのときにお支払いいたします。それでよろしいでしょうか」
と答えていた。
「いいですよ。お待ちしております」
ドクターがそう答えていた。
それからまもなく男の子のお母さんは、男の子を連れて診察室から出て行った。ぼくと老いらくさんも、診察室のドアが開いたすきに診察室から、そっと外に出た。ぼくと老いらくさんは、そのあと、この建物の二階に上がっていって、バルコニーから、外の景色を眺めた。外は相変わらず、桜見物の人でにぎわっていた。もし、造花を枝にくくりつけてなかったら、晩秋のこの時季に、この横丁がこんなににぎわうことはなかっただろうと、ぼくは思った。枯葉がひらひらと舞い散るわびしいこの横丁に話題性を与えて、たくさんの人を呼び込んでお金儲けをするために誰かが仕組んだわなに、うまくはめられて、酔っている人たちを見ながら、ぼくは複雑な気持ちになっていた。
フェイナは以前とはすっかり変わってしまった。以前は悪事にはとても敏感だったから、誰かが悪いことをしようとしたら、冠を曲げていたが、今は容認するようになっていたからだ。お金儲けのために、桜木横丁の人たちがたくらんだことを、フェイナはそれほど悪いことだとは思っていないようだったので、ぼくは気持ちが、くさくさしていた。
「フェイナのことで思い悩んでいるようだが、あまり気にし過ぎないほうがいいよ」
老いらくさんが、ぼくにそう言った。
「どうしてですか。ぼくは以前のフェイナと馬が合ったのに、最近のフェイナには……」
ぼくは不満そうな顔をしながら、そう答えた。
「『郷に入っては郷に従え』と言うから、フェイナは、今住んでいる桜木横丁に住んでいる人たちが、客寄せのために考えついた奇策を受け入れているだけではないかと、わしは思っている」
老いらくさんがそう言った。
「確かに、そうかも知れません。でも飼い主さんの商売を助けるために愛嬌を振りまいているフェイナには親しみを感じなくなりました」
ぼくはそう答えた。
「フェイナは、もともと、商売には手を貸さない犬だったし、飼い主さんも商売はしない人だったから、何か理由があって、ああいうことをしているのではないだろうか。そのことに関して、フェイナは何か、言っていなかったか」
老いらくさんが聞いた。
「『桜木横丁には明るい面も暗い面もあるから、その両面を見るべきだわ』と言っていました」
ぼくはそう答えた。
「そうか、そんなことを言っていたか。だったら、一概にフェイナや、フェイナの飼い主さんの変わりようを責めるのではなくて、桜木横丁がどんなところなのか、調べてみようではないか。もっと悪いことをしている人や動物がいるかもしれない」
老いらくさんがそう言った。
「そうですね。『百聞は一見に如かず』と言いますからね」
ぼくはそう答えた。
ぼくと老いらくさんは、それからまもなく、桜木横丁に出かけていった。相変わらず、花見客で、ごった返している桜木横丁の出入り口の付近にフェイナと、フェイナの飼い主さんがいて、花の冠や首飾りを売っている姿が見えた。桜の妖精に扮したフェイナの姿は、とても人目を惹いていたし、桜姫に扮した飼い主さんが、にっこり微笑みかけるだけで、露店にいっぱい並べてある桜の冠や首飾りは、これまでと同じように飛ぶように売れていた。
ぼくと老いらくさんは、人の足に踏まれないように気をつけながら、花見客であふれている桜木横丁の中に入っていった。本物の桜ではないと多くの人は知っているだろうに、どうしてこんなに夢中になれるのか、ぼくには、とんと見当もつかなかった。それでも人が多いことには変わりがなかったから、ぼくと老いらくさんは、人とぶつからないように、できるだけ塀のすぐ下のわずかな隙間に沿って歩いていた。
しばらく歩いていると、たくさんの人たちが立ち止まって、奇異な目をしながら、目の前にある白い建物のほうを見ていた。今までなかった新しい建物が、いつのまにか、そこにできていて、桜見物に来た人たちの目を引いていた。
「何だ、これは?」
「立派な建物ですが、誰かお金持ちの人の邸宅ができたのでしょうか」
「いや、そうではないみたいだ。建物の前に『能力開発研究所』と書かれた看板が出ている」
「何をするところでしょうか?」
「さあ、よく分からない。でも子ども連れの人がたくさん建物の前に並んでいるから、子どもを教育するところかもしれない」
「どんなところなのか、ちょっと行ってみませんか」
ぼくには人の話が分かるので、この横丁の一角に急に現れた建物が気になってしかたがなかった。
ぼくは老いらくさんといっしょに、建物のすぐ近くまで行って、この建物が何をするところなのか探ることにした。
玄関の前には白いガウンを着た女の人が立っていて、興味を覚えてやってきた人たちの質問に答えていた。
「ここは子どもたちの頭脳を鍛えるところです。ここで訓練を受けたら、たいていの子どもは、とても優秀な子どもになります」
女の人は自信にあふれた声で、そう答えていた。
「本当ですか?」
質問をした人は半信半疑の顔をしながら、そう問い返していた。
「九十九パーセント、賢くなります」
女の人はそう答えていた。
「一パーセントの子どもは変わらないということですか?」
質問をした人は意地悪そうな声で突っ込みを入れていた。
「この世の中に完璧ということはありませんから」
女の人は、顔色一つ変えないで、そう答えていた。
「具体的にどのようなことをして、子どもたちの頭脳を鍛えるのでしょうか」
別の人が聞いていた。
「この研究所の中には優秀な人の遺伝子から抽出したエキスが大切に保存してあります。そのエキスをスープに溶かしたものを飲ませたり、頭に鍼(はり)を刺して眠っている脳を活性化させます。そうすることで、知能指数がそれほど高くない子どもでも優秀な子どもに変えることができます」
女の人が太鼓判を押していた。
「頭に鍼(はり)を刺したら危ないのではないのですか?」
心配そうな声で聞き返す人がいた。
「そんなことはありません。鍼(はり)を打つのは頭皮の上だけです。頭蓋骨の下にある脳に鍼(はり)が直接刺さることはありませんので、どうかご安心ください」
女の人はそう答えていた。
「痛くないですか」
別の人がまた聞いていた。
「少し痛いかもしれません。でも脳に刺激を与えることで、眠っている脳が活性化して、頭がよくなるのです。頭がよくなったら、いい学校に入ることができます。それを思うと少しの痛みぐらい我慢すべきだと思います」
女の人がそう答えていた。女の人の説明を聞いて、うなずいている人が何人もいた。
「うちの子は学校の成績はあまりよくないのですが、ここで訓練を受けたら、頭がよくなるのでしょうか」
ある人が心配そうな声で、そう聞いていた。
「子どもは一人ひとり、持っている潜在能力が違っていますから、潜在能力が開花するまでにかかる時間には個人差があります。しかし、時間はかかっても、ほとんどの場合、学力が確実に伸びると思います」
女の人がそう答えていた。
「子どもが持っている潜在能力が、どれくらいなのか知ることはできますか」
別の人が聞いていた。
「もちろん知ることができます。訓練を始める前に、最先端の科学技術に基づいた測定をおこないます」
女の人がそう答えていた。
「測定したあとで、子どもに訓練を受けさせるかどうか決めることができますか?」
ある人が聞いていた。
「もちろん、できます。測定を希望する人は、まずお金を払ってください」
女の人がそう言った。女の人の向かい側には机といすがあって、机の前には『料金支払い所』と書かれた紙が貼ってあって、いすにはお金を受け取る人が座っていた。測定料金が少し高かったので、人々は連れてきた子どもに測定を受けさせようかどうか、しばらく迷っているように見えた。しかし、ほとんどの人が、花見見物で浮かれていたこともあって、お金の出費はいとわずに、次から次へと『料金支払い所』の前に並び始めた。
しばらくしてから、玄関のドアが開いて、中から十歳ぐらいの男の子が出てきた。それを見て、玄関から少し離れたところで待機していた女の人が、並んでいる人たちをかき分けるようにして、さっと前に出てきた。
「測定結果はどうだった?」
女の人がそう聞いていた。男の子のお母さんのように思えた。
「自分でもよく分からない」
男の子は何とも言えないような顔をしていた。
「測定のあとで、結果の説明はなかったの」
お母さんが聞き返していた。
「何もなかった」
男の子は首を横に振っていた。
「あんなにたくさんお金を払ったのに、どうして何の説明もなかったのだろう」
お母さんは、そう、つぶやきながら、心中、穏やかではないような顔をしていた。
「どんな測定を受けたの?」
お母さんが男の子に聞いていた。
「建物の中に入ってからすぐ左側に『検査室』と書かれた部屋があったので、その中に入っていった。部屋の中には誰もいなかった。録音された音の指示に従って、部屋の中にあるベッドの上に横たわって、頭にバンドを巻いてから天井を向いて五分間、じっとしていた。すると頭に照明が当てられて、ぱちぱちと言うフラッシュの音が聞こえた。そのあと検査が終わったという音が流れて、五分間待つように指示された。指示にしたがって五分間、ベッドに横たわったまま待っていた。するとベッドの横にある機械から『検査報告書』と書かれた紙が出てきた。これが、その報告書」
男の子はお母さんに、そう言って、報告書を渡していた。ところが、報告書には〇がつけられているだけで、文字によるコメントは一言も書かれていなかった。けげんに思ったお母さんは、玄関の前に立っていた女の人に
「これはどういう意味でしょうか」
と、いぶかしそうな顔をしながら聞いていた。
「大丈夫だということです」
女の人はそう答えていた。お母さんは、それでもまだ釈然としないような顔をしていた。どのような点が足りないかや、どのような点に重点を置いて改善していかなければならないかを知りたそうな顔をしていた。お母さんのそのような気持ちを見通して女の人が
「この検査は、あくまでも診察に入る前の予備検査です。具体的なアドバイスは、これから専門のドクターがマンツーマンで懇切丁寧におこなっていきます。お子様の詳しい状況の説明は、あとでドクターがおこいますから、どうかご安心ください」
と答えていた。それを聞いて、お母さんが
「分かりました。ではよろしくお願いいたします」
と言っていた。
それからまもなく、男の子のお母さんは再び『料金支払い所』と書かれている所に行って、ドクターの診察を受けるための料金を払い込んでいた。診察を受けるために、男の子は今度はお母さんといっしょに建物の中に入っていった。玄関のドアが開いたすきに、ぼくと老いらくさんも、建物の中に入って、診察室の中にこっそり忍び込んでいった。診察室の中には、眼光が鋭くて、こわおもての顔をした中年の男がいた。この男がドクターなのだろうかと思った。ドクターというよりも、やくざのように見える人だった。ぼくと老いらくさんは、カーテンの後ろに隠れて診察の様子を見ていた。ドクターは男の子のお母さんから『検査報告書』と書かれた紙を受け取ると、小さな声で、つぶやくように
「この子の学力を向上させるためには相当の治療を施さなければならないようだ」
と言った。それを聞いて男の子のお母さんが異を唱えた。
「でも〇がついているではないですか」
「〇は〇でも◎ではないから、学力を向上させるためには時間がかかる。△や×ではないから、その点では、学力を向上させる余地があるから大丈夫だと言える。安心しなさい」
ドクターが、そう答えていた。
「知能の発達が遅れているのは病気の一種だから、治療を施せばけっして治せないことはない。わしの言うことを信じて、この子の能力の開発をわしに任せなさい」
ドクターが自信ありげにそう言った。それを聞いて、男の子のお母さんは、うなずいていた。
「さっき、玄関のところで、この研究所には優秀な人の遺伝子から抽出したエキスがあって、それを飲ませたり、頭に鍼(はり)を刺して脳を活性化させて、子どもの頭をよくするという話を聞きました。本当にそんなことをして効果があるのでしょうか」
男の子のお母さんがドクターに聞き返していた。それを聞いてドクターは壁にいっぱい貼ってある賞状や感謝状や証明書を指さしながら
「これがわしの実績を物語っている何よりの証拠だ」
と、誇らしげに言っていた。男の子のお母さんは、金字で書かれていて、きらきらと輝いている賞状や感謝状や証明書を、まぶしそうに見ながら、ドクターに心から敬意を払っていた。
ドクターはそのあと処方箋を書いて、サインをしてから、男の子のお母さんに渡していた。処方箋を見て、男の子のお母さんは、びっくりしたような顔をしながら
「えっ、こんなに高いの」
と言って、色を失っていた。
「高いのは嫌いですか」
ドクターがそう聞いていた。
「そうではありませんが、思っていた以上に高いから……」
男の子のお母さんは、答に詰まっていた。
「これはわしが独自に考えて作り出した専売特許だから、値段が張るのは致し方ない。しかし効果はてきめんだから、お子様の将来を考えたら、けっして割に合わない投資ではない」
ドクターがそう言った。男の子のお母さんは、しばらく考えてから
「分かりました。乗りかかった舟から降りるわけにはいきませんから、お金を払います。ただし今日はお花見に来ただけですから、持ち合わせがありません。明日、もう一度、この横丁へお花見に来ますから、そのときにお支払いいたします。それでよろしいでしょうか」
と答えていた。
「いいですよ。お待ちしております」
ドクターがそう答えていた。
それからまもなく男の子のお母さんは、男の子を連れて診察室から出て行った。ぼくと老いらくさんも、診察室のドアが開いたすきに診察室から、そっと外に出た。ぼくと老いらくさんは、そのあと、この建物の二階に上がっていって、バルコニーから、外の景色を眺めた。外は相変わらず、桜見物の人でにぎわっていた。もし、造花を枝にくくりつけてなかったら、晩秋のこの時季に、この横丁がこんなににぎわうことはなかっただろうと、ぼくは思った。枯葉がひらひらと舞い散るわびしいこの横丁に話題性を与えて、たくさんの人を呼び込んでお金儲けをするために誰かが仕組んだわなに、うまくはめられて、酔っている人たちを見ながら、ぼくは複雑な気持ちになっていた。

