天気……朝、目が覚めるとレースのような薄い霧が降りていて、この町全体がすっぽりと霧の中に包まれていた。辺りの景色がもうろうとしていたので、まるで幻想の世界を見ているように感じられた。
ぼくと老いらくさんは、昨夜は馬小跳の部屋で一晩過ごした。ぼくも老いらくさんも姿が見えないので、馬小跳に気づかれることはなかった。今日は週末なので、馬小跳はいつもより遅くまで寝ていた。ぼくと老いらくさんはいつもと同じように早く起きて、馬小跳のうちを出た。そのあと安琪儿のうちへ行った。玄関のドアが少し開いていたので、中へそっと入り込むと、安琪儿のお父さんとお母さんが言い争っている声が聞こえてきた。
「天才児とは、生まれつき特別な才能を持っている子どものことだ。うちの安琪儿にはそんな才能は備わっていない。無駄なことはするな」
安琪儿のお父さんが、そう言っていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが反論していた。
「才能が備わっているかいないか、どうやって分かるのですか。無駄だとも思いません」
「お母さんは安琪儿のためを思ってしていると言っているが、おれにはお母さんが自分の虚栄心を満足させるためにしているようにしか思えない」
お父さんがそう言った。
「そんなことはありません。あくまでも安琪儿のためを思ってしているのです」
お母さんは一歩も引かなかった。
「口では何とでも言える。天才児育成センターが、どんなところなのか、おれはよく知らないが、おまえたちがそこに行くことに、おれは断固反対する」
お父さんが強い口調で、そう言い放った。それを聞いて、お母さんが
「安琪儿は、わたしが産んだ子どもですから、わたしの思いどおりにさせます。もうこれ以上、お父さんと話をしても、らちが明かない」
と不機嫌そうに言った。それからまもなく、お母さんは安琪儿を連れて、うちの外へ出て行った。ぼくと老いらくさんも、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついて、うちの外へ出た。
「お母さん、これから、どこへ行くの?」
安琪儿がお母さんに聞いていた。
「天才児育成センターに行くわ。お父さんが言ったことは少しも気にすることはないから」
安琪儿のお母さんが安琪儿にそう言っていた。
それからまもなく安琪儿と安琪儿のお母さんは、朝霧が濃くたちこめる中を桜木横丁にやってきた。木の枝にくくりつけてある造花の桜が霧の中でぼんやりと見えていて、とても幻想的だった。知らない人が見れば本物の桜かと思えるほどきれいだった。
安琪儿と安琪儿のお母さんが天才児育成センターの前までやってきて、玄関のインターホンを押すと、女の人が出てきて、にこやかな笑顔で
「いらっしゃい。お待ちしていました」
と言って迎えてくれた。
「今日は博士の診察を受けられますか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「大丈夫です。昨日はネズミが部屋の中にいたから、博士が気にして診察しなかったので、申し訳ありませんでした。ネズミはあのあと、いなくなりましたから、今日は診察できます」
女の人がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんは、ほっとしていた。
「診察は何時から始まりますか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「博士は学会に出かけているので、今はまだいません。午後から来ます」
女の人がそう答えていた。
「そうですか。ではまた後で出直してきます」
安琪儿のお母さんがそう言っていた。
「分かりました。でもせっかく来られたのですから、このセンターの中にある本屋に行って、訓練で使うテキストを買ってから帰ってください」
女の人がそう言った。
「このセンターの中に本屋があるのですか?」
安琪儿のお母さんがけげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「あります。そこで売っている本を買って読むことで子どもの頭がよくなります」
女の人がそう言った。
「どんな本があるのでしょうか?」
安琪儿のお母さんが興味深そうな顔をして聞き返していた。
「行ってみられたら、分かります。わたしが、案内いたします」
女の人がそう答えていた。
それからまもなく、安琪儿と安琪儿のお母さんは、女の人に案内されて、建物の一番奥の右側にある部屋の前まで歩いていった。女の人が部屋のドアをノックすると、部屋の中から
「どうぞ」
と言う男の人の声が聞こえた。
女の人がドアを開けて、安琪儿と安琪儿のお母さんに
「どうぞ中に入ってください」
と言っていた。安琪儿と安琪儿のお母さんは部屋の中に入ったとたん、びっくりしていた。本がたくさんあって、しかも、大人向けの難しい本ばかりだったからだ。
「子どもにこんな本を読ませるのですか?」
安琪儿のお母さんが、けげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「読ませます」
女の人がそう言った。
「こんなに難しい本を子どもが読めるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが心配そうな声で聞いていた。
「子どもだからと言って、童話や絵本ばかり読ませていたら、普通の子どもにしか育ちません。ここは天才児育成センターですから、最初から難しい本を読ませます」
女の人がそう説明していた。
「でも子どもには理解できないのではないですか?」
安琪儿のお母さんが首をかしげながら、そう聞いていた。すると女の人は
「最初はそうかもしれません。それでも無理に読ませます。『読書百篇、意おのずから通ず』という言葉があります。専門のスタッフが、一つ一つの言葉や文の意味を、子どもにも分かるような易しい言葉に置き換えて説明しながら何度も読ませていきます。そうすることで書かれていることが、だんだん分かるようになってきて、子どもの頭は次第によくなっていきます」
と言っていた。安琪儿のお母さんは、それを聞いて、うなずいていた。
「こんな難しい本をわたしは読みたくないわ」
安琪儿が口をへの字にまげながら、そう言った。
「何を言っているのよ。こんなかたい本を読むことで、あなたの頭は賢くなるのだから」
お母さんが言葉を返していた。
「わたしはまだ子どもだから、子ども向けに書かれた童話や絵本を読みたいわ」
安琪儿がそう言った。
「だめです。そんな本を読んでも賢くなりません」
安琪儿のお母さんは譲らなかった。
安琪儿と安琪儿のお母さんがもめているのを見て、女の人が
「凡才と天才の違いは何だと思いますか?」
と、安琪儿のお母さんに聞いていた。
「頭がよいかどうかでしょう?」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
「そうです。その通りです。では、もう一つおたずねします。天才は生まれつき頭がよかったのだと思いますか?」
女の人がまた聞いていた。
「……」
安琪儿のお母さんは答に詰まっていた。
「生まれつき頭がよい子は、いないことはありません。でも、とても少ないです。大部分の子どもは普通の子どもとして生まれてきます。でも適切な方法を用いて子どもの頭を鍛えていけば、凡才を天才に変えることができます。もしそうでなかったら、天才児育成センターを作ることはしませんでした」
女の人がそう答えていた。安琪儿のお母さんは、それを聞いてうなずいていた。
「適切な方法というのは、難しい本をたくさん読ませることなのですか?」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「そうです。その通りです。大人の本を読ませるのは、そのためです。大人の本と言っても、いろいろありますが、知識を増やすことで頭がよくなるので、小説などは読ませません。心を豊かにすることよりも知識を豊かにして、子どもをいい学校へ進学させることがわたしたちの願いです。子どもたちの親もそれを願っているはずです」
女の人がそう答えていた。
「分かりました。ここの方針に賛同するものがあります」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「そうですか。それはよかったです。ではこれから、わたしがこのセンターで使う本を選んであげますから、それを買って帰って、うちでも、読んであげてください」
女の人がそう言った。
「分かりました、そうします」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
女の人はそれからまもなく、本屋の中をあちこち動き回ってから、八冊の本を持ってきた。どれも難しそうな本ばかりだったので、安琪儿のお母さんは自分でも読めるかどうか自信がないような顔をしながら、本を受け取っていた。そのあと、安琪儿のお母さんはお金を払うために本をレジに持っていった。レジに座っていた男の人が
「全部で六百五十元です」
と言った。それを聞いて安琪儿のお母さんが、びっくりしたような顔をしていた。
「そんなに高いのですか?」
安琪儿のお母さんは、そう言って、目を白黒させていた。それを見て女の人が
「高いのは嫌いですか?」
と聞いていた。
「いえ、そういうわけではありませんが、思っていた以上に高かったから」
と答えていた。
「訓練するための費用も高いですよ」
女の人がそう言った。
「どれくらいですか?」
安琪儿のお母さんが聞き返していた。
「コースによって違います。一番最短のコースは週に二回、週末に訓練して、六か月続けるコースがあります。そのコースの費用はトータルで一万五千元です。
女の人がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんは
「高いですね」
と答えていた。
「確かに高いかもしれませんが、お子様への投資だと思って我慢する親御さんもいらっしゃいます。天才になったら、もとは十分にとれますから」
女の人がそう言っていた。
「分かりました。わたしも我慢することにします」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
「ご立派なお母様でいらっしゃいますね」
女の人がそう言って、安琪儿のお母さんを、ほめそやしていた。
「いえいえ、それほどでもありません」
安琪儿のお母さんが謙遜していた。
「前金として、費用をいくらか払っていただけないでしょうか?」
女の人が聞いていた。
「今はあまり持ち合わせがありません。千元ぐらいだったら払えないこともありませんが」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「いいですよ。それで充分です」
女の人がそう答えていた。
それからまもなく安琪儿のお母さんと安琪儿は、女の人のあとについて本屋を出て、事務室に入っていった。安琪儿のお母さんがお金を払っているのが見えた。領収書を受け取ったあと、安琪儿のお母さんが
「博士は午後の何時ごろ、お見えになられますか?」
と聞いていた。
「午後の二時にここへ参ります。お昼ご飯をお召し上がりになられてから、本を持ってまたここへお越しください」
女の人がそう答えていた。
「分かりました。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんがそう言っていた。
安琪儿のお母さんは、それからまもなく安琪儿の手を引いて、天才児育成センターをあとにしていた。ぼくと老いらくさんも、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついていった。
「うちへ帰る前に、能力開発研究所に行ってみましょう。昨日は閉まっていたけど、今日は開いているかしら」
安琪儿のお母さんが不安そうな顔をしながら、そう言った。
「分かったわ」
安琪儿がそう答えていた。
それからまもなく安琪儿と安琪儿のお母さんは能力開発研究所のすぐ近くまでやってきた。するとそのとき、向こうから、男の子の手を引いたお母さんがやってきて
「あそこは営業停止になりました」
と教えてくれた。それを聞いて安琪儿も安琪儿のお母さんも、びっくりしたような顔
をしていた。
「えっ、どうしてですか?」
安琪儿のお母さんが聞き返していた。
「あのドクターは、にせもので、本当は綿あめ売りの商人だったそうです。誰かがそれに気がついて怪しく思って、警察に知らせたそうです。そのために警察の手が入って建物の中が調べられて、知恵入りスープも鍼(はり)治療も、まやかしだったことが判明したからです」
女の人がそう言っていた。
「えっ、本当ですか。でも診察室の中には賞状や感謝状や資格証明書が、たくさん貼ってありましたよね」
安琪儿のお母さんがそう言った。
「あれはみんな偽造したものだったようです」
女の人がそう答えていた。
それを聞いて安琪儿のお母さんは言葉を失っていた。だまされたことを知って、安琪儿のお母さんは、がくぜんとしていた。安琪儿も失意に沈んだような顔をしていた。能力開発研究所の玄関の前には立ち入り禁止のロープが張られていて、その近くに警官が何人かいて、人が近寄らないように警戒に当たっているのが見えた。
安琪儿のお母さんと安琪儿は能力開発研究所の前を素通りして、暗い顔をしながら、うちへ帰っていった。集合アパートの前まで帰ってきて、一階でエレベーターを待っていると、エレベーターのドアが開いて、思いがけず、エレベーターの中から馬小跳と、馬小跳のお父さんが出てきた。
「安琪儿、どこへ行っていたのだ?」
馬小跳が安琪儿に聞いていた。
「天才児育成センターに行っていた」
安琪儿がそう答えていた。
「そうか。天才児育成センターはどんなことをするところなのか?」
馬小跳が聞いていた。
「難しい本をたくさん読ませて、頭を鍛えることをするらしいわ」
安琪儿がそう答えていた。
「そうか。大変だな」
馬小跳がそう答えていた。安琪儿のお母さんが、かばんを開けて
「こんな本を読ませるの」
と言って、馬小跳と、馬小跳のお父さんに見せていた。
「えっ、これは大人向けの本ではないか」
「安琪儿にこんな本が読めるのか」
馬小跳と、馬小跳のお父さんは、びっくりしていた。
「わたしに読めるわけがないでしょう」
安琪儿がそう答えていた。
「読めないのに、天才児育成センターでは、こんな本を読ませようとするのか」
馬小跳のお父さんが、けげんそうな顔をしていた。
「専門のスタッフが、一つ一つの言葉や文の意味を子どもにも分かるような易しい言葉に置き換えて説明しながら何度も読ませていくそうです。そうすることで子どもの頭が次第によくなっていくそうです」
安琪儿のお母さんが、そう話していた。それを聞いて馬小跳のお父さんは半信半疑の顔をしていた。
「分からないでもないが、子どもの興味や発達のレベルに合ったものを読ませることのほうがもっと大切だとは思わないのですか」
馬小跳のお父さんが安琪儿のお母さんに聞いていた。
「子どもだからと言って、童話や絵本や漫画ばかり読ませていると知能の発達が遅れるそうです」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。馬小跳のお父さんが安琪儿に
「これらの本を読みたいと思っているの?」
と聞いていた。
「思っていないわ」
安琪儿がすげなく、そう答えていた。
安琪儿のお母さんが、そのあと馬小跳と馬小跳のお父さんに、能力開発研究所のことについて話していた。ドクターが本当は綿あめを売る商人だったことや、知恵入りスープや鍼(はり)治療はいかさまで、そのことが発覚して営業停止になったことを話したので、馬小跳も馬小跳のお父さんも、びっくりしたような顔をしていた。
「そうだったのか、子どものことを大切に思う親心につけこんで、人をだます男は許せない」
馬小跳のお父さんが憤慨していた。馬小跳がそのあと安琪儿に
「ぼくとお父さんは、これから博物館に行くところだ。博物館で、今、この国の各地に生息している蝶の標本を集めた特設展をやっているので、それを見に行こうと思っているところなのだ。よかったら、おまえもいっしょに行かないか」
と誘っていた。
「わあ、いいわねえ。わたしは蝶が大好きだから行きたいわ」
安琪儿はそう答えて、にっこりと笑みを浮かべていた。馬小跳のお父さんが、それを見て安琪儿のお母さんに
「よかったら、お母さんもいっしょに行きませんか。博物館に行く前に、いっしょにおいしいお店でご飯でも食べましょう」
と誘っていた。
「すみません。せっかくのお誘いですが、行くことはできません。うちでお昼ご飯を食べてから、天才児育成センターに、この子をもう一度連れて行って、博士に診てもらうことになっていますから」
と言っていた。
それを聞いて、安琪儿は渋い顔をしていた。
「博士に診てもらうのは、今日でなくてもいいじゃない。急用ができたから行けなくなったと言って、明日以降に延ばしてもらったらいいじゃない」
安琪儿が、お母さんに、そう言っていた。すると安琪儿のお母さんは、不愉快そうな顔をしながら
「何を言っているのよ。一日でも早く、博士に診てもらいたいと思っているお母さんの気持ちが分からないの」
と言っていた。
「……」
安琪儿は答に窮していた。
それからまもなく安琪儿は安琪儿のお母さんに手を引かれながら、エレベーターに乗って自分のうちへ帰っていった。
ぼくと老いらくさんは、昨夜は馬小跳の部屋で一晩過ごした。ぼくも老いらくさんも姿が見えないので、馬小跳に気づかれることはなかった。今日は週末なので、馬小跳はいつもより遅くまで寝ていた。ぼくと老いらくさんはいつもと同じように早く起きて、馬小跳のうちを出た。そのあと安琪儿のうちへ行った。玄関のドアが少し開いていたので、中へそっと入り込むと、安琪儿のお父さんとお母さんが言い争っている声が聞こえてきた。
「天才児とは、生まれつき特別な才能を持っている子どものことだ。うちの安琪儿にはそんな才能は備わっていない。無駄なことはするな」
安琪儿のお父さんが、そう言っていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが反論していた。
「才能が備わっているかいないか、どうやって分かるのですか。無駄だとも思いません」
「お母さんは安琪儿のためを思ってしていると言っているが、おれにはお母さんが自分の虚栄心を満足させるためにしているようにしか思えない」
お父さんがそう言った。
「そんなことはありません。あくまでも安琪儿のためを思ってしているのです」
お母さんは一歩も引かなかった。
「口では何とでも言える。天才児育成センターが、どんなところなのか、おれはよく知らないが、おまえたちがそこに行くことに、おれは断固反対する」
お父さんが強い口調で、そう言い放った。それを聞いて、お母さんが
「安琪儿は、わたしが産んだ子どもですから、わたしの思いどおりにさせます。もうこれ以上、お父さんと話をしても、らちが明かない」
と不機嫌そうに言った。それからまもなく、お母さんは安琪儿を連れて、うちの外へ出て行った。ぼくと老いらくさんも、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついて、うちの外へ出た。
「お母さん、これから、どこへ行くの?」
安琪儿がお母さんに聞いていた。
「天才児育成センターに行くわ。お父さんが言ったことは少しも気にすることはないから」
安琪儿のお母さんが安琪儿にそう言っていた。
それからまもなく安琪儿と安琪儿のお母さんは、朝霧が濃くたちこめる中を桜木横丁にやってきた。木の枝にくくりつけてある造花の桜が霧の中でぼんやりと見えていて、とても幻想的だった。知らない人が見れば本物の桜かと思えるほどきれいだった。
安琪儿と安琪儿のお母さんが天才児育成センターの前までやってきて、玄関のインターホンを押すと、女の人が出てきて、にこやかな笑顔で
「いらっしゃい。お待ちしていました」
と言って迎えてくれた。
「今日は博士の診察を受けられますか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「大丈夫です。昨日はネズミが部屋の中にいたから、博士が気にして診察しなかったので、申し訳ありませんでした。ネズミはあのあと、いなくなりましたから、今日は診察できます」
女の人がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんは、ほっとしていた。
「診察は何時から始まりますか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「博士は学会に出かけているので、今はまだいません。午後から来ます」
女の人がそう答えていた。
「そうですか。ではまた後で出直してきます」
安琪儿のお母さんがそう言っていた。
「分かりました。でもせっかく来られたのですから、このセンターの中にある本屋に行って、訓練で使うテキストを買ってから帰ってください」
女の人がそう言った。
「このセンターの中に本屋があるのですか?」
安琪儿のお母さんがけげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「あります。そこで売っている本を買って読むことで子どもの頭がよくなります」
女の人がそう言った。
「どんな本があるのでしょうか?」
安琪儿のお母さんが興味深そうな顔をして聞き返していた。
「行ってみられたら、分かります。わたしが、案内いたします」
女の人がそう答えていた。
それからまもなく、安琪儿と安琪儿のお母さんは、女の人に案内されて、建物の一番奥の右側にある部屋の前まで歩いていった。女の人が部屋のドアをノックすると、部屋の中から
「どうぞ」
と言う男の人の声が聞こえた。
女の人がドアを開けて、安琪儿と安琪儿のお母さんに
「どうぞ中に入ってください」
と言っていた。安琪儿と安琪儿のお母さんは部屋の中に入ったとたん、びっくりしていた。本がたくさんあって、しかも、大人向けの難しい本ばかりだったからだ。
「子どもにこんな本を読ませるのですか?」
安琪儿のお母さんが、けげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「読ませます」
女の人がそう言った。
「こんなに難しい本を子どもが読めるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが心配そうな声で聞いていた。
「子どもだからと言って、童話や絵本ばかり読ませていたら、普通の子どもにしか育ちません。ここは天才児育成センターですから、最初から難しい本を読ませます」
女の人がそう説明していた。
「でも子どもには理解できないのではないですか?」
安琪儿のお母さんが首をかしげながら、そう聞いていた。すると女の人は
「最初はそうかもしれません。それでも無理に読ませます。『読書百篇、意おのずから通ず』という言葉があります。専門のスタッフが、一つ一つの言葉や文の意味を、子どもにも分かるような易しい言葉に置き換えて説明しながら何度も読ませていきます。そうすることで書かれていることが、だんだん分かるようになってきて、子どもの頭は次第によくなっていきます」
と言っていた。安琪儿のお母さんは、それを聞いて、うなずいていた。
「こんな難しい本をわたしは読みたくないわ」
安琪儿が口をへの字にまげながら、そう言った。
「何を言っているのよ。こんなかたい本を読むことで、あなたの頭は賢くなるのだから」
お母さんが言葉を返していた。
「わたしはまだ子どもだから、子ども向けに書かれた童話や絵本を読みたいわ」
安琪儿がそう言った。
「だめです。そんな本を読んでも賢くなりません」
安琪儿のお母さんは譲らなかった。
安琪儿と安琪儿のお母さんがもめているのを見て、女の人が
「凡才と天才の違いは何だと思いますか?」
と、安琪儿のお母さんに聞いていた。
「頭がよいかどうかでしょう?」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
「そうです。その通りです。では、もう一つおたずねします。天才は生まれつき頭がよかったのだと思いますか?」
女の人がまた聞いていた。
「……」
安琪儿のお母さんは答に詰まっていた。
「生まれつき頭がよい子は、いないことはありません。でも、とても少ないです。大部分の子どもは普通の子どもとして生まれてきます。でも適切な方法を用いて子どもの頭を鍛えていけば、凡才を天才に変えることができます。もしそうでなかったら、天才児育成センターを作ることはしませんでした」
女の人がそう答えていた。安琪儿のお母さんは、それを聞いてうなずいていた。
「適切な方法というのは、難しい本をたくさん読ませることなのですか?」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「そうです。その通りです。大人の本を読ませるのは、そのためです。大人の本と言っても、いろいろありますが、知識を増やすことで頭がよくなるので、小説などは読ませません。心を豊かにすることよりも知識を豊かにして、子どもをいい学校へ進学させることがわたしたちの願いです。子どもたちの親もそれを願っているはずです」
女の人がそう答えていた。
「分かりました。ここの方針に賛同するものがあります」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「そうですか。それはよかったです。ではこれから、わたしがこのセンターで使う本を選んであげますから、それを買って帰って、うちでも、読んであげてください」
女の人がそう言った。
「分かりました、そうします」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
女の人はそれからまもなく、本屋の中をあちこち動き回ってから、八冊の本を持ってきた。どれも難しそうな本ばかりだったので、安琪儿のお母さんは自分でも読めるかどうか自信がないような顔をしながら、本を受け取っていた。そのあと、安琪儿のお母さんはお金を払うために本をレジに持っていった。レジに座っていた男の人が
「全部で六百五十元です」
と言った。それを聞いて安琪儿のお母さんが、びっくりしたような顔をしていた。
「そんなに高いのですか?」
安琪儿のお母さんは、そう言って、目を白黒させていた。それを見て女の人が
「高いのは嫌いですか?」
と聞いていた。
「いえ、そういうわけではありませんが、思っていた以上に高かったから」
と答えていた。
「訓練するための費用も高いですよ」
女の人がそう言った。
「どれくらいですか?」
安琪儿のお母さんが聞き返していた。
「コースによって違います。一番最短のコースは週に二回、週末に訓練して、六か月続けるコースがあります。そのコースの費用はトータルで一万五千元です。
女の人がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんは
「高いですね」
と答えていた。
「確かに高いかもしれませんが、お子様への投資だと思って我慢する親御さんもいらっしゃいます。天才になったら、もとは十分にとれますから」
女の人がそう言っていた。
「分かりました。わたしも我慢することにします」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
「ご立派なお母様でいらっしゃいますね」
女の人がそう言って、安琪儿のお母さんを、ほめそやしていた。
「いえいえ、それほどでもありません」
安琪儿のお母さんが謙遜していた。
「前金として、費用をいくらか払っていただけないでしょうか?」
女の人が聞いていた。
「今はあまり持ち合わせがありません。千元ぐらいだったら払えないこともありませんが」
安琪儿のお母さんが、そう答えていた。
「いいですよ。それで充分です」
女の人がそう答えていた。
それからまもなく安琪儿のお母さんと安琪儿は、女の人のあとについて本屋を出て、事務室に入っていった。安琪儿のお母さんがお金を払っているのが見えた。領収書を受け取ったあと、安琪儿のお母さんが
「博士は午後の何時ごろ、お見えになられますか?」
と聞いていた。
「午後の二時にここへ参ります。お昼ご飯をお召し上がりになられてから、本を持ってまたここへお越しください」
女の人がそう答えていた。
「分かりました。よろしくお願いします」
安琪儿のお母さんがそう言っていた。
安琪儿のお母さんは、それからまもなく安琪儿の手を引いて、天才児育成センターをあとにしていた。ぼくと老いらくさんも、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついていった。
「うちへ帰る前に、能力開発研究所に行ってみましょう。昨日は閉まっていたけど、今日は開いているかしら」
安琪儿のお母さんが不安そうな顔をしながら、そう言った。
「分かったわ」
安琪儿がそう答えていた。
それからまもなく安琪儿と安琪儿のお母さんは能力開発研究所のすぐ近くまでやってきた。するとそのとき、向こうから、男の子の手を引いたお母さんがやってきて
「あそこは営業停止になりました」
と教えてくれた。それを聞いて安琪儿も安琪儿のお母さんも、びっくりしたような顔
をしていた。
「えっ、どうしてですか?」
安琪儿のお母さんが聞き返していた。
「あのドクターは、にせもので、本当は綿あめ売りの商人だったそうです。誰かがそれに気がついて怪しく思って、警察に知らせたそうです。そのために警察の手が入って建物の中が調べられて、知恵入りスープも鍼(はり)治療も、まやかしだったことが判明したからです」
女の人がそう言っていた。
「えっ、本当ですか。でも診察室の中には賞状や感謝状や資格証明書が、たくさん貼ってありましたよね」
安琪儿のお母さんがそう言った。
「あれはみんな偽造したものだったようです」
女の人がそう答えていた。
それを聞いて安琪儿のお母さんは言葉を失っていた。だまされたことを知って、安琪儿のお母さんは、がくぜんとしていた。安琪儿も失意に沈んだような顔をしていた。能力開発研究所の玄関の前には立ち入り禁止のロープが張られていて、その近くに警官が何人かいて、人が近寄らないように警戒に当たっているのが見えた。
安琪儿のお母さんと安琪儿は能力開発研究所の前を素通りして、暗い顔をしながら、うちへ帰っていった。集合アパートの前まで帰ってきて、一階でエレベーターを待っていると、エレベーターのドアが開いて、思いがけず、エレベーターの中から馬小跳と、馬小跳のお父さんが出てきた。
「安琪儿、どこへ行っていたのだ?」
馬小跳が安琪儿に聞いていた。
「天才児育成センターに行っていた」
安琪儿がそう答えていた。
「そうか。天才児育成センターはどんなことをするところなのか?」
馬小跳が聞いていた。
「難しい本をたくさん読ませて、頭を鍛えることをするらしいわ」
安琪儿がそう答えていた。
「そうか。大変だな」
馬小跳がそう答えていた。安琪儿のお母さんが、かばんを開けて
「こんな本を読ませるの」
と言って、馬小跳と、馬小跳のお父さんに見せていた。
「えっ、これは大人向けの本ではないか」
「安琪儿にこんな本が読めるのか」
馬小跳と、馬小跳のお父さんは、びっくりしていた。
「わたしに読めるわけがないでしょう」
安琪儿がそう答えていた。
「読めないのに、天才児育成センターでは、こんな本を読ませようとするのか」
馬小跳のお父さんが、けげんそうな顔をしていた。
「専門のスタッフが、一つ一つの言葉や文の意味を子どもにも分かるような易しい言葉に置き換えて説明しながら何度も読ませていくそうです。そうすることで子どもの頭が次第によくなっていくそうです」
安琪儿のお母さんが、そう話していた。それを聞いて馬小跳のお父さんは半信半疑の顔をしていた。
「分からないでもないが、子どもの興味や発達のレベルに合ったものを読ませることのほうがもっと大切だとは思わないのですか」
馬小跳のお父さんが安琪儿のお母さんに聞いていた。
「子どもだからと言って、童話や絵本や漫画ばかり読ませていると知能の発達が遅れるそうです」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。馬小跳のお父さんが安琪儿に
「これらの本を読みたいと思っているの?」
と聞いていた。
「思っていないわ」
安琪儿がすげなく、そう答えていた。
安琪儿のお母さんが、そのあと馬小跳と馬小跳のお父さんに、能力開発研究所のことについて話していた。ドクターが本当は綿あめを売る商人だったことや、知恵入りスープや鍼(はり)治療はいかさまで、そのことが発覚して営業停止になったことを話したので、馬小跳も馬小跳のお父さんも、びっくりしたような顔をしていた。
「そうだったのか、子どものことを大切に思う親心につけこんで、人をだます男は許せない」
馬小跳のお父さんが憤慨していた。馬小跳がそのあと安琪儿に
「ぼくとお父さんは、これから博物館に行くところだ。博物館で、今、この国の各地に生息している蝶の標本を集めた特設展をやっているので、それを見に行こうと思っているところなのだ。よかったら、おまえもいっしょに行かないか」
と誘っていた。
「わあ、いいわねえ。わたしは蝶が大好きだから行きたいわ」
安琪儿はそう答えて、にっこりと笑みを浮かべていた。馬小跳のお父さんが、それを見て安琪儿のお母さんに
「よかったら、お母さんもいっしょに行きませんか。博物館に行く前に、いっしょにおいしいお店でご飯でも食べましょう」
と誘っていた。
「すみません。せっかくのお誘いですが、行くことはできません。うちでお昼ご飯を食べてから、天才児育成センターに、この子をもう一度連れて行って、博士に診てもらうことになっていますから」
と言っていた。
それを聞いて、安琪儿は渋い顔をしていた。
「博士に診てもらうのは、今日でなくてもいいじゃない。急用ができたから行けなくなったと言って、明日以降に延ばしてもらったらいいじゃない」
安琪儿が、お母さんに、そう言っていた。すると安琪儿のお母さんは、不愉快そうな顔をしながら
「何を言っているのよ。一日でも早く、博士に診てもらいたいと思っているお母さんの気持ちが分からないの」
と言っていた。
「……」
安琪儿は答に窮していた。
それからまもなく安琪儿は安琪儿のお母さんに手を引かれながら、エレベーターに乗って自分のうちへ帰っていった。

