怪しい町

天気……昼間は柔らかな光が降り注いでいたが、日が沈むと急に気温が下がってきて、寒さが体に応えるようになった。暗い夜空には三日月が出ていて、透き通った光が地上を静かに照らしていた。

ぼくと老いらくさんは、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとについて、天才児育成センターを出た。老いらくさんが大きな声を出したために、ぼくや老いらくさんが部屋の中にいることが博士に気づかれてしまったので、ぼくは老いらくさんに注意を促した。
「姿は見えなくても声は聞こえるのですから、これからは気をつけてください」
ぼくは老いらくさんに、ひそひそとした声でそう言った。
「分かった、そうするよ」
老いらくさんが申し訳なさそうな声でそう答えた。
「わしは、更生してからこの年まで長年修行を積んできたが、感情を抑える力はもっと向上させなければならない」
老いらくさんがそう言った。
ぼくと老いらくさんは安琪儿や安琪儿のお母さんに声を聞かれないようにするために、距離を開けながら、ついていった。
「あの人は確かにネズミ退治の薬を売っていた人ですか。見間違いではないのですか?」
ぼくはもう一度、老いらくさんに聞いた。
「わしは以前、何度も、あの人のあとをつけていたから、見間違うはずがない。確かに、あの人だ」
老いらくさんがそう言った。
「どうして、あとをつけていたのですか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「わしの子孫が、うっかり口にして中毒したら大変だからだ」
老いらくさんがそう答えた。
「薬を見つけ次第、処分していたのですか」
ぼくは老いらくさんに聞いた。
「そうだよ。わしは子孫を大切にしているから、子孫が中毒してもだえているのを見るのは、しのびないからだ。ところが、あるとき、わしは、うっかりして薬を見落としてしまった。子孫が食べたあとだったので、もうだめかと思った。ところが子孫は中毒することはなかった。わしや、わしの子孫である家ネズミには効かない薬だったからだ」
老いらくさんがそう言った。
「野ネズミは口に入れたら危ないが、あの人が売っているネズミ退治の薬は、食べても安全であることが分かったから、わしも一口、食べてみた。するととてもおいしいことが分かった。わしの子孫たちも今は喜んで食べている」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか、それはよかったですね」
ぼくは笑みを浮かべながら、そう答えた。
「あの人は薬を売る場所を毎日変えていた。薬が効かないという苦情を避けるためかもしれない」
老いらくさんがそう言った。ぼくはうなずいた。
「老いらくさんの声を聞いて、博士はびくびくしていました。ネズミがよほど嫌いなようです」
ぼくはそう言った。
「わしもそう思う。だからあの人は以前、ネズミを退治するための薬を売っていたのだ」
老いらくさんがそう言った。ぼくはそれを聞いて、何となく納得がいった。
(あの博士は、にせもので、本当はネズミ退治の薬を売る商人だったのだ)
そう思うと、ぼくはとても腹立たしくなった。
「今に見ていろ、わしが、あの人の化けの皮をはがして、ぎゃふんと言わせてやるからな」
老いらくさんが憤って、そう言った。
ぼくと老いらくさんは、夜の暗闇の中を、ひそひそと話をしながら、安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついていった。
安琪儿と安琪儿のお母さんは自分たちの家がある集合アパートの前まで帰ってきた。一階の玄関口の辺りでエレベーターを待っているときに、思いがけず、馬小跳が外からやってきた。手に買い物袋を提げていたので、スーパーで何かを買って来た帰りのように見えた。
「あれ、誰かと思ったら馬小跳じゃない」
安琪儿がびっくりして馬小跳に声をかけていた。
「おまえは今日も、知恵入りスープを飲んだり、頭に鍼(はり)を刺してきたのか」
馬小跳がそう聞いていた。安琪儿は首を横に振った。
「今日は、あそこが臨時休業になっていたから、知恵入りスープは飲んでいない。鍼(はり)も刺していない」
安琪儿がそう答えていた。
「そうか、それは残念だったな」
馬小跳がそう言った。
「そんなことはないわ。知恵入りスープは毎日飲んでもいいけど、鍼(はり)は毎日刺したくないから」
安琪儿がそう言った。それを聞いて安琪儿のお母さんが、きつい目で安琪儿を見ながら
「何を言っているのよ。一日でも早く、あなたの頭がよくなることを望んでいる親心が、あなたには分からないの?」
と言っていた。それを聞いて馬小跳が
「おばさん、かりかりしないでください」
と言っていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが非難の矛先を馬小跳に向けていた。
「今に安琪儿は、あなたとはくらべものにならないほど頭がよくなるから」
安琪儿のお母さんはそう言って、冷ややかな目で馬小跳を見ていた。
馬小跳は、それを聞いておかしくなって、くすくす笑っていた。
「何がおかしいのよ。安琪儿は、これから天才児教育を受けるから、近いうちに成績がぐんと伸びるわ」
安琪儿のお母さんが誇らしそうに、そう言っていた。
それからまもなくエレベーターのドアが開いたので、安琪儿と安琪儿のお母さんと馬小跳はいっしょにエレベーターの中に入っていった。ぼくと老いらくさんも中に入った。
安琪儿と安琪儿のお母さんは三階に住んでいるし、馬小跳は五階に住んでいるので、エレベーターが三階に着いてドアが開いたとき安琪儿と安琪儿のお母さんはエレベーターの外へ出た。ぼくと老いらくさんは馬小跳のうちへ行くことにしたから、そのままエレベーターに乗っていた。エレベーターが五階に着いてドアが開いたとき、ぼくと老いらくさんもエレベーターの外に出た。馬小跳がうちの玄関のドアを開けた瞬間に、ぼくと老いらくさんも、馬小跳のうちへ、さっと入り込んだ。ぼくも老いらくさんも姿がまったく見えないので、馬小跳に気づかれることはなかった。うちの中に入ると、台所のほうから、おいしそうなにおいがしてきた。馬小跳のお母さんが料理を作っているところだった。買い物から帰ってきた馬小跳が買い物袋をお母さんにわたすと、お母さんが
「ありがとう」
と言って受け取っていた。
ぼくも老いらくさんも、とてもおなかがすいていたので、何か食べたくなった。台所の中をあちこち見回していると、ぼくの好きなミニトマトや、老いらくさんの好きな干しビーフがあったので、ぼくも老いらくさんも、よくないとは知りつつも、姿が見えないのをいいことに盗み食いした。ぼくは音を立てないで静かにかんでいたが、老いらくさんは、くしゃくしゃと音を立てながらかじっていた。その音が馬小跳のお母さんの耳に入ったので、馬小跳のお母さんは、けげんそうな顔をしながら
「あれ、何の音だろう?」
と言って、音がするほうを見ていた。干しビーフは見えたものの、ネズミの姿は見えなかったので、音がしたのは気のせいだったのかなあと、お母さんは思っているようだった。
しばらくしてから、馬小跳たちは夕ご飯を食べ始めた。お父さんも帰っていたので、家族そろって楽しそうにご飯を食べていた。馬小跳はお父さんやお母さんに、今日学校で習ったことや、安琪儿のことについて話していた。
「安琪儿は今日もお母さんに連れられて能力開発研究所に行ったそうだよ。でも休みだったから、知恵入りスープを飲まなかったし、鍼(はり)も刺さなかったと言っていた」
馬小跳がそう話していた。お母さんがそれを聞いて
「安琪儿は今のままの安琪儿でいいと思うから、そんなものを飲んだり、鍼(はり)を刺す必要はないわ」
と言っていた。
「ぼくもそう思う。でも安琪儿のお母さんは不満そうな顔をしていた」
馬小跳がそう答えていた。
「安琪儿の学校の成績がよくないのは知っているけど、それは知能の発達が遅れているからではなくて、子どもらしい純粋さが強すぎるからだと、わたしは思っています。その純粋さを失わないで、これからも大切に育てていけば、将来、安琪儿は子どものための仕事が立派にできるのではないかと、わたしは思っています」
馬小跳のお母さんがそう言っていた。
それを聞いて、(何と先見の明があるお母さんだろう)と、ぼくは思った。まるで安琪儿が将来、小学校の教師になったり、童話作家になることを見越しているかのような答だったからだ。ぼくは以前、ミー先生の傘を借りて、子どもたちの将来の姿をタイムスリップして見たことがあるが、あのときの安琪儿の姿を、ぼくは思い浮かべていた。
馬小跳のお父さんが、お母さんの意見に同意していた。
「安琪儿のお母さんは自分の考えが絶対に正しいと信じて、子どもにその考え方を押しつけようとしている。そのために子どもはのびのびと生きられなくなり、かけがえのない個性がつぶされてしまう」
馬小跳のお父さんがそう言った。お父さんの意見を聞いて、お母さんがうなずいていた。
それからまもなく、玄関のインターホンが鳴ったので、馬小跳が玄関のほうに走っていってドアを開けた。するとドアの外に安琪儿が立っていた。
「どうしたのだ?」
馬小跳がけげんそうな顔をしながら安琪儿に聞いていた。
「今、お父さんとお母さんがケンカをしているの。耐えられないから、しばらくここに避難させてくれない?」
安琪儿が困ったような顔をしながら、哀願していた。
「何が原因なのだ?」
馬小跳が安琪儿に聞き返していた。
「わたしのことで、もめているの」
安琪儿が泣きそうな顔をしながら、そう言った。
「そうか、板挟みにあって、居場所を失ってここへ来たのか?」
馬小跳がそう聞いていた。安琪儿は、うなずいていた。
馬小跳のお母さんも玄関に出てきた。安琪儿から事情を聞いたあと
「ご飯は食べた?」
と聞いていた。安琪儿は首を横に振った。
「ご飯を食べている最中にケンカを始めたから、耐えられなくなって、食べている途中で、うちから出てきた」
安琪儿がそう答えていた。
「そうだったの。おなかがすいているでしょう。うちで食べていきなさいよ」
馬小跳のお母さんがそう言っていた。安琪儿はそれを聞いて、もじもじしていた。
「いいのよ、遠慮しないで」
馬小跳のお母さんがそう言った。
「食べていきなさいよ」
馬小跳のお父さんも玄関に出てきてそう言った。馬小跳もうなずいていた。安琪儿はそれでもどうしようかと思って迷っていたが、馬小跳のお母さんが
「さあ、遠慮しないで中に入って」
と言って、安琪儿の手を引っ張るようにして、うちの中に入れていた。
それからまもなく安琪儿は馬小跳の家族といっしょに夕ご飯を食べ始めた。ご飯を食べながら、馬小跳のお母さんが安琪儿に
「どうしてケンカを始めたの?」
と聞いていた。
「お母さんが、わたしを天才児育成センターに連れていくことをお父さんに話したら、お父さんが怒って、『そんなところに連れていっても何の意味もない。盲信もいいかげんにしろ』と言って声を荒らげたの。それを聞いてお母さんも引かなかったから、激しい口論になった」
安琪儿がそう答えていた。安琪儿の目には涙が浮かんでいた。馬小跳のお母さんはそれを見てブラウスのポケットからハンカチを取り出して、安琪儿の涙をそっとふいてあげていた。
「安琪儿、あなたは純真でいい子だから、お父さんとお母さんの意見が合わなくて衝突するのを見るのはとても辛いと思うわ。でも親は子どものしあわせを願っていることには変わりはないの。安琪儿のお父さんやお母さんの、それぞれの気持ちも分からないことはないわ。でも安琪儿は安琪儿らしく生きていってちょうだい。自分らしく生きていくことで、安琪儿は将来きっと、ほかの人にはない素晴らしい人生を送ることができるから」
馬小跳のお母さんがそう言った。それを聞いて安琪儿が
「おばさん、ありがとう。おばさんに、そうおっしゃっていただけると、とても心強く感じるわ。おばさんがおっしゃったことを肝に銘じて忘れないようにします」
安琪儿がそう答えていた。安琪儿は馬小跳の家族といっしょにご飯を食べ終わると、居間でしばらくテレビを見てから、馬小跳のお母さんに
「では、そろそろ、うちへ帰ることにします。ご飯とてもおいしかったです。おばさんとお話しして、気分が晴れました。ありがとうございます」
とお礼を言ってから、うちへ帰っていった。