怪しい町

天気……この町は晩秋から初冬にかけては空が曇っていて太陽が見えないことが多い。そのために、明るい光がふりそそいでいるときは貴重なひとときであり、公園の芝生の上に寝転がったり、ベンチの上で新聞や雑誌を読みながら、ひなたぼっこをしている人が、いつも以上に多くなる。

夕方の四時を過ぎたころ、安琪儿が、お母さんといっしょに能力開発研究所にやってきた。入口のすぐ前にある桜の木を見て、安琪儿もお母さんも、びっくりしていた。昨日までは咲いていた桜の花が影も形もなかったからだ。
「変だわねえ、どうしてだろう」
「ほかの木には咲いているのにね」
安琪儿とお母さんは、いぶかしそうな顔をしながら、入口の前までやってきた。
「あっ、臨時休業と書いてある」
安琪儿のお母さんが、びっくりしたような声でそう言った。
「本当だ。どうしてだろう。何かあったのかしら」
安琪儿も合点がいかないような顔をしていた。
「せっかく来たのにね。勝手に休まれては困るわ」
安琪儿のお母さんが不機嫌そうな顔をしていた。
それからまもなく、学校帰りの男の子を連れた女の人が安琪儿と安琪儿のお母さんのほうに近づいてきた。
「今日は休みだそうですよ、ドアの前にそう書いてあるから」
安琪儿のお母さんが、そう教えていた。
「そうですか。休みなら休みだと、事前に連絡してくれたらいいのにね」
男の子のお母さんも不機嫌そうな顔をしていた。
「ほら、この木をちょっと見てください」
安琪儿のお母さんが男の子のお母さんにそう言っていた。
「あっ、花が全然ない」
男の子のお母さんがびっくりしていた。男の子もびっくりして、目を丸くしていた。
「昨日まではきれいに咲いていたのに、何かあったのでしょうか」
男の子のお母さんが安琪儿のお母さんにけげんそうな声で聞いていた。
「分かりません。わたしもびっくりしているところです」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。男の子のお母さんは、それからまもなく、男の子を連れて、うちへ帰っていった。安琪儿のお母さんも安琪儿を連れて、うちへ帰り始めた。横丁の中を歩きながら、安琪儿のお母さんが安琪儿に
「あなたの頭がもっとよかったら、来なくてすんだから、無駄足を踏むことはなかったのに」
と言って、安琪儿に八つ当たりしていた。
「ごめんなさい」
安琪儿はそう言って殊勝に謝っていた。
ぼくと老いらくさんは安琪儿と安琪儿のお母さんのあとからついていくことにした。安琪儿のお母さんが、いらいらしていることを知ったから、帰る途中で、安琪儿の気持ちを傷つけるようなことを、また言うかもしれないと思って、心配になったからだ。もし安琪儿のお母さんが安琪儿に、ひどいことを言ったら、足にかみつこうとさえ思っていた。でも蹴とばされたらいやだから、気づかれないで、あとをつけていく方法が何かないかと思った。万年亀も、いっしょについてきてくれたので、ぼくは万年亀に聞いた。すると万年亀が
「わしは透明術を知っているので、おまえたちの姿を見えなくすることができる」
と言った。それを聞いて、ぼくは思わず、笑みを浮かべた。老いらくさんに、そのことを話すと、老いらくさんも、うれしそうな顔をしていた。
「どうやって姿を消すのですか?」
ぼくは興味津々とした顔をしながら万年亀に聞いた。
「わしが、おまえたちに、息を吹きかけるだけで、おまえたちの姿は消える」
万年亀がそう言った。それを聞いて、ぼくは万年亀が今朝早く、夜がまだ明ける前に、能力開発研究所の診察室の壁に貼ってあった賞状や証明書や感謝状に息を吹きかけて見えなくしていた場面を思い浮かべた。
「透明になったあと、もとに戻ることもできるのですか?」
ぼくは少し心配になったので、万年亀に聞いた。
「もちろんできる。心配はいらない」
万年亀がそう答えた。
「分かりました。ではお願いします」
ぼくは万年亀にそう言った。
「分かった。ではこれから息を吹きかける」
万年亀がそう答えた。それからまもなく万年亀は息を大きく吸い込んでから、ぼくと老いらくさんの体に、息を強く吹きかけた。するとぼくと老いらくさんの体は白い煙のようなものに包まれて、そのあと体が軽くなるのを感じた。
「さあ、これでいい。今、おまえたちの体は透明になったので、わしよりほかには、誰にも見えない」
万年亀がそう言った。
本当に姿が見えなくなったのか、ぼくも老いらくさんも確信が持てなかったので確かめることにした。桜木横丁の道路端にハンバーガーの店が出ていて、店の中から、いいにおいが出ていたので、店の中にこっそりと入っていって、ハンバーガーを、一つ、口にくわえて外に持ち出した。ところが店の人には、ぼくの姿が見えなかったのか、追いかけてこなかった。それを見て、ぼくは姿が見えなくなっていることを確信することができた。老いらくさんも、ぼくの真似をして、ソーセージをくわえて首尾よく外に持ち出すことができた。ぼくと老いらくさんが、店の外で盗んだものを食べていると、万年亀が怒ったような顔をしながら
「悪いことはやめろ」
と言って、ぼくと老いらくさんを一喝した。ぼくと老いらくさんは
「すみません」
「もう悪いことはしません」
と言って素直に謝った。食べ終わった後、ぼくと老いらくさんは、急いで安琪儿と安琪儿のお母さんのあとを追いかけていった。
桜木横丁の出口の近くまで来たとき、安琪儿のお母さんが急に足を止めて、通りの右側にある赤い建物に目を留めていた。
「『天才児育成センター』と書いてあるわ。何をするところだろう?」
安琪儿のお母さんが興味深そうに見ていた。中に入るかどうか、安琪儿のお母さんはしばらく迷っていたが、思い切ってドアのインターホンを押していた。するとしばらくしてからドアが開いて、中から眼鏡をかけた中年の女の人が出てきた。
「いらっしゃいませ。金文静と申します」
女の人が、にこやかな笑顔で挨拶をした。
「ここは何をするところでしょうか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「天才児を育成するところです」
女の人がそう答えていた。女の人は安琪儿を見ながら
「お嬢ちゃんも天才児になりたいでしょう?」
と聞いていた。安琪儿は首を横に振ってから
「わたしは天才児になりたくない」
と答えていた。意外な答が返ってきたので、女の人はびっくりしていたが、少しも慌てないで
「どうして、そう思うの?」
と言って、聞き返していた。
「わたしのクラスに丁文涛という子がいて、その子はとても頭がよいけど、わたしはあまり好きではないから」
安琪儿がそう答えていた。それを聞いて安琪儿のお母さんが、むっとしたような顔をしていた。
「あなたは頭が悪いから、ひがんでいるのよ」
と言って、安琪儿をきつい目で見ていた。
「ひがんでなんかいないわ。あの子は頭はよくても性格がよくないから嫌いなの」
安琪儿がそう答えていた。
「うちの子は知能の発達が遅れているのは事実です。IQがとても低いです。わたしが高齢出産で産んだ子だからかもしれません。知能の発達が遅れていると将来、有望ではないから、わたしは、この子のことを、とても心配しています」
安琪儿のお母さんがそう言っていた。
「でしたら、この『天才児育成センター』でお嬢様の訓練をさせていただけないでしょうか」
女の人は丁重にそう言っていた。
「IQが低くても天才児になれるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが聞いていた。
「大丈夫です。IQが高いか、低いかは、それほど問題ではありません」
女の人がそう答えていた。
「どうして、そう言えるのでしょうか」
安琪儿のお母さんが女の人に聞き返していた。
「ここのセンター長は、わたしの息子ですから、子どものころをよく知っています。IQがとても低くて、小学校のころの成績はクラスでビリに近かったです。わたしは息子の将来を心配して、北京にある『天才児育成センター』に週末ごとに息子を連れていきました。すると息子の成績がだんだんよくなってきて、高校は、エリート養成のための一流校に進学できました。大学も北京大学に合格できました。大学では教育学を専攻して幼児教育を学び、大学を卒業したあとは、大学院に進学して、天才児の育成に関する研究をおこなって優れた論文を書いて博士の称号を得ました。その研究成果を実践するために、息子は博士課程を修了してから、このセンターを作りました」
女の人がそう言った。それを聞いて、安琪儿のお母さんは、ここのセンター長の経歴のよさに、うっとりしていた。
「すごい人ですね。子どものころの成績がぱっとしなくても、将来、博士になれることを知って、わたしはとても感動しています。うちの娘も、ここで学ばせようかしら」
安琪儿のお母さんが、そう言った。
「そうですか。ありがたいです。でも、……」
女の人が、口をつぐんでいた。
「でも、何でしょうか」
安琪儿のお母さんが聞き返していた。
「ここではマンツーマンの指導をおこなっていますから、費用は安くはないですよ。子ども一人ひとりの能力や適性を科学的に分析して、その分析の結果に基づいて個別に指導していきますから」
女の人がそう答えていた。
「費用は問題ではありません。うちの娘が天才児になれば、わたしはとてもうれしいです。食べるものや着るものは節約してもいいと思っています。子どもの将来へ向けて投資するほうが、もっと大切ですから」
安琪儿のお母さんがそう答えていた。
「そうですか。素晴らしいです。先々のことを見通して考えることができるお母さんの親心に私は感動しました」
女の人がそう言っていた。
「ではこれから、わたしの息子である博士のところへ、お二人を連れていきます。どうぞ中に入ってください」
女の人がそう言った。
それからまもなく安琪儿と安琪儿のお母さんは、女の人に案内されて建物の中に入っていった。ぼくと老いらくさんも、中にさっと入っていった。万年亀が透明術を施してくれたおかげで、ぼくと老いらくさんは気づかれることなく中に入ることができた。
中に入ってすぐのところにロビーがあって、そこに大きな肖像画が掛けられていた。写実絵画と呼ばれる手法で描かれている油彩で、まるで写真のように見えた。
「この人は誰ですか」
安琪儿のお母さんが女の人に聞いていた。
「博士です。わたしの息子です」
女の人がそう答えていた。
肖像画の中の人物は博士の帽子をかぶり、黒いガウンをまとっていて、見るからに威厳にあふれていて、とても偉い人のように思えた。
「高潔で知性にあふれた人のように見えます」
安琪儿のお母さんはそう言ってから、肖像画の前で頭を深々とさげてお辞儀をしていた。
建物の中には廊下があって、廊下の両側には小部屋が幾つかあった。
「これらの部屋の中でマンツーマン指導がおこなわれています」
女の人がそう言った。
廊下の突き当りにも部屋があって
「ここが博士の部屋です」
と女の人が言ってから、ドアをノックしていた。
「どうぞ」
と、部屋の中から男の人の声がした。
女の人がドアを開けると、部屋の中には肖像画に描かれていた人物とそっくりの男の人がいた。
(この人が博士だろうか)
と、ぼくは思った。ドアが開いた瞬間に、ぼくと老いらくさんは部屋の中に、さっと
入っていった。ぼくも老いらくさんも姿が透明になっているので、気づかれることはなかった。
「あれ、この人、どこかで見たことがあるぞ」
老いらくさんがそう言った。それを聞いて、ぼくはびっくりした。
「たしか、たしか……、あっ、思い出した、この人はネズミ退治の薬を売っていた人だ」
ぼくがまったく思ってもいなかったことを、老いらくさんが口にしたので、ぼくは仰天した。老いらくさんの見間違いではないかと思った。
「うーん、間違いない、あの人だ」
老いらくさんが、その人をじっと見ながら、大きな声でそう言った。老いらくさんの声が博士の耳に入ったようだった。
「あれ、どこかでネズミの声が聞こえる。この部屋にネズミはいないはずだがなあ」
博士は声がしたほうを見ていた。でも老いらくさんの姿は透明になっていたから、声はしても姿を見つけることはできないでいた。
女の人が安琪儿のお母さんと安琪儿を博士のすぐ前まで連れていってから
「この親子はこれからここで治療を受けたいと言っています」
と言って、安琪儿のお母さんと安琪儿を博士に紹介していた。しかし博士はネズミの声が気になって、診察どころではなくなったように見えた。おずおずした声で
「せっかく来ていただけたのに申し訳ないが、この部屋に今、ネズミがいるようだから、衛生上よくない。明日また来てください」
と、すげなく言っていた。
「ネズミは怖くないですから、大丈夫です」
と、安琪儿のお母さんが答えていた。
「ぼくはネズミが気になると仕事が手につかなくなります」
博士がそう言っていた。釈然としなかったものの、安琪儿のお母さんは安琪儿の手を引いて、博士の部屋を出ていくしかなかった。