天気……小雨がしとしとと降っていて、寒さが骨身に染みる。一年のうちで一番寒い時季はまだこれからだが、一足早く、厳寒期に入ったように思えるほど、今日はとても寒い。
夜が明けて、外が明るくなり始めたころ、建物の玄関の鍵が開けられて、人が中に入ってきた。足音がだんだん近づいてきて、診察室のドアが開けられた。ぼくと老いらくさんはカーテンの陰に隠れながら、緊張した面持ちでドアのほうを見ていた。診察室に入ってきたのはドクターだった。ドクターは部屋の中に足を一歩踏み入れたとたん、茫然自失となっていた。机の上や床や壁際に生姜やコーラや綿あめが置かれているのが目に入ったからだ。壁にたくさん誇らしげに貼っていた賞状や証明書や感謝状が一枚もないのにも気がついてドクターは怒り心頭に発していた。
「くそっ、夜間に誰か人が入った。誰だー」
ドクターは、大声で怒鳴っていた。怒気を帯びたドクターの激しい声が建物の中に響き渡った。その声を聞いてびっくりして、慌てて走ってくる足音が、ばたばたとした。
「ドクター、どうしたのですか?」
診察室の中に入ってきたのは、知恵入りスープを子どもに飲ませる仕事をしている女の人だった。
「夜間に誰かこの建物の中に入って、部屋の中を物色している」
ドクターがそう言った。
「まあ、……」
女の人は答に詰まっていた。
「玄関の鍵はかかっていたから、どこか窓が開いていて、その窓から入ったのだろうか」
ドクターがそう言っていた。
「警察に被害届を出しましょうか」
女の人が聞いていた。
「いや、出さないほうがいい」
ドクターがそう言った。
「どうしてですか?」
女の人が、けげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「被害届を出したら、いろいろと調べられて、ここが怪しいことをしていることが表ざたになるからだ」
ドクターがそう言った。
「何を盗まれたのですか」
女の人が聞いていた。
「調べてみないと、よく分からないが、机の上や床や壁際に、生姜やコーラや綿あめが置かれていた。誰かが、この能力開発研究所や、わしの隠された秘密や過去を知ったのかもしれない」
ドクターがそう言った。
「もし、そうだとしたら大変なことになりますね」
女の人がそう言った。
「そうだな。犯人が捕まるまでは、休業するほうがいいかもしれない」
ドクターが苦渋の顔をしながらそう言った。
「……」
女の人は答に詰まっていた。
「もしかしたら犯人は内部の者かもしれない」
ドクターがそう言った。それを聞いて女の人は、びっくりしたような顔をして
「まさか、そんなことはありえないでしょう?」
と言っていた。
「分かるものか。わしが、もともとは綿あめ売りの商人だったことを知っているのは、ここの職員以外は誰もいないはずだ。知恵入りスープは生姜とコーラを混ぜて作ったものであることを知っているのも、ここの職員以外にはいないはずだ。誰かが良心に目覚めて、いやがらせのために、わざとこんなことをしたのかもしれない」
ドクターがそう言った。ドクターはそのあと女の人の顔を、疑わしそうな目で見ていた。その視線に気がついた女の人は
「わたしではありません。わたしはそのようなことは絶対にしません。他の職員も同じだと思います」
と言って強く否定していた。
「そうか、だったら、やはり、誰か外から入ったかのかもしれないな。昨日、戸締りはきちんとして帰ったのか」
ドクターが憤慨しながら、女の人に聞いていた。
「もちろん、きちんと戸締りをして帰りました。窓もきちんと閉めて帰りました」
女の人はそう答えていた。
「そうか。それなら、もう一つ考えられるのは、ネズミがこの建物の中に潜んでいて、夜中に、あちこち物色して、生姜やコーラや綿あめを戸棚の奥から引き出して、この診察室の中まで持ってきたのかもしれない」
ドクターがそう言った。それを聞いて、女の人が
「もしかしたら、そうかもしれないですね」
と、つぶやくような声で答えていた。
「ともあれ、今日は休業して、誰の仕業なのか徹底的に調べることにしよう」
ドクターが目に角を立てながら、そう言った。
「分かりました。ではわたしはこれから、玄関の前に行って『臨時休業』の札を張っておきます」
女の人はそう言ってから、診察室を出ていった。
ぼくと老いらくさんは、すきを見て、診察室の外に出た。女の人が『臨時休業』の札を貼るために玄関のドアを開けた瞬間に、ぼくと老いらくさんは玄関の外に出て、うちへ帰り始めた。すると向こうから万年亀がやってくるのが見えた。
「どうだったか。うまくいったか」
万年亀が、ぼくに聞いた。ぼくはにっこり、うなずいた。
「机の上や床や壁際に、生姜やコーラや綿あめが置かれているのを見て、ドクターがびっくりして、今日は臨時休業にするようです」
ぼくはそう答えた。
「そうか、それはよかった」
万年亀が、にんまりしながら、そう言った。万年亀はそのあと視線を上に向けて
「桜が咲いているが、今の時季に桜が咲くかな」
と言って、けげんそうな顔をしていた。
「本物の桜ではありません。人が桜の木に造花をくくりつけたものです」
ぼくはそう説明した。
「そうか、どうしてそんなことをしたのか」
万年亀が聞き返した。
「ここは桜木横丁というところで、春には桜がいっぱい咲いて、花見客の人で、とてもにぎわいます。でも今の時季は人通りが少なくて、ひっそりしています。人が少ないと、客相手の商売が儲からないので、桜の造花をくくりつけて、人を呼び込もうとしたものと思われます」
ぼくはそう答えた。
「そうか、お金儲けのために、そんなことをしたのか」
万年亀がそう言った。ぼくはうなずいた。
「ぼくたちが忍び込んだ能力開発研究所の前にも、桜の木があって、きれいな花が咲いています。それを見に来た親子が商売のターゲットになっているようです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。でもあの建物の中に隠されている真相は、わしらによって暴露されたから、ドクターがおどおどして、今日は休業するのだろう?」
万年亀が聞いた。
「そうです」
ぼくはそう答えた。
「だったら今日は、桜で人を呼び込むことはできなくなるはずだ」
万年亀がそう言った。
「そうですね。だったら、人を惹きつけないように、能力開発研究所の前にある桜の木にくくりつけてある造花の桜を、ぼくが落としましょうか」
ぼくは万年亀にそう言った。
「そうだな。そうしてくれたら、わしはうれしい」
万年亀がそう答えた。
「分かりました。ではそうします」
ぼくはそう答えてから、能力開発研究所の前にある桜の木に登って、枝に張り巡らしてある細い銅線を口にくわえて引っ張ってから下に落とした。銅線にたくさん結びつけられていた造花の桜は下に落ちてもすこしも散らなかった。ぼくは銅線を引っ張りながらゴミ箱のところまで持っていって、ゴミ箱の中に捨てた。能力開発研究所の前にある桜の木はとても寂しくなった。でもこれが今の本当の姿なのだと、ぼくは思った。枝の先にはつぼみがたくさんついていたので、春になったら、つぼみが膨らんで開花して本物の桜が咲くのだと思うと、造花の桜を取り去って木が喜んでいるようにも思えた。
しばらくしてから人が何人か能力開発研究所の前にやってきた。
「あれ、どうしてだろう。ほかの桜はみんな咲いているのに、どうしてこの桜の木だけは咲いていないのだろう」
「本当だ。地面に花びらが散ってもいない」
「昨日までは、この木にもきれいな桜が咲いていたのにね」
みんな、けげんそうな顔をしながら、建物の前にある桜の木の枝を見ていた。
「あれ、ドアの前に『臨時休業』と書かれた紙が貼ってある」
「本当だ。どうしたのだろう。何かあったのだろうか」
人々は様々な思いを述べていた。
今の時季に桜が咲くことはおかしいのに、能力開発研究所の前の桜だけが咲いていないことをいぶかしく思っているように見えた。ぼくには人々の気持ちがどこか麻痺していて、正常ではないように思えた。そのことを万年亀に話すと「わしにも人の気持ちはよく分からない」という答が返ってきた。
ぼくはこのとき、ふっとフェイナが言ったことを思い出した。「桜木横丁には明るい面も暗い面もあるから、その両面を見るべきだわ」と言っていた。あのときは、言葉の意味が、ぼくには、はっきりとは分からないでいた。しかし今、少し分かってきたような気がした。この町に住んでいる人たちの心の奥底には、外からは見えにくい屈折した複雑な感情があって、その感情のために造花の桜を見ても、素直に楽しめるのではないかと、ぼくは思った。そう思うと、ぼくは、この横丁のことをもっと知りたいという気持ちに、ますます駆りたてられていた。
夜が明けて、外が明るくなり始めたころ、建物の玄関の鍵が開けられて、人が中に入ってきた。足音がだんだん近づいてきて、診察室のドアが開けられた。ぼくと老いらくさんはカーテンの陰に隠れながら、緊張した面持ちでドアのほうを見ていた。診察室に入ってきたのはドクターだった。ドクターは部屋の中に足を一歩踏み入れたとたん、茫然自失となっていた。机の上や床や壁際に生姜やコーラや綿あめが置かれているのが目に入ったからだ。壁にたくさん誇らしげに貼っていた賞状や証明書や感謝状が一枚もないのにも気がついてドクターは怒り心頭に発していた。
「くそっ、夜間に誰か人が入った。誰だー」
ドクターは、大声で怒鳴っていた。怒気を帯びたドクターの激しい声が建物の中に響き渡った。その声を聞いてびっくりして、慌てて走ってくる足音が、ばたばたとした。
「ドクター、どうしたのですか?」
診察室の中に入ってきたのは、知恵入りスープを子どもに飲ませる仕事をしている女の人だった。
「夜間に誰かこの建物の中に入って、部屋の中を物色している」
ドクターがそう言った。
「まあ、……」
女の人は答に詰まっていた。
「玄関の鍵はかかっていたから、どこか窓が開いていて、その窓から入ったのだろうか」
ドクターがそう言っていた。
「警察に被害届を出しましょうか」
女の人が聞いていた。
「いや、出さないほうがいい」
ドクターがそう言った。
「どうしてですか?」
女の人が、けげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「被害届を出したら、いろいろと調べられて、ここが怪しいことをしていることが表ざたになるからだ」
ドクターがそう言った。
「何を盗まれたのですか」
女の人が聞いていた。
「調べてみないと、よく分からないが、机の上や床や壁際に、生姜やコーラや綿あめが置かれていた。誰かが、この能力開発研究所や、わしの隠された秘密や過去を知ったのかもしれない」
ドクターがそう言った。
「もし、そうだとしたら大変なことになりますね」
女の人がそう言った。
「そうだな。犯人が捕まるまでは、休業するほうがいいかもしれない」
ドクターが苦渋の顔をしながらそう言った。
「……」
女の人は答に詰まっていた。
「もしかしたら犯人は内部の者かもしれない」
ドクターがそう言った。それを聞いて女の人は、びっくりしたような顔をして
「まさか、そんなことはありえないでしょう?」
と言っていた。
「分かるものか。わしが、もともとは綿あめ売りの商人だったことを知っているのは、ここの職員以外は誰もいないはずだ。知恵入りスープは生姜とコーラを混ぜて作ったものであることを知っているのも、ここの職員以外にはいないはずだ。誰かが良心に目覚めて、いやがらせのために、わざとこんなことをしたのかもしれない」
ドクターがそう言った。ドクターはそのあと女の人の顔を、疑わしそうな目で見ていた。その視線に気がついた女の人は
「わたしではありません。わたしはそのようなことは絶対にしません。他の職員も同じだと思います」
と言って強く否定していた。
「そうか、だったら、やはり、誰か外から入ったかのかもしれないな。昨日、戸締りはきちんとして帰ったのか」
ドクターが憤慨しながら、女の人に聞いていた。
「もちろん、きちんと戸締りをして帰りました。窓もきちんと閉めて帰りました」
女の人はそう答えていた。
「そうか。それなら、もう一つ考えられるのは、ネズミがこの建物の中に潜んでいて、夜中に、あちこち物色して、生姜やコーラや綿あめを戸棚の奥から引き出して、この診察室の中まで持ってきたのかもしれない」
ドクターがそう言った。それを聞いて、女の人が
「もしかしたら、そうかもしれないですね」
と、つぶやくような声で答えていた。
「ともあれ、今日は休業して、誰の仕業なのか徹底的に調べることにしよう」
ドクターが目に角を立てながら、そう言った。
「分かりました。ではわたしはこれから、玄関の前に行って『臨時休業』の札を張っておきます」
女の人はそう言ってから、診察室を出ていった。
ぼくと老いらくさんは、すきを見て、診察室の外に出た。女の人が『臨時休業』の札を貼るために玄関のドアを開けた瞬間に、ぼくと老いらくさんは玄関の外に出て、うちへ帰り始めた。すると向こうから万年亀がやってくるのが見えた。
「どうだったか。うまくいったか」
万年亀が、ぼくに聞いた。ぼくはにっこり、うなずいた。
「机の上や床や壁際に、生姜やコーラや綿あめが置かれているのを見て、ドクターがびっくりして、今日は臨時休業にするようです」
ぼくはそう答えた。
「そうか、それはよかった」
万年亀が、にんまりしながら、そう言った。万年亀はそのあと視線を上に向けて
「桜が咲いているが、今の時季に桜が咲くかな」
と言って、けげんそうな顔をしていた。
「本物の桜ではありません。人が桜の木に造花をくくりつけたものです」
ぼくはそう説明した。
「そうか、どうしてそんなことをしたのか」
万年亀が聞き返した。
「ここは桜木横丁というところで、春には桜がいっぱい咲いて、花見客の人で、とてもにぎわいます。でも今の時季は人通りが少なくて、ひっそりしています。人が少ないと、客相手の商売が儲からないので、桜の造花をくくりつけて、人を呼び込もうとしたものと思われます」
ぼくはそう答えた。
「そうか、お金儲けのために、そんなことをしたのか」
万年亀がそう言った。ぼくはうなずいた。
「ぼくたちが忍び込んだ能力開発研究所の前にも、桜の木があって、きれいな花が咲いています。それを見に来た親子が商売のターゲットになっているようです」
ぼくはそう答えた。
「そうか。でもあの建物の中に隠されている真相は、わしらによって暴露されたから、ドクターがおどおどして、今日は休業するのだろう?」
万年亀が聞いた。
「そうです」
ぼくはそう答えた。
「だったら今日は、桜で人を呼び込むことはできなくなるはずだ」
万年亀がそう言った。
「そうですね。だったら、人を惹きつけないように、能力開発研究所の前にある桜の木にくくりつけてある造花の桜を、ぼくが落としましょうか」
ぼくは万年亀にそう言った。
「そうだな。そうしてくれたら、わしはうれしい」
万年亀がそう答えた。
「分かりました。ではそうします」
ぼくはそう答えてから、能力開発研究所の前にある桜の木に登って、枝に張り巡らしてある細い銅線を口にくわえて引っ張ってから下に落とした。銅線にたくさん結びつけられていた造花の桜は下に落ちてもすこしも散らなかった。ぼくは銅線を引っ張りながらゴミ箱のところまで持っていって、ゴミ箱の中に捨てた。能力開発研究所の前にある桜の木はとても寂しくなった。でもこれが今の本当の姿なのだと、ぼくは思った。枝の先にはつぼみがたくさんついていたので、春になったら、つぼみが膨らんで開花して本物の桜が咲くのだと思うと、造花の桜を取り去って木が喜んでいるようにも思えた。
しばらくしてから人が何人か能力開発研究所の前にやってきた。
「あれ、どうしてだろう。ほかの桜はみんな咲いているのに、どうしてこの桜の木だけは咲いていないのだろう」
「本当だ。地面に花びらが散ってもいない」
「昨日までは、この木にもきれいな桜が咲いていたのにね」
みんな、けげんそうな顔をしながら、建物の前にある桜の木の枝を見ていた。
「あれ、ドアの前に『臨時休業』と書かれた紙が貼ってある」
「本当だ。どうしたのだろう。何かあったのだろうか」
人々は様々な思いを述べていた。
今の時季に桜が咲くことはおかしいのに、能力開発研究所の前の桜だけが咲いていないことをいぶかしく思っているように見えた。ぼくには人々の気持ちがどこか麻痺していて、正常ではないように思えた。そのことを万年亀に話すと「わしにも人の気持ちはよく分からない」という答が返ってきた。
ぼくはこのとき、ふっとフェイナが言ったことを思い出した。「桜木横丁には明るい面も暗い面もあるから、その両面を見るべきだわ」と言っていた。あのときは、言葉の意味が、ぼくには、はっきりとは分からないでいた。しかし今、少し分かってきたような気がした。この町に住んでいる人たちの心の奥底には、外からは見えにくい屈折した複雑な感情があって、その感情のために造花の桜を見ても、素直に楽しめるのではないかと、ぼくは思った。そう思うと、ぼくは、この横丁のことをもっと知りたいという気持ちに、ますます駆りたてられていた。

