野いちご源氏物語 五〇 東屋(あずまや)

(かおる)(きみ)は小川のほとりにある岩に(こし)かけて、なかなか動けずにいらっしゃる。
「この小川だけは昔のままなのだから、亡き(はち)(みや)様や大君(おおいぎみ)面影(おもかげ)水面(みなも)(うつ)してくれてもよいのに」
そうつぶやくと、涙をぬぐって(べん)(あま)のいる部屋に立ち寄りなさった。

弁の尼も薫の君のお姿を拝見して泣いてしまう。
遠慮(えんりょ)してついたての後ろに隠れているので、薫の君は間の(すだれ)を引き上げて話しかけなさった。
異母妹(いぼまい)の姫は二条(にじょう)(いん)にお越しになっていたようだね。ちょうどそのとき私も上がったのだが、さすがに(みや)様のお屋敷内を探して声をかけることはできなかった。やはりそなたから私の思いを伝えてほしい」

「姫君の母親から手紙がまいりました。(うらな)いがどうこうと言って、姫君はあちこちで(かり)()まいしていらっしゃるようです。今はちょっとした小さな家に隠れるようにお暮らしとか。母親はそれを心苦しがって、『宇治の山荘がもう少し近ければ、娘をそちらに移すのが安心なのですけれど。あの山道ではおいそれと行かせるわけにもいかなくて』と書いてございました」

「世間で恐ろしいと言われている山道を、私はいつまでも通ってきている。どんな運命なのだろうかと我ながら思うよ」
と薫の君は涙ぐまれる。
「では、そのちょっとした家とやらに、そなたから手紙を送っておくれ。そなたが直接訪ねてくれたら一番よいのだが」

「あなた様の(おお)せを手紙にして送ることはできますが、今さら都に出ることはためらわれます。この世と(えん)を切った尼でございますから。それで二条の院にも上がらずにおりますのに」
「どうしてそんなに気を(つか)うのだ。誰が見ているわけでもあるまい。山に(こも)って修行(しゅぎょう)中の(とうと)僧侶(そうりょ)だって、時と場合によっては山を下りるものだろう。そうまでして人を救うのは、むしろ立派な行為ではないか」
「私に人を救う力などございませんよ。都が恋しくなって出てきたのだろうと(うわさ)されてしまいます」

困っている弁の尼に、薫の君はめずらしく強引(ごういん)におっしゃる。
「この機会を(のが)したくないのだ。明後日(あさって)、ここへ乗り物を()()す。そなたはそれに乗って姫をお訪ねしておくれ。けっして姫に無理なことをするつもりはない」
にっこりほほえまれても弁の尼は困ってしまう。
<どういうおつもりなのかは分からないけれど、たしかに軽率(けいそつ)なご性格ではいらっしゃらない。ご自分の世間体(せけんてい)のためにも、あくまでこっそりとお話を進めなさるはずだ>

姫君にとっても悪いことにはならないだろうと、弁の尼は承知(しょうち)した。
「かしこまりました。姫君のいらっしゃる家はあなた様のお屋敷の近くのようです。先にお手紙を送ってくださいませんか。いきなり私のような尼が出しゃばっては見苦しいことでございますから」
「手紙か。書くのは簡単だが、手紙を送れば世間の噂になりやすい。『薫の君が地方長官の娘ごときに恋文を送った』などと(さわ)がれては厄介(やっかい)だ。またその地方長官というのが、()風流(ふうりゅう)で乱暴な父親らしいな」
あぁ恐ろしいというお顔でおっしゃるので、弁の尼は笑いながらも姫君をお気の毒に思った。
浮舟の君は完全に見下されている。