天気……そよそよと吹く薫風のなかに若葉のかおりが含まれていて、とても気持ちよく感じていた。ところが、またたく間に、空がにわかに曇ってきた。『風雲急を告げる』という言葉があるが、すぐに空全体が黒い雲に覆われて、激しい竜巻が吹いてきた。逃げる間もなく、ぼくの体は一瞬のうちに空に巻きあげられて、そのあと地面にたたきつけられた。竜巻はすぐにやんで、またもとのように穏やかな天気に戻った。この間、一分にも満たない突発的な出来事だった。
翌朝、ぼくはサイロのような建物のなかで目を覚ました。小鳥たちが、さわやかな声で鳴いていて、その声に誘われるように目を覚ましたぼくは、びっくりして目を見開いた。サイロではなくて、時計台だったからだ。高い塔の上のほうに時計があって、長針と短針が時を告げているのが見えた。かなり年代物の古い時計のように思えた。作られてから少なくとも数百年は経っているような気がした。ぼくが、びっくりしたのは、それだけではなかった。長針と短針が逆に動いていたからだ。時間が経てば経つほど、早い時間に戻っていた。まるでタイムスリップしているような感覚に陥った。さらに目を凝らしながら時計を見ていると、振り子に何か灰色のものがついていて、振り子といっしょに左右に揺れているのが見えた。よく見るとネズミがぶらさがっているように見えた。
(まさか老いらくさんでは?)
ぼくはそう思ったので、もっと近くから見てみることにした。時計台の台座の下に飛びあがって、勢いをつけてから思い切りジャンプしたぼくは、うまく台座の上にあがることができた。ところが台座の上にあがっても、振り子についている灰色のものが何なのか、まだよく確かめることができないでいた。振り子がとても高い位置についていたからだ。そのためにぼくはさらに上に向かって登り始めた。するとその途中、それまで晴れていた空がにわかに曇ってきて、竜巻が起きて、ぼくの体はあっという間に空中に吹きあげられた。そのあと落下して地面に激しくたたきつけられて、目の前が真っ暗になって、ぼくは意識を失ってしまった。
それからどれくらい経ったのか分からないが、どこからか
「笑い猫、しっかりしろ」
という声が、かすかに聞こえたような気がした。意識が戻って、目をかすかに開けると、目の前に老いらくさんがいた。
体全体がずきずきして、ぼくは、たまらないほど痛かった。
「老いらくさん……、ぼくはどうなったのですか?」
ぼくは恐る恐る、老いらくさんに聞いた。
「竜巻に巻きあげられて、空から落ちたのだ。わしも同じだ」
老いらくさんが、そう答えた。
それを聞いて、ぼくはさっきのことを思い出した。
「笑い猫、わしもお前も危ない目に遭ったが、助かったのは不幸中の幸いだった」
老いらくさんが、ひとまず、ほっとしたような顔をしていた。
「それにしても、どうしたのだ、こんなところまで来て」
老いらくさんが聞いた。
「老いらくさんがいなくなったので、探しに来たのです。途中で、たまたま出会ったドブネズミから、老いらくさんが墓地に行ったかもしれないと聞いたので、墓地へ探しに行きました。いなかったので、墓地からの帰りに、ここで一晩明かして、今朝、上を見たら時計の振り子にネズミがぶらさがっているのが見えました。老いらくさんのようにも見えたので、確かめにいこうと思って登っている途中に強い風が吹いてきて、空に巻きあげられて……」
「そうか、そういうことだったのか」
老いらくさんは合点がいったような顔をしていた。
「時計の振り子にぶらさがっていたのは、やはり老いらくさんだったのですね」
ぼくが聞くと、老いらくさんがうなずいた。
「どうしてあんな危険なことをしていたのですか。落ちていたら今ごろ、老いらくさんは、どうなっていたか分からないですよ」
ぼくは語気を強めながら、戒めるように言った。
「わしのことを心配してくれてありがとう。でもわしは普通のネズミとは違うから、落ちても大丈夫だよ。死なない」
老いらくさんが平然とした顔でそう言った。老いらくさんはそのあと、時計の振り子にぶらさがっていたわけを話してくれた。
「わしがあのようなことをしていたのは、過去へタイムスリップしたいと思ったからだ。あの時計台の針は逆の方向へ動いているから、振り子にぶらさがっていたら過去へ行くことができるかもしれないと思ったのだ」
老いらくさんが真顔でそう言った。ぼくは半信半疑の顔をしながら、老いらくさんの話を聞いていた。
そのあと、ぼくが辺りを見まわすと時計台が見当たらないことに気がついた。
「あれっ、あの時計台は、どこへ行ったのですか」
竜巻の後、跡形もなく消えてしまった時計台を見て、ぼくはけげんに思って聞いた。
「あの時計台も竜巻に巻きあげられて、どこかへ行ってしまった」
老いらくさんがそう答えた。
まったく信じられないような話だったが、これは夢のなかの出来事ではなくて、実際に起きた話なのだと思うよりほかなかった。ぼくの体の痛みが消えなかったので、やはりこれは本当の話なのだと、ぼくは思った。
「老いらくさんが一言も言わないで翠湖公園を出ていったのはどうしてですか。墓地へ行ったと聞きましたが、本当ですか」
竜巻に襲われた興奮が冷めないまま、ぼくは知りたかったことを老いらくさんに聞いた。
「そうだなあ、話したいことは山ほどあるが、まず何から話そうか」
老いらくさんは、そう言って、もったいぶってからから話を始めた。
「晩春から初夏にかけてのある晩、わしは好物のフライドチキンを少々、食べ過ぎた。胃もたれを解消するために翠湖公園を出て、町へ散歩に行った。地下鉄の出入り口まで来て……」
「ちょっと待ってください、地下鉄の出入り口は人が多いところでしょう。どうして、わざわざ、そんなところに行ったのですか。人に踏まれたら危ないじゃないですか」
ぼくは、そう言って口をはさんだ。
「お前は、そう思うかもしれないが、実は、そこは一番安全なところなのだ」
老いらくさんがそう答えた。ぼくには意味がよく分からなかったから
「どうしてですか」
と、すぐに聞き返した。すると老いらくさんが
「地下鉄に乗る人はみんな、せかせかして歩いているから、わしを見る人なんか誰もいない。わしは、人の足音を聞くことが好きだから、地下鉄の出入り口は、わしにとって楽しいところだ。人によって足音が違うし、人の足音を聞くことで、これからその人が何をしようとしているのかも分かる……」
老いらくさんが、そう言った。
「ちょっと待ってください、そんなことは、どうでもいいことではないですか。もっと肝心なことを話してください」
ぼくはそう言って、老いらくさんの、とりとめもない話にくぎを刺した。
「まあ、そんなにせかすなよ。順序よく話しているのだから」
老いらくさんが不満そうにそう言った。
「地下鉄の出入り口で、わしは子孫のひとりに出会った。そのネズミは人を見たら、よい人か悪い人かを見分けることができると言っていた。よい人は来世では魂が天に昇り、悪い人は魂が地獄に落ちていくと言っていた」
その話を聞いて、ぼくは再び老いらくさんの話を、さえぎった。
「もうそれ以上、言わなくてもいいです。ぼくは昨日の夜、墓地に行ったときに、人魂が天に昇っているのを、この目で実際に見ましたから」
ぼくはそう言った。
「そうか。わしも墓地で人魂が天に昇っていくのを見たことがある」
老いらくさんがそう答えた。
「人魂を見るのは少々、怖い気がしないでもないですが、この人はよい人だったのだなあと思うと、心が幾分救われるようで、怖さが和らぎます」
ぼくはそう言った。
「人のなかには、よい人と悪い人のほかに、よくも悪くもない人もたくさんいる。その人たちの魂は来世は、どこへ行くのだろうか」
老いらくさんがそう言った。
「天に昇っていくこともできず、地獄に落ちていくこともできず、亡霊となって、いつまでも墓地の周りに漂っているのではないですか」
ぼくは想像に任せて、そう答えた。
「そうかもしれないな」
老いらくさんが、ぼくの考えに同意した。
「老いらくさんのように、よくも悪くもないネズミは来世ではどうなると思いますか?」
ぼくは老いらくさんに意地悪な質問をした。
「わしは死なないよ。仙人のようなネズミになって、これからも長く長く生きていくのだ」
老いらくさんが誇らしげに、そう答えた。
それを聞いて、ぼくは思わず、吹きだした。
「仙人のようなネズミですか?」
「そうだ、仙人のようなネズミだ。おかしいか」
老いらくさんがむっとした顔をして、そう答えた。
「いえ、おかしくありません。老いらくさんは、これまでも仙人のようなネズミとして長く生きてきましたから、これからも長く生きていくことができると思います」
ぼくはそう言った。それを聞いて、老いらくさんが、うれしそうな顔をしていた。
「お前は本当にいいことを言ってくれるね。ありがとう」
老いらくさんがそう言った。
「老いらくさんが、あの時計台の振り子にぶらさがったいきさつについて、さっき伺いましたが、興味があるので、もっと詳しく教えていただけませんか」
ぼくが話題を変えてそう言うと、老いらくさんは、うなずいてから話し始めた。
「墓地で一晩過ごして、夜が明けてから里山を下りはじめたら、急に突風が吹いてきて、わしの体は巻きあげられて、空を飛んで、そのあと地面に落ちた。気がついたら、時計台の下にいた。時計の針は動いていたし、よく見ると普通の時計とは逆の方向に回っていた。それに気がついて、わしはびっくりした。時計の振り子も、ブランコのように揺れていたので、もしかしたら、あの振り子にぶらさがったら、時間をさかのぼっていくことができるかもしれないと思った。それで、ジャンプして、振り子にぶらさがっていたのだ」
老いらくさんがそう言った。老いらくさんの話を聞いて、ぼくはようやく納得がいった。
「ぶらさがって気持ちよく揺れながら、わしは、うとうとしていた。するとそのとき、わしは不思議な夢を見た」
老いらくさんが、さらにそう言った。
「どんな夢を見たのですか」
ぼくは興味がかきたてられたので、すぐに聞き返した。
「時計台の下に、唐の時代の宮廷があって、そのなかに官人や官女がいて、みんなその当時の服を着ていた」
老いらくさんがそう言った。
「それは老いらくさんが唐の時代にタイムスリップしたからではないでしょうか」
ぼくはそう答えた。老いらくさんがうなずいた。
「そのころの人たちは、どんな生活をしていましたか。楽しそうでしたか」
「うん、とても楽しそうだった。きれいな服を着て仕事をしたり、楽器を弾いたり、本を読んで勉強したり、詩を詠んだりしていた」
老いらくさんがそう答えた。
「子どもたちもいましたか」
「うん、いたよ。若い女の人が先生をしていて、子どもたちに優しく教えていた」
老いらくさんがそう言った。
「そうですか。あのころは、若い女の先生が愛情深く教えていたのですね」
ぼくはそう答えた。
「その女の人を、どこかで見たことがあることに、わしは気がついた」
老いらくさんが、おかしなことを言った。
「何を言っているのですか。そんなことは、ありえないじゃないですか」
ぼくは異を唱えた。
「いや、確かに、どこかで見たことがある人のように思えた。あっ、思い出した。シャオパイの飼い主さんに、そっくりだった」
ぼくはそれを聞いて、思わず吹き出してしまった。
「何を馬鹿なことを言っているのですか。シャオパイの飼い主さんは現代の人ですよ。唐の時代にいるわけがないじゃありませんか。妄想もいい加減にしてください」
ぼくは、きりっとした声で、老いらくさんを戒めた。
「でも、あの人は、もともとは唐の時代の人で、現代にタイムスリップしてきている人だと考えられないこともないではないか」
老いらくさんが我を張っていた。
「シャオパイの飼い主さんは、どことなく不思議な雰囲気にあふれている人だから、わしの推測もまんざら間違っているとは限らないと思うのだがなあ……」
老いらくさんがまだ自説にこだわっていた。
シャオパイの飼い主さんのことは、ぼくもよく知っている。とてもきれいで、上品な人だ。謎めいたところもあって、それが彼女の魅力をいっそう高めている。しかし、いくら
謎めいたところがあると言っても、唐の時代からタイムスリップして来ている人だとは、ぼくには到底考えられなかった。
「わしは最近、シャオパイに会っていないので、久しぶりに会いに行かないか。会ったら、飼い主さんの隠された秘密を知ることができるかもしれない」
老いらくさんが、そう言った。ぼくはうなずいた。
それからまもなく、ぼくと老いらくさんは、シャオパイのうちをめざして走り出した。竜巻に巻きあげられて落ちたときの痛みがひりひりして、走るたびに体がうずいた。しかし今はそんなことは言っていられないと思って、ひたすら走り続けた。
シャオパイのうちがある郊外の住宅地の前に着いたとき、もうすっかり日が暮れていた。どのうちにも明かりが、こうこうとついていた。でもなぜかシャオパイのうちだけは明かりがついていなかった。
(留守なのかな?)
ぼくはそう思った。