天気……初夏の暖かい陽ざしと、時折、降ってくる柔らかな雨の恵みをいっぱいに受けて、樹木も草花も、葉がつやつやと明るく輝いている。緑豊かなこの町は、今の時季、植物の清新な若葉が、ここかしこで目につくので、若葉を見ながら、胸いっぱいに空気を吸い込むと、とてもさわやかな気持ちになる。

ぼくはここ数日、ずっと老いらくさんを探し続けていた。老いらくさんは、これまで思いがけないときに、不意に現れることがよくあったので、そのときはびっくりさせられた。ときには、わずらわしく感じることもあった。ひとりで物思いにふけっているときに、老いらくさんの姿が見えたら、うれしいというよりも邪魔をされたように感じることもあった。でも今は老いらくさんに会いたくてたまらなかった。大切な親友を急に失ってしまったような寂寥感にさいなまれて、居ても立っても居られなくなった。ぼくにとって老いらくさんが、どれほどかけがえのない大切な親友であったのか、ぼくは今、あらためて、しみじみと感じている。
老いらくさんは以前、ぼくに「晩春から初夏にかけて、よい天気が続くときは、どこか遠いところへピクニックに出かけて、お日様の暖かい光を体いっぱいに浴びながら、草むらに寝転がってロマンティックな思い出に浸りたい」と、言ったことがあった。ぼくはその言葉をふっと思い出したので、もしかしたら、老いらくさんは翠湖公園を出て、遠いところへピクニックに出かけたのかもしれないと思った。この町は大きな町なので、翠湖公園の東西南北に町が広がっている。町のあちこちに、老いらくさんの子孫がたくさん住んでいるので、もしかしたら老いらくさんは子孫を訪ねて、子孫に昔の思い出を聞かせながら、楽しかった往年のことを回想しているかもしれない。ぼくはそう思った。
いずれにせよ、ぼくは今、老いらくさんに会いたくてたまらなかったので、翠湖公園の外に出て、老いらくさんを探しに行くことにした。
まず手始めに東部地区へ探しに行った。でも老いらくさんと出会えなかった。もしいたら、ぼくのにおいを感じて、老いらくさんのほうから近づいてくるはずだ。南部地区と西部地区にも探しに行った。でもやはりここでも老いらくさんと出会えなかった。足が棒になるほど探し回ったが、結局は徒労に終わってしまった。残るのは北部地区だけとなった。ぼくは最後の望みを託して、今朝早く、北部地区へ出かけていった。北部地区には閑静な住宅地が広がっていて、どの住宅も異国情緒豊かで、おしゃれなたたずまいをしていた。見ているだけでも楽しくなってきたが、目移りしないで、ぼくはひたすら老いらくさんを探すことだけを目的として歩きまわることにした。家の敷地内に入ったら番犬に吠えられて、怖い思いをすることもある。野良猫と思われて人から追い立てられることもある。それでも危険を恐れないで、ぼくは老いらくさんを、とことん探し続けることにした。
一軒一軒探してまわるのは、口で言うほど簡単ではない。それに老いらくさんがこの住宅地にいるとも限らない。それでも、ぼくは暗中模索の状態で、老いらくさんを探し続けた。
住宅地にある家々は住んでいる人の好みによって、イギリス風、ロシア風、日本風など、様々な種類に分かれて建ち並んでいた。手始めに、ぼくはスペイン風の家から探すことにした。情熱の国のスペインは地中海に面している国で、特産のオリーブの色を模した塀で家の周りが囲まれていた。ぼくは、その塀に勢いよく飛び上がってから、下をよく見ずに、雑草が茂っているところに飛び降りた。すると、その途端、
「ぎゃー」
という悲鳴が雑草のなかから聞こえてきたので、ぼくはびっくりした。なんと雑草の下にドブネズミが隠れていて、ぼくはドブネズミの上に飛び降りたのだった。まさかそんなところにドブネズミがいるとは思っていなかったので、ぼくはネズミの声で謝りながらすぐにドブネズミの体から降りた。ぼくがネズミの声で話すのを聞いて、ドブネズミは驚愕したような目で、ぼくを見ていた。ぎょっとして一瞬、かたまって、そのあと声を震わせて
「どうか殺さないでくれ」
と、哀願していた。
「大丈夫だよ。ぼくは普通の猫とは違うから、お前を殺そうと思っているわけではない。塀の上から飛び降りたら、たまたま、そこにお前がいただけだ」
ぼくはそう答えた。
「本当ですか?」
ドブネズミはまだ、ぼくに対する警戒心を少しも緩めないでいた。
「本当だ。でも殺さない代わりに、一つだけ、お前に聞きたいことがある」
ぼくはそう言った。
「何ですか?」
ドブネズミが聞き返した。
「このあたりに、お前たちの祖先にあたる年取ったネズミが最近やってこなかったか」
ぼくがそう聞くと、ドブネズミが
「きた。やってきた」
と、答えた。
それを聞いて、ぼくは思わず、にんまりした。老いらくさんを探すのに、これまでだいぶ苦労してきたが、やっと苦労が報われたように感じた。『棚から牡丹餅』ということわざがあるが、思いがけない幸運が不意にやってきたように、ぼくは感じた。
「その年取ったネズミは今どこにいるのか」
ぼくは間髪を入れずに聞き返した。
「はっきりとは、分からないけど、いそうなところに案内することはできる」
ドブネズミがそう言った。
「では、そこへ案内してくれないか」
ぼくが頼むと、ドブネズミがうなずいた。
それからまもなく、ドブネズミが勢いよく走り出したので、ぼくも全力で走って、あとからついていった。ぼくとドブネズミは住宅地を通り抜けて、大きな通りに出て、車に注意しながら道を何度も渡って、狭い路地に入っていった。ぼくがドブネズミのあとから走っているのを見て、たくさんの人が面白そうに笑っていた。ドブネズミを捕まえようとしてぼくが追いかけているのだと、思っているようだった。人の視線は気にしないで、ぼくはひたすらドブネズミのあとを追って行って姿を見失わないようにした。
路地を通り抜けると、その先には青々としたキャベツ畑が広がっていた。ちょうど今、キャベツの収穫時期を迎えていて、農家の人たちが収穫作業を行っていた。キャベツ畑の向こうには里山があって、手に花を持った人たちが五、六人、山道を登っている姿が遠目に見えた。
「ぼくをどこまで連れていくのだ?」
ぼくはドブネズミに聞いた。
「お墓です。あの里山の上にお墓があります。ぼくたちも、あの人たちと同じようにお墓に行きます」
ドブネズミがそう答えた。それを聞いて、ぼくはびっくりした。
「どうしてお墓に連れていくのだ。もしかしたら、そのネズミは亡くなったのか」
ぼくはけげんに思って、聞き返した。
「違います。ぼくたちの祖先にあたる、そのネズミは、そこへ行くと心が落ち着くから、そこが好きだと言っていたからです」
「そうか」
老いらくさんがまだ死んでいないことが分かって、ぼくはひとまず、ほっとした。しかしそれにしても、老いらくさんが、どうしてお墓に行ったのだろうか。これまでお墓が好きだという話を聞いたことは一度もなかっただけに、ぼくにはどうしても理由がよく分からなかった。もしかしたら死期が近いことを悟って、お墓に安住の地を見いだして、翠湖公園を出て、お墓へ行ったのではないだろうか。でも老いらくさんはけっして悲観的に考えるネズミではないし、常日頃、「わしは健康面に不安はないので、まだ当面は大丈夫だと思う」と言っているので、老いらくさんがお墓にいるかもしれないというドブネズミの話が、ぼくにはどうしてもしっくりこなかった。しかしそれでも、ここはひとまずドブネズミの言うことを信じて、お墓に行ってみることにした。
里山の入口に着いてから、ぼくはドブネズミのあとに続いて、坂が険しい山道を登り始めた。途中で降りてくる人たちに何人かあった。ぼくとドブネズミが登ってくるのを見て、みんなけげんそうな顔で見ていた。ぼくもドブネズミも気に留めないで、上へ登って行った。お墓は山の中腹から山頂付近にかけて広くひろがっていた。墓標が無数に立っていて、その前で花と線香を手向けて、お墓参りをしている人たちの姿もあった。墓標の下に死者が眠っているのかと思うと、ぼくは何だか胸が圧迫されるような息苦しさを覚えた。
「ぼくたちの祖先にあたるネズミは、ここにいるはずです。ぼくはここはあまり好きなところではありません。日が暮れる前に、ぼくは山をおりて、うちへ帰ります。いいでしょうか」
ドブネズミがそう言った。
「いいよ。ここまで案内してくれたことに感謝する。あとは、ぼくがひとりで探してみることにする。気をつけて帰りなさい」
ぼくはそう言って、にっこりと笑みを浮かべた。ぼくの笑みを見て、ドブネズミが不思議そうな顔をした。
「あなたはネズミの言葉が話せるだけでなく、笑うこともできるのですね。もしかしたら、あなたは化け猫ですか?」
ドブネズミが、恐る恐る、ぼくに聞いた。
「化け猫ではない。類まれな才能に恵まれた特殊猫といったところかな」
ぼくはそう答えて、お茶を濁した。
「化け猫を見たことが、ぼくはあります。猫の顔をしているのに、人の言葉を話して、とても気持ちが悪い猫でした。幽霊屋敷で見ました。墓地には化け猫はいないそうですが、不気味な人魂が飛び交っているそうです。青白いリンの光を放ちながら、人魂が空中をさまよっていて、夜になると蛍のように飛び交っているそうです」
ドブネズミがそう答えた。
人魂と聞いて、ぼくは一瞬びっくりした。見たことはないが、うわさに聞いたことはあったからだ。見ることに怖い気がしないでもないが、せっかく墓地に来たからには、肝を据えてどんなものか見てみたいという好奇心もわいてきた。ぼくは怖がりではないので、震えあがって気を失ってしまうことはないと思う。
夕暮れが迫ってきて、西の空が茜色に染まり始めたころ、ドブネズミは、山をおりてうちへ帰って行った。それからまもなく山のふもとに広がっているキャベツ畑も、山のなかに茂っている木々も、目の前のお墓もみんな深い闇のなかに沈んでいった。ひっそりと静まり返った闇のなかに、ひとりたたずみながら、ぼくは夜空の星をぼんやりと眺めていた。ここにはお墓の数が数百はあるので、成仏できないで亡霊となったり、もののけとなってさまよっている精霊がたくさんいるはずだ。老いらくさんは昼間は姿を見せなかったが、夜間もここに留まって、亡霊や精霊をどこかで見ているかもしれない。ぼくはそう思った。しかしそれにしても老いらくさんは一体、どこにいるのだろうか。星明かりのもと、ぼくはあちこち探し始めた。注意を喚起するために、時々、声を出して呼びかけたりもした。しかし反応は何も返ってこなかった。
夜、墓地のなかにいると、不気味な感じがする。死者の魂が墓石の下からふわふわと出てきて、あたりをさまよっているようにさえ感じる。うっそうと茂っている周りの木々の上には、ふくろうが身動きもせずに、じっと止まっていて、夜の静寂のなかで、獲物を見つけようとして目を光らせていた。イノシシか何かが山のなかに潜んでいるらしく、秘かに動く動物の足音も時々、聞こえたりしていた。でも、ぼくはそれほど怖くはなかった。何でもかかってこいという気概のほうが恐怖心よりも強かったからだ。
しばらくしてから、ぼくの近くに、白い影のようなものが現れて、ふわふわと漂いながら、墓標の上を行ったり来たりしはじめた。
(これが人魂なのか)
ぼくはそう思った。噂には聞いていたものの、実際に見るのは初めてだったので、ぼくは目をかっと見開いて、白い影の動きをじっと見ていた。白い影は墓地のなかをたゆたうようにしばらく動いてから、やがて空高く上がっていって姿が見えなくなった。
白い影が消えていった夜空を見あげながら、白い影の正体について、ぼくはしばらく考えていた。人はいつかは必ず死ぬけれども、人の魂は永遠に生き続けるので、あの白い影は人の肉体から抜け出した魂だったかもしれない。魂にはよい魂と悪い魂があって、生前よいことをした人の魂は天に昇っていき、悪いことをした人の魂は地の底に落ちていく。そのような話を、ぼくは以前、杜真子から聞いたことがある。ぼくがさっき見たのはよい人の魂だったのだ。ぼくはそう思った。
夜が更けてきたので、ぼくは墓地を出て里山をおりることにした。墓地を離れる前に、もう一度大きな声で
「老いらくさん、いますか」
と呼びかけた。でもやはり反応はなかった。
墓地がある里山をおりて、キャベツ畑の間に長く延びている細い野道を歩いていたら、近くにサイロのようなものがあるのが目に入った。眠くなってきたので、ぼくはそのなかに入って寝ることにした。