黒騎士を探して

気……中秋節の前後は、一年のうちで天気が一番いい時季だ。晴れわたった空から、柔らかな太陽の光が降り注ぎ、大気中には甘い果物のにおいが漂っている。

夜が明けたばかりの森の中では、たくさんの小鳥たちがさえずり、鳴き声を競い合って、朝を迎えた喜びを思い思いの声で歌っていた。東の空は真っ赤な朝焼けに染まっていて、山の向こうから顔をのぞかせたばかりの太陽が新しい光を森の中に柔らかく注ぎこんでいた。新鮮な太陽の光を体いっぱいに浴びながら小鳥たちは『オーソレミオ(わたしの太陽)』を、それぞれの声で高らかに歌っていた。
朝八時ごろ、小鳥たちのさえずりが急に、ぴたっとやんだ。
(あれっ、どうしてだろう)
ぼくがそう思っていると、小鳥たちのさえずりと入れ替わるように、うちの中から、ピアノ調律師が歌う声が聞こえてきた。『オーソレミオ(わたしの太陽)』を歌っていた。それを聞いて、小鳥たちのさえずりがやんだわけが分かった。小鳥たちはみんな耳を澄ましてピアノ調律師の歌に聞き入っていたのだ。ピアノ調律師の歌は小鳥たちを酔わせただけでなく、木々も酔わせて、風はないのに、木の葉が小刻みにトレモロのように揺れていた。
十時ごろ、ピアノ調律師の歌声は聞こえなくなった。歌の練習が終わったようだ。小鳥たちは、再びさえずりを始めて、それからまもなく同じ種類の鳥たちと群れをなしながら、森の外に出ていった。公園や川辺や田畑など、好きな場所に行って、昼の時間を楽しく過ごすのが小鳥たちの日課になっているようだ。
森の中が静かになった十時過ぎに家のドアが開いて、ピアノ調律師が盲導犬のリードを引きながら出てきた。盲導犬は昨日と同じように背中に荷物を背負っていた。荷物の量が昨日よりも多いように見えた。背負っている二つの布袋は、どちらも膨らんでいて、盲導犬は歩くのに少し難儀しているように思えた。後ろ足に障害のある盲導犬にとって、荷物を背負って歩くのは普通の犬以上に大変ではないだろうか。ぼくはそう思った。しかし盲導犬はそれでも辛そうな顔はせずに黙々と歩いていた。
(買い物に行くにしては荷物が多すぎる。今日はどこか別のところに行くのかもしれない)
ぼくはそう思った。ヒマリーに聞いたら分かるかもしれない。しかしヒマリーは昨日の夜、うちへ帰っていったので、今、ここにはいない。ヒマリーは昨日、ぼくたちとの約束をきちんと守って、盲導犬の一日を見せてくれた。約束を果たした以上、これからはもうぼくたちと行動を共にする必要はないと言って、帰っていった。
ピアノ調律師と盲導犬は森を出ると、野道を歩き、そのあと人や車の往来が激しい大通りに出た。昨日と同じように、ピアノ調律師と盲導犬は横断歩道の端に立って、信号が青になるのを静かに待っていた。そして信号が青に変わったとたんに、左右の安全を確認しながら、道を渡り始めた。ぼくたちも盲導犬に気づかれないように、少し距離を置いて渡り始めた。道を渡り終えてから、二十メートルほど右へ行ったところにバス停があった。ピアノ調律師と盲導犬は、そのバス停まで行って、バスを待っている人たちの列の一番後ろに並んだ。バスが来た時、バスを待っていた人たちは気を遣って、自分たちよりも先にピアノ調律師と盲導犬をバスに乗せていた。ピアノ調律師がバスのステップにつまずいて転ばないように、体を支えたり、乗車後は障害者優先席に案内して座らせていた。
(何て優しい人たちなのだろう)
ぼくは、そう思った。盲導犬もピアノ調律師の横におとなしくしゃがんだ。ぼくとサンパオは、乗客の目がピアノ調律師と盲導犬に注がれているすきに乗じて、首尾よくバスに乗り込むことができた。老いらくさんも、どさくさにまぎれてバスに乗ることに成功した。バスに乗ると、ぼくとサンパオと老いらくさんは一番後ろの座席まで素早く進んでいって、座席の下にさっと隠れた。幸い、気づかれなくてすんだ。座席の下から、ぼくとサンパオは、ピアノ調律師と盲導犬をじっと見ていた。
バスはそれからまもなく動き始めて、にぎやかな市街地の中を走っていった。バスが発車してから、五つ目の停留所で、ピアノ調律師と盲導犬はバスを降りた。降りる時もまた誰かれとなく乗客が手伝ってくれて、ピアノ調律師と盲導犬を安全にバスから降ろしてくれた。ピアノ調律師はバスを降りたあと、後ろを振り返って、乗客に「ありがとう」と言っていた。ぼくとサンパオも、親切な乗客たちの思いやりにあふれる行為に感謝しながら、バスを降りた。老いらくさんも、ぼくたちのあとに続いて、バスを降りた。
降りる時に、ぼくたちは乗客に見つかってしまった。
「あれっ、猫がいる。二匹。いつのまに乗っていたのだろう」
「もしかしたら、この猫たちも盲導犬と一緒に飼われていて、盲人をサポートしているのだろうか」
乗客の勝手な推量がバスの中から聞こえてきた。しかしぼくは馬耳東風とばかりに、くすくす笑いながら聞いているだけ。まるっきり耳を貸さなかった。老いらくさんは降りる時に乗客の足に触れたらしく
「何、このボール。どうしてこんなところにボールがあるの」
と、足が触れた乗客がけげんそうな顔をしながら、スイカボールをバスの外にけり落とした。老いらくさんは痛かったのか、バスの外で、ぴょんぴょん跳び上がっていた。
バスを降りると、ぼくたちはピアノ調律師と盲導犬のあとからついていった。盲導犬が後ろをちらっと振り返った。ぼくとサンパオは、その時、盲導犬と、一瞬、目が合った。しかし盲導犬は何事もなかったかのようにすぐに前を向き直ると、ピアノ調律師を導きながら前に歩いていった。
「お父さん、盲導犬はもうすでに、ぼくたちに気がついているはずなのに、どうして、顔色ひとつ変えないの」
サンパオが、合点がいかないような顔をしていた。
「今は仕事に専心しているから、仕事以外のことに気をとられる余裕はないのだと思う」
ぼくはそう答えた。
「ぼくたちのことに気をとられて、ピアノ調律師の安全を疎かにして、事故でも起きたら大変だからですか」
サンパオが聞いた。
「そうだよ。父さんはそう思っている」
ぼくはそう答えた。
「だから、盲導犬はぼくたちに気がついても、無表情のまま、ポーカーフェースを押し通したのですね」
サンパオはそう言って納得がいったような顔をしていた。
市街地は人や車の通行量がとても多いので、道を渡る時だけでなく、歩道を歩く時も左右や斜めや後方に注意を払わないと、思わぬ事故に巻き込まれかねない。自転車が後方から勢いよく走り込んできて、すれすれのところを追い抜いていくこともある。盲導犬はそのことを意識して、細心の注意を払いながら一心不乱に任務を遂行しているように見えた。歩道橋があるところでは、盲導犬はピアノ調律師を歩道橋を渡って反対側に渡らせていた。地下道があるところでは、盲導犬はピアノ調律師を地下道を通って反対側に渡らせていた。横断するのに時間と手間はかかるが、横断歩道を渡るよりも、その方が安全だと、盲導犬が思っていたからだろう。ピアノ調律師は盲導犬のことをとても信頼していたので、盲導犬にすべてを任せているように思えた。地下道の出入り口はいくつもあったので、分かりにくかったが、盲導犬は迷うことなく正しい入口から入り、正しい出口にピアノ調律師を導いていた。地下道の一角で、盲導犬は足をとめた。ピアノ調律師は盲導犬が背負っている布袋の中からコップを取り出して水を飲んだ。そのあと少し休んでから再び歩き始めた。
しばらくすると前方から光が差し込んできた。その出口からピアノ調律師と盲導犬は地下道の外に出た。するとそこには、地下道に入る前の喧騒とは打って変わって、静かな住宅地区が広がっていた。住宅地区の正門の前には守衛室があって、守衛が監視に当たっていた。守衛はピアノ調律師や盲導犬と顔なじみらしく、姿を見るとすぐに正門を開けて中に入れてくれた。ぼくたちは正門から中に入ることはできなかったので、正門の前でしばらく立ち止まっていた。しかし守衛のすきを見て、正門の横にある鉄柵のすき間から、こっそりと中に入ることに成功した。老いらくさんは鉄柵を跳び越えて中に入ってきた。正門から入ってすぐのところに花壇があって、いろいろな花が咲いていた。ぼくたちは花を見ながら周囲の様子をうかがっていた。五階建てのアパートが七棟建ち並んでいて、ベランダには鉢植えの花が置いてあったり、毛布や洗濯物が干してある部屋もあった。
「お父さん、ピアノ調律師と盲導犬は、どうしてここに来たの」
サンパオが聞いた。
「父さんにもよく分からない」
ぼくはそう言って首をかしげた。
しばらくしてからピアノの音がアパートの中から聞こえてくるのが、ぼくの耳に入った。『オーソレミオ(わたしの太陽)』という曲だった。その曲を聞いて、ぼくは、はっとした。今朝、出かける前に、ピアノ調律師が、うちの中で歌っていた曲が、この曲だったからだ。
(もしかしたら、あれは、あのピアノ調律師が弾いているのではないだろうか)
ぼくは直感的に、そう思った。サンパオもピアノの音が聞こえてくるのに気がついていた。
「お父さん、きれいな音楽ですね」
サンパオが、うっとりした顔をしながら耳を傾けていた。
「そうだね。どの棟の何階から聞こえてくるのだろう」
並んでいるアパートを見上げながら、ぼくは、そうつぶやいた。
ぼくとサンパオはそれからまもなく花壇の外に出て、ピアノの音が聞こえてくる部屋を突き止めようと思って、あちこち歩き回った。老いらくさんもついてきた。
「あっ、あの部屋だ。このアパートの一階の一番右側の部屋だ」
サンパオがそう言った。サンパオは、ぼく以上に耳がよいので、感じ取る力が、とても速い。ぼくも耳を研ぎ澄まして、音の出どころを突き止めようとした。確かに、ピアノの音は、サンパオが言ったとおりに、このアパートの一階の一番右側の部屋から出ていた。
ぼくとサンパオはしばらく外から音を聞いていたが、部屋の中の様子をこっそり観察しながら聞いてみたいという欲求を、ぼくは抑えきれなくなった。サンパオも同じだった。ぼくとサンパオはピアノの音が聞こえる部屋のベランダまで飛び上がって、ベランダの中から、部屋の中の様子を、こっそりうかがうことにした。ぼくがまず上がり方の見本を示して、ベランダまで上がった。そのあとサンパオが、上がってきた。老いらくさんも、ジャンプをして上がってきた。ベランダの上に着くと、ぼくたちはプランターの陰に隠れて、中の様子を、そっとうかがいはじめた。
白いレースのカーテン越しに、部屋の中が見えた。部屋の中に広い客間があって、その客間の真ん中に黒いピアノがあって、あのピアノ調律師がピアノを弾いていた。盲導犬はピアノ調律師の左側に行儀よく座っていた。ピアノ調律師の右側には車いすに座った少女がいて、ピアノ調律師の指の動きを食い入るような目でじっと見ていた。とてもきれいな女の子だった。緑色の生地に花柄模様のついたセーターを着て、フリルのついたピンクのスカートをはいていた。華奢(きゃしゃ)な体つきをしていて、手も足もほっそりしていて、折れそうなほどにやせていた。
ピアノ調律師は右手と左手を巧みに動かしながら、まるでチョウが舞っているように優雅に演奏していた。低音部から中音部、そして高音部へと流麗に音が続き、そばで聞いている少女の顔は音の美しさに酔いしれているように思えた。盲導犬もうっとりした顔をしながら聞き入っているように見えた。曲のエンディングの部分では、調律師はすべての指を同時に鍵盤に当てて、部屋全体が震えるような大きな音を響かせていた。その音が余韻となってしばらく残り、たゆたうように部屋の中をゆっくりと回っているように感じられたた。
ピアノ調律師はそのあと前かがみの姿勢を取って、耳を一つひとつの鍵盤に近づけながらそれぞれの鍵盤から出る音の高さを耳を研ぎ澄ましながら調べていた。それからまもなくピアノ調律師はピアノのふたを開けた。ふたの中には、たくさんの弦が張り巡らしてあった。ピアノ調律師が、ある鍵盤を押すと、ハンマーがその鍵盤に対応した弦をたたいて音が出て、その音の振動が響板に伝わって、大きな音となっていた。
ピアノ調律師は盲導犬が背負っている布袋の中から、スパナーを取り出して、音の高さが合っていないピアノの弦をいったん緩めてから、そのあと再び徐々に締めていって、正しい音に合わせていた。作業の様子をベランダ越しに見ながら調律の仕事はこのようにするのかと、ぼくは思った。音の高さが合っていないピアノの弦は三本あったので、ピアノ調律師はそれらの弦を正しい音に合わせてから、曲を弾いた。狂った音は一つもなく、完璧な演奏だった。ピアノ調律師は自分でも満足のいく演奏ができたのか悦に入ったような顔をしていた。
ピアノ調律師はそのあと椅子から立ち上がって、盲導犬に指示を出して、椅子を横に押させた。空いたスペースに少女の車いすが入ってきた。少女はピアノと向かい合うと、一呼吸置いてから、ピアノを弾き始めた。『オーソレミオ(わたしの太陽)』を弾いた。とても上手だった。弾き終えた後、ピアノ調律師は拍手した。盲導犬も体を起こして、のどをごろごろ鳴らしながら、満足そうな顔をしていた。
少女はそのあと車いすを押して、ピアノの前から離れた。ピアノ調律師が再びピアノの前に座って、ピアノを弾いた。一曲弾き終えた後、ピアノ調律師が少女に
「今の曲は、ぼくが作った曲です。どんなイメージが曲から伝わってきましたか」
と、聞いていた。
「花のつぼみが膨らんで花が咲く時の音が聞こえました」
少女がそう答えていた。それを聞いて、ピアノ調律師は、嬉しそうな顔をしていた。
ピアノ調律師はそのあと、別の曲を弾いた。
「この曲も、ぼくが作りました。今度は、どんなイメージが曲から伝わってきましたか」
ピアノ調律師がそう聞くと、少女は
「草花が土の中で成長して、もこもこと大きくなっていく時の音が聞こえました」
と、答えていた。それを聞いて、ピアノ調律師は今度もまた嬉しそうな顔をしていた。
ピアノ調律師はそのあと、また別の曲を弾いた。
「この曲も、ぼくが作りました。今度は、どんなイメージが曲から伝わってきましたか」
ピアノ調律師がそう聞くと、少女は
「朝早く、太陽が地平線から昇ってくる時の音が聞こえました」
と、答えていた。それを聞いて、ピアノ調律師は今度もとても嬉しそうな顔をしていた。
『以心伝心』という言葉があるが、障害者同士、通じ合うものがあるのかなあと、二人の会話の内容を聞きながら、ぼくは思った。
ピアノ調律師はさらにもう一曲、弾いた。
「この曲も、ぼくが作りました。今度は、どんなイメージが曲から伝わってきましたか」
ピアノ調律師がそう聞くと、少女は
「月の光が森の中に差し込んでいる時の音が聞こえました」
と、答えていた。それを聞いて、ピアノ調律師は嬉しくてたまらないような顔をしていた。
ピアノ調律師と少女の会話の内容を、ぼくはサンパオに伝えた。するとサンパオがうっとりしたような顔で
「何と感動的なのでしょう。目が見えないピアノ調律師が心の耳でとらえて作った音のイメージを正確にとらえることができる少女の感性……」
と言った。
「そうだね。音楽で大自然のあらゆる営みを表現できることも感動的だし、音で表現したイメージを共感できることも感動的だね」
ぼくはそう答えた。
ピアノ調律師はそれからまもなく、調律に用いたスパナーを再び盲導犬が背負っている布袋の中に入れた。ピアノ調律師が帰り支度を始めたので、ぼくたちも帰ることにした。ぼくとサンパオはベランダから下に飛び降りた。老いらくさんも、ぴょんと跳んで下まで降りてきた。ぼくたちは、そのあと再び花壇の中に隠れて、ピアノ調律師と盲導犬がアパートから出てくるのを待っていた。しばらくしてから、ピアノ調律師が晴れ晴れとした顔をしながら戻ってきた。盲導犬も嬉しそうな顔をしていた。ぼくたちはピアノ調律師と盲導犬のあとからついていった。来た時と同じように、地下道をくぐったり、歩道橋を渡ったり、通りを渡ったり、バスに乗ったりしながら、森の中に帰ってきた。