天気……空は快晴で、雲一つなく、まばゆいほどの青空が広がっている。風はまったくなく、大地からは、もこもこと白い湯気のようなものが立ち昇っている。
ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら森の外へ出た。そのあと野道を歩いて市街地のほうへ向かっていた。ぼくとサンパオと老いらくさんはあとから、こっそりついていった。ピアノ調律師と盲導犬は、ぼくたちにはまったく気がついていないようだった。ピアノ調律師は全盲だから、ぼくたちの姿を目視できないが、音には敏感だから、足音を立てないようにした。盲導犬は目が見えるので、後ろを振り返って、ぼくたちに気がつくのではないかと思って、ぼくもサンパオも距離を詰めることができないでいた。
しばらくしてからヒマリーが
「もっと近づいても大丈夫だよ」
と、意外なことを言った。
「ピアノ調律師は盲導犬のリードを引きながら前に行くことに心を集中している。盲導犬は前方に障害物がないかに心を集中している。どちらも後ろのことなど気にも留めていない」
ヒマリーはそう言って、自分から率先して、距離を詰めていった。ぼくとサンパオはヒマリーのあとに続いて、ピアノ調律師と盲導犬の五メートルほど後ろを歩いた。老いらくさんは、ぼくたちよりさらに二メートルほど後ろから転がってきた。
「あの布袋の中には何が入っているのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「買ったものを入れるビニール袋と財布が入っている」
ヒマリーがそう答えた。
「以前、おれがあの人の盲導犬をしていた時、布袋を背負うのが一番嫌だった。おれは馬じゃない。犬がなんで馬のように荷物を背負わなければならないのだ」
ヒマリーの不満な気持ちが伝わってきた。
ピアノ調律師はそれからまもなく盲導犬に導かれながら、人や車が激しく行き交う大通りに出て、横断歩道を渡ろうとしていた。今は赤信号が灯っていたので、ピアノ調律師と盲導犬は横断歩道の端に立って、信号が青に変わるのを静かに待っていた。信号が青に変わったとたん、盲導犬は前に向かって歩き出した。盲導犬と一緒にピアノ調律師も前に向かって歩き出した。ぼくたちも急いで大通りの向こう側に渡った。
「ぼくたちのことに、盲導犬はもうすでに気がついているはずだよ。それなのにどうして、ちらっとも、振り返らないの」
サンパオがそう言った。
「盲導犬は今、ピアノ調律師を安全に渡らせてあげることしか頭にないのだ。どこにそんな後ろを振り向く余裕があるか」
ぼくはそう答えた。
「与えられた使命を十分に認識して、任務を立派に果たしている盲導犬。あれは間違いなく黒騎士だよ」
サンパオがそう言った。
「そうだね。父さんもそう思う。今度こそ、あのラブラドル・レトリバー犬は黒騎士に間違いないと思う」
ぼくはそう答えた。
黒騎士は地震で倒壊した建物の中から生存者を救出するという使命を十分に認識して、任務を立派に果たした災害救助犬。災害救助犬と盲導犬の仕事は、仕事の内容こそ違うものの、どちらもとても崇高な仕事。どの犬にでも簡単にできるような並大抵の仕事ではない。その二つの仕事をどちらもうまくできるのは、やはり黒騎士ならではのことだろう。ぼくはそう思った。サンパオもそう思っているようだった。
横断歩道を無事に渡り終えると、ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら、小さな路地に入っていった。ぼくたちもあとからついていった。するとその時、突然、路地の向こうから一台の自転車が勢いよく突っ込んできた。
「危ない。早くどけろ!」
自転車に乗っていた男の人が大声で怒鳴りながら、急ブレーキをかけた。自転車の勢いは止まらず、自転車は盲導犬のすぐ前まで突っ込んできて、盲導犬の体に当たる寸前まで来た。そのとき盲導犬は体をかわしてよけるのではなくて、不自由な後ろ足で反動をつけて、わざと自転車にぶつかっていった。自転車は倒れて、乗っていた人も地面に倒れた。自転車と激しくぶつかった盲導犬は痛々しそうな表情をしながら、後ろを振り返って、ピアノ調律師が無事だったかどうか確認していた。幸い、ピアノ調律師にも盲導犬にもけがはなかった。自転車に乗っていた人は地面に倒れたまま顔を上げて、にらみつけるような目でピアノ調律師を見ていた。ピアノ調律師が盲人だと分かると非難するのは忍びないと思ったのか、自転車に乗っていた人は何も言わずに立ち上がって、倒れた自転車を起こしていた。
自分を犠牲にしてでもピアノ調律師が自転車とぶつかるのを避けようとした盲導犬の勇気に、ぼくもサンパオもとても感動した。目撃した人たちも感心しきりだった。
「大丈夫でしたか」
事故を目撃した人が心配そうにピアノ調律師に声をかけていた。
「ありがとうございます。大丈夫です」
ピアノ調律師がそう答えていた。
ピアノ調律師はそれからまもなく再び盲導犬に導かれるようにして前に歩き始めた。ぼくとサンパオと老いらくさんも、あとからついていった。しばらく歩いていると、路地の左側に野菜市場があった。ピアノ調律師と盲導犬はその中に入っていった。
(野菜を買うために来たのか)
ぼくはそう思った。
「ピアノ調律師は、ほとんど毎日ここに来て、その日に摘み取ったばかりの新鮮なトマトを買う」
ヒマリーがそう言った。
「そうですか。新鮮なトマトはおいしいですからね」
ぼくはそう答えた。ヒマリーがうなずいた。
「しかしおれは、ここに来るのが嫌いだった」
「どうしてですか」
「ここは人も車も多すぎる。おれは静かなところが好きだからだ」
ヒマリーがそう答えた。
ピアノ調律師と盲導犬が買い物にやってきたのを見て、市場の中にある店の中から
「いらっしゃい、待っていたよ」
「今日は何を買いますか。安くしておきますよ」
「今朝、うちの畑から摘んできたばかりのトマトがあるよ」
と、声が飛んできた。店の人とピアノ調律師は顔なじみのように思えた。どの店の人も、自分の店の野菜を買ってもらおうと思って、愛想よく声をかけていた。
この野菜市場にあるどの店も取れたての新鮮な野菜を売りにしていた。しかしよく見ると実際には、それほど新鮮には見えない野菜も店頭に並んでいた。中には腐りかけているものさえあった。盲導犬はそのことに気がついたので、呼びかけの声には馬耳東風で聞き流すだけ。声をかける店員さんには目もくれず、野菜市場の一番奥まったところにある店までピアノ調律師を導いていった。そしてその店の前で初めて足をとめた。そこには、つやつやと光っていて、みずみずしいトマトが並べられていた。誰が見ても間違いなく摘みたてのトマトだと分かる新鮮なトマトだった。
「トマトを四つください」
ピアノ調律師がそう言った。
それを聞いて店の人は、大きくて形がよいトマトを四つ選んでから、盲導犬が背中に背負っている布袋のファスナーを開けて、ビニール袋を取り出して、その中にトマトを入れた。店の人は、そのあと別の布袋の中から財布を取り出して
「二元いただくよ」
と言った。店の人は財布の中から一元札を二枚取り出すと、盲導犬に見せてから、財布を再び布袋の中に入れた。盲導犬はそれを確認すると、ピアノ調律師を導きながら、野菜売り場を離れて行った。
盲導犬はそのあと果物売り場のほうへ向かって歩いていった。
「ピアノ調律師はリンゴが好きだから、リンゴをよく買う。ただ、どのリンゴでもいいというわけではない。買うのはいつも『バラのかおり』という品種のリンゴだけだ」
ヒマリーがそう言った。
(そこまでこだわっているのか)
ぼくはそう思った。
「色や形や大きさの微妙な違いに注視して『バラのかおり』か、そうでないかを、見分けるのは本当に大変だったよ。ピアノ調律師は目が見えないし、店の人に任せたら、そうでないリンゴをわざと売る人もいるので、おれが選んだり、監視したりしなければならなかった」
ヒマリーがそう言った。
「そうですか。それは大変でしたね」
ぼくはそう答えた。
話をしながら歩いているうちに、ぼくたちは果物売り場の前まで来た。
店先にはいろいろな果物がたくさん並んでいた。ヒマリーが言っていたように、ピアノ調律師はリンゴが好きなようで、盲導犬に導かれるままにリンゴのにおいが漂ってくるほうに向かって歩を進めていた。
リンゴのコーナーに着くと、いろいろな種類のリンゴが所狭しとばかりに並べられていた。どのリンゴも、色も形も大きさもにおいも、ほとんど大差はなく、この中から『バラのかおり』という品種のリンゴだけを選び出すのは至難の業のように思えた。人でも難しいのに犬が盲人に代わって見分けるのは、広い砂漠の中から小さな石ころを探し出すのと同じくらい難しい仕事のように思えた。それでも盲導犬は目を凝らしながら、一つひとつ
のリンゴを丁寧に調べていって『バラのかおり』を探しだそうとしていた。そしてついに四つのリンゴを選びだした。ピアノ調律師は、その四つのリンゴを一つひとつ手に取って、リンゴのにおいをかいでいた。そしてうなずいた。店の人はそれを見て、リンゴの重さをはかり、そのあと盲導犬が背負っている布袋の中にリンゴを入れた。
「全部で十二元だよ」
店の人がそう言った。
ピアノ調律師はうなずいてから、盲導犬が背負っている布袋の中から手探りで財布を探して店の人に渡した。店の人は財布の中から、一束の紙幣をつかみ取り、その全部を自分の財布の中に入れようとした。するとそれを見て、盲導犬が鋭い声で激しく吠えたてた。思わぬ事態に店の人はどぎまぎして
「分かったよ。返せばいいのだろう」
と、つぶやくように言ってから、代金の十二元だけを取って、取り過ぎたお金を再びピアノ調律師の財布に入れた。それを見て、盲導犬はようやく吠えるのをやめた。興奮していた盲導犬を見て、近くにいた人たちが手をたたいて、ほめそやしていた。
「この犬はすごいな」
「賢い犬だ」
「不正を見逃さない」
みんなそう言って、盲導犬に感心していた。お金を余分にだまし取ろうとした店の人は、その場に居づらくなって、とほほとした顔をしながら、店の奥の方へ引っ込んでいった。
果物売り場での騒ぎがおさまってからまもなく、盲導犬は今度は卵売り場の方にピアノ調律師を導いていった。卵売り場の前に着くと、盲導犬はたくさん並べられている卵パックを一つひとつ、丁寧に調べ始めた。
「ピアノ調律師は『自由卵』しか食べない」
ヒマリーがそう言った。
「『自由卵』って何ですか」
ぼくは聞いた。
「ケージの中で飼われている鶏が生んだ卵ではなくて、庭で放し飼いにされている鶏が生んだ卵だ」
ヒマリーがそう答えた。
「ケージの中で飼われている鶏は狭い空間の中にいつも閉じ込められているのでストレスがたまっていて、卵の質がよくない。庭に放し飼いにされている鶏は、いつでも自由に好きなところを歩き回れるので、健康的で卵の質がよい」
ヒマリーがそう説明した。
(なるほど、そういうわけか)
ぼくはそう思った。取れたての新鮮な野菜や、特定のリンゴや、『自由卵』しか食べないところに、ピアノ調律師の繊細な人柄を感じた。
「こんなに多くある卵の中から『自由卵』を選び出すのは至極大変なことだ。鑑識眼を試されるし、おれはこれまで何度も見間違えたことがあった」
ヒマリーがそう言った。ヒマリーはそのあと、近くにある卵を二個見ながら
「この二個のうち、どれがケージ飼いの鶏が産んだ卵で、どれが放し飼いの鶏が産んだ卵か、お前は見分けがつくか」
と、ぼくに聞いた。どちらの卵も色も形も大きさもそっくりだったので、ぼくにはさっぱり見当もつかなかった。ぼくは首を横に振った。
「おれにもよく分からない。しかしピアノ調律師は卵を割った時に出るにおいか何かで違いが分かるらしく、もし『自由卵』でなかったら絶対に口にしない。ピアノ調律師はとても穏やかな人なので、怒ることはしなかったが、卵を間違って選んでしまったおれは、あまりいい気がしなかった」
ヒマリーがそう言った。ヒマリーの話を聞いていると、ピアノ調律師の買い物に付き合う盲導犬の大変さを、ぼくは強く感じた。ぼくにはとてもできそうにない。そんなことを思いながら、目の前にいる盲導犬の一挙手一頭足を、ぼくはじっと見ていた。盲導犬は卵が置かれている台の上をじっと見ながら、パックの一つひとつを目と鼻で注意深く鑑識していた。そしてついに、あるパックを選んで、右の前足を伸ばして、そのパックを買いたいという意思を示した。それを見て店の人が感心したような声で
「たいしたものだ。この盲導犬はちゃんと見分けがつく」
と言った。店の人はそれからまもなく小さなかごを取り出して、かごの下に、わらを敷いてから一パック入れた。まぎれもなく『自由卵』だった。店の人はかごをピアノ調律師に渡した。ピアノ調律師はお金を払うと、卵売り場を離れた。ピアノ調律師はそのあと盲導犬に導かれながら、うちへ帰っていった。ぼくたちもあとから、ついていった。
ピアノ調律師と盲導犬は町を抜けて森の中に再び入り、山道を登って家まで帰ってきた。玄関の鍵を開けるとピアノ調律師は盲導犬と一緒に家の中に入り、そのあと玄関のドアを閉めた。ぼくたちは玄関の外にある大きな木に登って、茂っている枝に隠れながら中の様子を窓からうかがっていた。
「これから何をするのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「買ってきた卵やトマトを使って料理を作るよ」
ヒマリーがそう答えた。
「目が見えないのに大丈夫ですか」
ぼくは心配そうに聞いた。
「大丈夫だよ。盲導犬が料理を手伝うから」
ヒマリーがそう言った。
「盲導犬はそんなことまでできるのですか。たいしたものですね」
ぼくは感心していた。
「盲導犬がガスのスイッチや、水道の蛇口の位置を教えるので、ピアノ調律師は教えられた所にあるつまみを回したり、スイッチを押したりする」
ヒマリーがそう説明した。
「料理を作って、ご飯を食べたら何をするのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「仕事がある時は仕事に行く。仕事がない時は、昼寝をして、そのあとピアノの練習をする」
ヒマリーが、そう答えた。
「ピアノは上手ですか」
ぼくは聞いた。
「もちろんだよ。ピアノ調律師は、ピアノの腕がすごい」
ヒマリーがそう言った。
「日が暮れたら何をするのですか」
ぼくは矢継ぎ早に聞いた。
「日が暮れたら、再び森を出て、町へ行く。町のはずれに静かな公園がある。ピアノ調律師は天気のよい日は毎晩、そこへ行く」
ヒマリーがそう答えた。
「散歩ですか」
ぼくは聞いた。
ヒマリーは首を横に振った。
「あの人は芸術家だから、普通の人とは違ったことをする。散歩ではない」
ヒマリーがそう言った。
「歌の練習ですか」
「いや、それとも違う。行ってみたら分かるよ」
ヒマリーが、もったいぶった言い方をした。
「分かりました。そうします」
ぼくはそう答えた。
ピアノ調律師と盲導犬は、この日の午後は、ずっとうちにいて、外に出てこなかった。
ぼくとサンパオとヒマリーも、午後はずっと森の中にいて、あちこち探索したり、どんぐりを拾って食べたりしながら、太陽が西の空に沈むのを待っていた。老いらくさんもスイカボールの中で体を丸くして、あちこち転がりながら夕方になるまでのひとときを森の中で楽しく過ごしていた。
ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら森の外へ出た。そのあと野道を歩いて市街地のほうへ向かっていた。ぼくとサンパオと老いらくさんはあとから、こっそりついていった。ピアノ調律師と盲導犬は、ぼくたちにはまったく気がついていないようだった。ピアノ調律師は全盲だから、ぼくたちの姿を目視できないが、音には敏感だから、足音を立てないようにした。盲導犬は目が見えるので、後ろを振り返って、ぼくたちに気がつくのではないかと思って、ぼくもサンパオも距離を詰めることができないでいた。
しばらくしてからヒマリーが
「もっと近づいても大丈夫だよ」
と、意外なことを言った。
「ピアノ調律師は盲導犬のリードを引きながら前に行くことに心を集中している。盲導犬は前方に障害物がないかに心を集中している。どちらも後ろのことなど気にも留めていない」
ヒマリーはそう言って、自分から率先して、距離を詰めていった。ぼくとサンパオはヒマリーのあとに続いて、ピアノ調律師と盲導犬の五メートルほど後ろを歩いた。老いらくさんは、ぼくたちよりさらに二メートルほど後ろから転がってきた。
「あの布袋の中には何が入っているのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「買ったものを入れるビニール袋と財布が入っている」
ヒマリーがそう答えた。
「以前、おれがあの人の盲導犬をしていた時、布袋を背負うのが一番嫌だった。おれは馬じゃない。犬がなんで馬のように荷物を背負わなければならないのだ」
ヒマリーの不満な気持ちが伝わってきた。
ピアノ調律師はそれからまもなく盲導犬に導かれながら、人や車が激しく行き交う大通りに出て、横断歩道を渡ろうとしていた。今は赤信号が灯っていたので、ピアノ調律師と盲導犬は横断歩道の端に立って、信号が青に変わるのを静かに待っていた。信号が青に変わったとたん、盲導犬は前に向かって歩き出した。盲導犬と一緒にピアノ調律師も前に向かって歩き出した。ぼくたちも急いで大通りの向こう側に渡った。
「ぼくたちのことに、盲導犬はもうすでに気がついているはずだよ。それなのにどうして、ちらっとも、振り返らないの」
サンパオがそう言った。
「盲導犬は今、ピアノ調律師を安全に渡らせてあげることしか頭にないのだ。どこにそんな後ろを振り向く余裕があるか」
ぼくはそう答えた。
「与えられた使命を十分に認識して、任務を立派に果たしている盲導犬。あれは間違いなく黒騎士だよ」
サンパオがそう言った。
「そうだね。父さんもそう思う。今度こそ、あのラブラドル・レトリバー犬は黒騎士に間違いないと思う」
ぼくはそう答えた。
黒騎士は地震で倒壊した建物の中から生存者を救出するという使命を十分に認識して、任務を立派に果たした災害救助犬。災害救助犬と盲導犬の仕事は、仕事の内容こそ違うものの、どちらもとても崇高な仕事。どの犬にでも簡単にできるような並大抵の仕事ではない。その二つの仕事をどちらもうまくできるのは、やはり黒騎士ならではのことだろう。ぼくはそう思った。サンパオもそう思っているようだった。
横断歩道を無事に渡り終えると、ピアノ調律師は盲導犬に導かれながら、小さな路地に入っていった。ぼくたちもあとからついていった。するとその時、突然、路地の向こうから一台の自転車が勢いよく突っ込んできた。
「危ない。早くどけろ!」
自転車に乗っていた男の人が大声で怒鳴りながら、急ブレーキをかけた。自転車の勢いは止まらず、自転車は盲導犬のすぐ前まで突っ込んできて、盲導犬の体に当たる寸前まで来た。そのとき盲導犬は体をかわしてよけるのではなくて、不自由な後ろ足で反動をつけて、わざと自転車にぶつかっていった。自転車は倒れて、乗っていた人も地面に倒れた。自転車と激しくぶつかった盲導犬は痛々しそうな表情をしながら、後ろを振り返って、ピアノ調律師が無事だったかどうか確認していた。幸い、ピアノ調律師にも盲導犬にもけがはなかった。自転車に乗っていた人は地面に倒れたまま顔を上げて、にらみつけるような目でピアノ調律師を見ていた。ピアノ調律師が盲人だと分かると非難するのは忍びないと思ったのか、自転車に乗っていた人は何も言わずに立ち上がって、倒れた自転車を起こしていた。
自分を犠牲にしてでもピアノ調律師が自転車とぶつかるのを避けようとした盲導犬の勇気に、ぼくもサンパオもとても感動した。目撃した人たちも感心しきりだった。
「大丈夫でしたか」
事故を目撃した人が心配そうにピアノ調律師に声をかけていた。
「ありがとうございます。大丈夫です」
ピアノ調律師がそう答えていた。
ピアノ調律師はそれからまもなく再び盲導犬に導かれるようにして前に歩き始めた。ぼくとサンパオと老いらくさんも、あとからついていった。しばらく歩いていると、路地の左側に野菜市場があった。ピアノ調律師と盲導犬はその中に入っていった。
(野菜を買うために来たのか)
ぼくはそう思った。
「ピアノ調律師は、ほとんど毎日ここに来て、その日に摘み取ったばかりの新鮮なトマトを買う」
ヒマリーがそう言った。
「そうですか。新鮮なトマトはおいしいですからね」
ぼくはそう答えた。ヒマリーがうなずいた。
「しかしおれは、ここに来るのが嫌いだった」
「どうしてですか」
「ここは人も車も多すぎる。おれは静かなところが好きだからだ」
ヒマリーがそう答えた。
ピアノ調律師と盲導犬が買い物にやってきたのを見て、市場の中にある店の中から
「いらっしゃい、待っていたよ」
「今日は何を買いますか。安くしておきますよ」
「今朝、うちの畑から摘んできたばかりのトマトがあるよ」
と、声が飛んできた。店の人とピアノ調律師は顔なじみのように思えた。どの店の人も、自分の店の野菜を買ってもらおうと思って、愛想よく声をかけていた。
この野菜市場にあるどの店も取れたての新鮮な野菜を売りにしていた。しかしよく見ると実際には、それほど新鮮には見えない野菜も店頭に並んでいた。中には腐りかけているものさえあった。盲導犬はそのことに気がついたので、呼びかけの声には馬耳東風で聞き流すだけ。声をかける店員さんには目もくれず、野菜市場の一番奥まったところにある店までピアノ調律師を導いていった。そしてその店の前で初めて足をとめた。そこには、つやつやと光っていて、みずみずしいトマトが並べられていた。誰が見ても間違いなく摘みたてのトマトだと分かる新鮮なトマトだった。
「トマトを四つください」
ピアノ調律師がそう言った。
それを聞いて店の人は、大きくて形がよいトマトを四つ選んでから、盲導犬が背中に背負っている布袋のファスナーを開けて、ビニール袋を取り出して、その中にトマトを入れた。店の人は、そのあと別の布袋の中から財布を取り出して
「二元いただくよ」
と言った。店の人は財布の中から一元札を二枚取り出すと、盲導犬に見せてから、財布を再び布袋の中に入れた。盲導犬はそれを確認すると、ピアノ調律師を導きながら、野菜売り場を離れて行った。
盲導犬はそのあと果物売り場のほうへ向かって歩いていった。
「ピアノ調律師はリンゴが好きだから、リンゴをよく買う。ただ、どのリンゴでもいいというわけではない。買うのはいつも『バラのかおり』という品種のリンゴだけだ」
ヒマリーがそう言った。
(そこまでこだわっているのか)
ぼくはそう思った。
「色や形や大きさの微妙な違いに注視して『バラのかおり』か、そうでないかを、見分けるのは本当に大変だったよ。ピアノ調律師は目が見えないし、店の人に任せたら、そうでないリンゴをわざと売る人もいるので、おれが選んだり、監視したりしなければならなかった」
ヒマリーがそう言った。
「そうですか。それは大変でしたね」
ぼくはそう答えた。
話をしながら歩いているうちに、ぼくたちは果物売り場の前まで来た。
店先にはいろいろな果物がたくさん並んでいた。ヒマリーが言っていたように、ピアノ調律師はリンゴが好きなようで、盲導犬に導かれるままにリンゴのにおいが漂ってくるほうに向かって歩を進めていた。
リンゴのコーナーに着くと、いろいろな種類のリンゴが所狭しとばかりに並べられていた。どのリンゴも、色も形も大きさもにおいも、ほとんど大差はなく、この中から『バラのかおり』という品種のリンゴだけを選び出すのは至難の業のように思えた。人でも難しいのに犬が盲人に代わって見分けるのは、広い砂漠の中から小さな石ころを探し出すのと同じくらい難しい仕事のように思えた。それでも盲導犬は目を凝らしながら、一つひとつ
のリンゴを丁寧に調べていって『バラのかおり』を探しだそうとしていた。そしてついに四つのリンゴを選びだした。ピアノ調律師は、その四つのリンゴを一つひとつ手に取って、リンゴのにおいをかいでいた。そしてうなずいた。店の人はそれを見て、リンゴの重さをはかり、そのあと盲導犬が背負っている布袋の中にリンゴを入れた。
「全部で十二元だよ」
店の人がそう言った。
ピアノ調律師はうなずいてから、盲導犬が背負っている布袋の中から手探りで財布を探して店の人に渡した。店の人は財布の中から、一束の紙幣をつかみ取り、その全部を自分の財布の中に入れようとした。するとそれを見て、盲導犬が鋭い声で激しく吠えたてた。思わぬ事態に店の人はどぎまぎして
「分かったよ。返せばいいのだろう」
と、つぶやくように言ってから、代金の十二元だけを取って、取り過ぎたお金を再びピアノ調律師の財布に入れた。それを見て、盲導犬はようやく吠えるのをやめた。興奮していた盲導犬を見て、近くにいた人たちが手をたたいて、ほめそやしていた。
「この犬はすごいな」
「賢い犬だ」
「不正を見逃さない」
みんなそう言って、盲導犬に感心していた。お金を余分にだまし取ろうとした店の人は、その場に居づらくなって、とほほとした顔をしながら、店の奥の方へ引っ込んでいった。
果物売り場での騒ぎがおさまってからまもなく、盲導犬は今度は卵売り場の方にピアノ調律師を導いていった。卵売り場の前に着くと、盲導犬はたくさん並べられている卵パックを一つひとつ、丁寧に調べ始めた。
「ピアノ調律師は『自由卵』しか食べない」
ヒマリーがそう言った。
「『自由卵』って何ですか」
ぼくは聞いた。
「ケージの中で飼われている鶏が生んだ卵ではなくて、庭で放し飼いにされている鶏が生んだ卵だ」
ヒマリーがそう答えた。
「ケージの中で飼われている鶏は狭い空間の中にいつも閉じ込められているのでストレスがたまっていて、卵の質がよくない。庭に放し飼いにされている鶏は、いつでも自由に好きなところを歩き回れるので、健康的で卵の質がよい」
ヒマリーがそう説明した。
(なるほど、そういうわけか)
ぼくはそう思った。取れたての新鮮な野菜や、特定のリンゴや、『自由卵』しか食べないところに、ピアノ調律師の繊細な人柄を感じた。
「こんなに多くある卵の中から『自由卵』を選び出すのは至極大変なことだ。鑑識眼を試されるし、おれはこれまで何度も見間違えたことがあった」
ヒマリーがそう言った。ヒマリーはそのあと、近くにある卵を二個見ながら
「この二個のうち、どれがケージ飼いの鶏が産んだ卵で、どれが放し飼いの鶏が産んだ卵か、お前は見分けがつくか」
と、ぼくに聞いた。どちらの卵も色も形も大きさもそっくりだったので、ぼくにはさっぱり見当もつかなかった。ぼくは首を横に振った。
「おれにもよく分からない。しかしピアノ調律師は卵を割った時に出るにおいか何かで違いが分かるらしく、もし『自由卵』でなかったら絶対に口にしない。ピアノ調律師はとても穏やかな人なので、怒ることはしなかったが、卵を間違って選んでしまったおれは、あまりいい気がしなかった」
ヒマリーがそう言った。ヒマリーの話を聞いていると、ピアノ調律師の買い物に付き合う盲導犬の大変さを、ぼくは強く感じた。ぼくにはとてもできそうにない。そんなことを思いながら、目の前にいる盲導犬の一挙手一頭足を、ぼくはじっと見ていた。盲導犬は卵が置かれている台の上をじっと見ながら、パックの一つひとつを目と鼻で注意深く鑑識していた。そしてついに、あるパックを選んで、右の前足を伸ばして、そのパックを買いたいという意思を示した。それを見て店の人が感心したような声で
「たいしたものだ。この盲導犬はちゃんと見分けがつく」
と言った。店の人はそれからまもなく小さなかごを取り出して、かごの下に、わらを敷いてから一パック入れた。まぎれもなく『自由卵』だった。店の人はかごをピアノ調律師に渡した。ピアノ調律師はお金を払うと、卵売り場を離れた。ピアノ調律師はそのあと盲導犬に導かれながら、うちへ帰っていった。ぼくたちもあとから、ついていった。
ピアノ調律師と盲導犬は町を抜けて森の中に再び入り、山道を登って家まで帰ってきた。玄関の鍵を開けるとピアノ調律師は盲導犬と一緒に家の中に入り、そのあと玄関のドアを閉めた。ぼくたちは玄関の外にある大きな木に登って、茂っている枝に隠れながら中の様子を窓からうかがっていた。
「これから何をするのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「買ってきた卵やトマトを使って料理を作るよ」
ヒマリーがそう答えた。
「目が見えないのに大丈夫ですか」
ぼくは心配そうに聞いた。
「大丈夫だよ。盲導犬が料理を手伝うから」
ヒマリーがそう言った。
「盲導犬はそんなことまでできるのですか。たいしたものですね」
ぼくは感心していた。
「盲導犬がガスのスイッチや、水道の蛇口の位置を教えるので、ピアノ調律師は教えられた所にあるつまみを回したり、スイッチを押したりする」
ヒマリーがそう説明した。
「料理を作って、ご飯を食べたら何をするのですか」
ぼくはヒマリーに聞いた。
「仕事がある時は仕事に行く。仕事がない時は、昼寝をして、そのあとピアノの練習をする」
ヒマリーが、そう答えた。
「ピアノは上手ですか」
ぼくは聞いた。
「もちろんだよ。ピアノ調律師は、ピアノの腕がすごい」
ヒマリーがそう言った。
「日が暮れたら何をするのですか」
ぼくは矢継ぎ早に聞いた。
「日が暮れたら、再び森を出て、町へ行く。町のはずれに静かな公園がある。ピアノ調律師は天気のよい日は毎晩、そこへ行く」
ヒマリーがそう答えた。
「散歩ですか」
ぼくは聞いた。
ヒマリーは首を横に振った。
「あの人は芸術家だから、普通の人とは違ったことをする。散歩ではない」
ヒマリーがそう言った。
「歌の練習ですか」
「いや、それとも違う。行ってみたら分かるよ」
ヒマリーが、もったいぶった言い方をした。
「分かりました。そうします」
ぼくはそう答えた。
ピアノ調律師と盲導犬は、この日の午後は、ずっとうちにいて、外に出てこなかった。
ぼくとサンパオとヒマリーも、午後はずっと森の中にいて、あちこち探索したり、どんぐりを拾って食べたりしながら、太陽が西の空に沈むのを待っていた。老いらくさんもスイカボールの中で体を丸くして、あちこち転がりながら夕方になるまでのひとときを森の中で楽しく過ごしていた。

