嘘つきと疫病神

 周りの音という音が消える。視界が真っ白になり、真ん中に彼女の貼り付けた笑顔が浮かんだ。

「私と一緒にこの店から、この世界から逃げ出すのはどう?」

 もう一度、彼女は同じような誘惑の言葉を並べる。聞き入れるべきではない、こんなのただの誘惑でしかない。そう理解しているのに、脳は彼女の言葉で支配されていく。

「に、げる……?」

 否定することも、肯定することもできない。薬でも盛られてしまったのだ。きっとそうだ、そうでないと彼女がこんな事言うはずがない。
 そう頭では分かっているのに。

「……なんてね。無理だからここにいるんですもの、戯言でしか無いわよね」

 一度瞬きをすれば、そこには見慣れた彼女の優しい笑顔があった。この一瞬の出来事が嘘であったと思うほどに、些細な変化である。
 しかし何故だろう。彼女の表情が何処か悲しげに見えるのは。

「蕗ちゃんと風柳が飲める年になったら、ここでぱーっとやりたいなあ!」
「俺は遠慮しておきます。芝さん酔うと面倒くさそうなので」
「何だ、つれないな。蕗ちゃんはどうだい? 酒はなくてもちょっとした宴会なら気を負わなくてもいいだろう」
「そうですね。ここでなら何でも楽しいと思います」

 紬の言う通り、芝や仁武や小瀧がいるだけで彼女達の表情が見違えるほどに明るくなる。
 江波方には持ち合わせない愛嬌、巧みな話術、学力。彼らには手を伸ばしても届かない。
 だから紬一人を相手にしても、すぐに会話を途切れさせてしまう。話したいことは山ほどあるはずなのに、言葉が上手く生み出せない。

「私、本当に何言っているんだろう。ごめんなさい、困らせたわよね」
「い、いえ。気にしないで、くだ、さい……」

 少ない人数とはいえ騒がしいはずなのに、どうしてこんなにも寂しいと感じるのだろう。
 何故、芝は自分の行く末を知っているのに明るく取り繕えるのだろう。何故、仁武は自分よりも目上の相手に対して、生意気にも気兼ねなく接することができるのだろう。何故、小瀧は持ち合わせた学力を使って大学院に入らなかったのだろう。もっと違う人生があったはずなのに。
 考えれば考えるほど彼らに対する嫉妬と、劣等感が募っていく。

「おい、江波方。聞いているのか?」
「江波方さん、このままだと俺達と一緒に外周追加で走らされますよー」
「え! 嘘! 風柳くんそれ本当!?」
「嘘ですよ。気を向けるために嘘を吐くものではありません」

 違うのかとほっと胸を撫で下ろすと、全員の視線が自分へと向けられていることに江波方は気がつく。
 皆が向ける表情は優しく、温かい。それまでに感じていた劣等感など嘘のようである。

「……やっと笑った」
「え……」

 聞き返すよりも先に彼女は席を立ってしまう。呼び止めれば振り返ってくれたのだろう。
 しかし今は、そんな勇気など持ち合わせていない江波方だった。