少しづつ町の人々も活動を始め、騒がしくなり出した頃。
「朝からお疲れ、二人とも」
何気ない世間話に花を咲かせていると、不意に背後から仁武の声が聞こえた。
数日前の一件が頭を過ぎり、無意識の内に振り返ることを躊躇していたらしい。
「風柳くん、御機嫌よう」
和加代の上品な挨拶が一拍先に耳に届き、慌てて蕗は振り返る。自分の過ちで引き起こした失態だというのに、今になって後悔してしまうのはもはや恒例であろう。
「お、おはよう、仁武」
「うん、おはよう」
これまでと何ら変わりない優しい笑顔。悩み、躊躇していたのは自分だけだったのかと錯覚するほどにいつも通りである。
事情などまるで知らない和加代は、
「それじゃあ、私はこれで」
と言ってその場を去ろうと動き出す。さすがに気まずさが勝り、呼び止めようとするのだが。
「おや、皆さんお揃いで」
その時、仁武のものではない男性の声が和加代の動きを止めた。
蕗は仁武の背後を覗き込む。真っ直ぐと前を見つめる和加代の先にいたのは、仁武と同じ兵士の小瀧という男である。
物腰柔らかい雰囲気と眼鏡が相まった柔和な男は、軍帽の庇を指先で摘み会釈してみせた。
「こっ、小瀧さんっ!?」
「和加代さんはこれから学校ですか? 互いに朝早くからというのは難儀なものですね」
大人の余裕というものだろうか、小瀧の言葉は一つ一つが丁寧であり隙がない。
その反面、学生鞄を胸の前で抱き抱えた和加代の頬は林檎の如く真っ赤に染まっている。微かに身体を仰け反らせ、何やら見てはいけないものを見たようだ。
「ほっ、本当、そうですよね! 小瀧さん達もいつもお疲れ様です。それじゃあ、私はこれで!」
「あっ! 和加代!?」
蕗の声などまるで届かず、和加代はその場をあっという間に逃げ去ってしまった。
取り残された三人は、華奢な彼女の背中を呆然と見つめることしかできない。しばらくしてから蕗と仁武は顔を見合わせ、苦笑を零した。
小瀧の方に目を向けると、先程和加代が走り去って行った方向を見つめたまま微動だにしていない。
眼鏡の奥の目が優しく細められ、愛おしげにその方向を見つめているのだ。
「おーい、小瀧さん」
「……あ、ああ。すみません」
仁武が声を掛けると、はっと我に返った彼はズレてもいない眼鏡を直す仕草を見せ、微笑みながら柳凪の店内へと入っていった。
そんな小瀧の行動に違和感を感じちらりと横目で仁武を見ると、ニヤニヤと笑いながら半開きの扉を見ていた。
「はっはーん。なるほどねぇ」
「どうかした?」
「相思相愛ってやつだ」
問題が解けた子供のように自信に満ち溢れた表情を向ける。普段ならば何を言っているんだと切って捨てるところだが、この時ばかりは彼の言葉に頷いた。
「仁武にも分かるんだ」
「あんだけ分かりやすかったらな」
数日前までぎこちない雰囲気が流れていたというのに、今ではこうして笑い合えるのだから不思議なものである。彼の場違いな切り替えの速さと気さくさが、何度も蕗を救っていた。
そんなことを仁武が知ることはないのだろうけれど。
笑う仁武の横顔を見て、蕗の胸の奥に浮かぶのは真実を知ってしまった仁武の苦しげな表情だった。
「朝からお疲れ、二人とも」
何気ない世間話に花を咲かせていると、不意に背後から仁武の声が聞こえた。
数日前の一件が頭を過ぎり、無意識の内に振り返ることを躊躇していたらしい。
「風柳くん、御機嫌よう」
和加代の上品な挨拶が一拍先に耳に届き、慌てて蕗は振り返る。自分の過ちで引き起こした失態だというのに、今になって後悔してしまうのはもはや恒例であろう。
「お、おはよう、仁武」
「うん、おはよう」
これまでと何ら変わりない優しい笑顔。悩み、躊躇していたのは自分だけだったのかと錯覚するほどにいつも通りである。
事情などまるで知らない和加代は、
「それじゃあ、私はこれで」
と言ってその場を去ろうと動き出す。さすがに気まずさが勝り、呼び止めようとするのだが。
「おや、皆さんお揃いで」
その時、仁武のものではない男性の声が和加代の動きを止めた。
蕗は仁武の背後を覗き込む。真っ直ぐと前を見つめる和加代の先にいたのは、仁武と同じ兵士の小瀧という男である。
物腰柔らかい雰囲気と眼鏡が相まった柔和な男は、軍帽の庇を指先で摘み会釈してみせた。
「こっ、小瀧さんっ!?」
「和加代さんはこれから学校ですか? 互いに朝早くからというのは難儀なものですね」
大人の余裕というものだろうか、小瀧の言葉は一つ一つが丁寧であり隙がない。
その反面、学生鞄を胸の前で抱き抱えた和加代の頬は林檎の如く真っ赤に染まっている。微かに身体を仰け反らせ、何やら見てはいけないものを見たようだ。
「ほっ、本当、そうですよね! 小瀧さん達もいつもお疲れ様です。それじゃあ、私はこれで!」
「あっ! 和加代!?」
蕗の声などまるで届かず、和加代はその場をあっという間に逃げ去ってしまった。
取り残された三人は、華奢な彼女の背中を呆然と見つめることしかできない。しばらくしてから蕗と仁武は顔を見合わせ、苦笑を零した。
小瀧の方に目を向けると、先程和加代が走り去って行った方向を見つめたまま微動だにしていない。
眼鏡の奥の目が優しく細められ、愛おしげにその方向を見つめているのだ。
「おーい、小瀧さん」
「……あ、ああ。すみません」
仁武が声を掛けると、はっと我に返った彼はズレてもいない眼鏡を直す仕草を見せ、微笑みながら柳凪の店内へと入っていった。
そんな小瀧の行動に違和感を感じちらりと横目で仁武を見ると、ニヤニヤと笑いながら半開きの扉を見ていた。
「はっはーん。なるほどねぇ」
「どうかした?」
「相思相愛ってやつだ」
問題が解けた子供のように自信に満ち溢れた表情を向ける。普段ならば何を言っているんだと切って捨てるところだが、この時ばかりは彼の言葉に頷いた。
「仁武にも分かるんだ」
「あんだけ分かりやすかったらな」
数日前までぎこちない雰囲気が流れていたというのに、今ではこうして笑い合えるのだから不思議なものである。彼の場違いな切り替えの速さと気さくさが、何度も蕗を救っていた。
そんなことを仁武が知ることはないのだろうけれど。
笑う仁武の横顔を見て、蕗の胸の奥に浮かぶのは真実を知ってしまった仁武の苦しげな表情だった。



